人物
中川三郎兵衛 浅草田原町に屋敷を持てる旗下の士、五十歳位 時 江戸時代、安永から延享へかけての出来事 所 第一幕 一一 江戸、第二幕 一一 木曽山中、第三幕 一一 耶馬渓(仮に後代の称呼に従う) 衣装と道具に就て 一一 衣装は呉服店の広告人形に着せるが如き、仕立下しの華美なるを避けたし、温雅にして目立たざるほどよろし。第一幕の大道具も小成金の住宅の如く安手に新しきを避けたし。 第一幕
江戸田原町中川三郎兵衛の邸。安永三年の秋の初、月夜の晩。 市九郎 (必死な懸命な顫えを帯びた声で)御容赦なさりませ、不義ではござりませぬ、毛頭不義ではござりませぬ。(そう云いながら、逃げ路を物色しているのであるが、庭には垣根が周らされている上、若し庭に下りると相手に太刀を振う自由を与えそうなので必死に柱を楯に取っている) 三郎兵衛 (沈痛しかも必死な声で)申すな、申すな、この期に及んで、命を助かろうなどと未練者奴! 市九郎 無実でござります。無実でござります。大それた・・・。お部屋様と、そのような・・・。大それた事を・・・。 三郎兵衛 くどい! (飛び込み様、柱を避けて打ち下す。市九郎身を躱して右に避く。三郎兵衛、太刀を引いて、右より斬り下す。市九郎左に避く) 三郎兵衛 (いらって)面倒なッ! (柱を廻る、市九郎も、それに従って、グルグル三四回周りし後、市九郎遂に柱より追い退けられ、庭に下りて一周り逃げ廻る。が、垣根の柴折戸は、鎖されている。若し開けようとすれば、後から浴びせられるのは必定なので、また引き返して、三郎兵衛をやり過して座敷きへ飛び上り襖より逃れようとするとき、ふと置いてある燭台に手がかかる。其処を三郎兵衛が、追い縋って肩口に薄手を負わせる) 市九郎 ああっ! (悲鳴を挙げると、思わず燭台を手にして立ち向う。燭台の打消えて、周囲は月光に照らされた薄暗になる) 三郎兵衛 おのれ!主に手向い致すか不埒者奴が! (前よりも、もっと烈しく斬りかかる。数合の凄じき打合あり。市九郎追い詰められて、危くなる。三郎兵衛の太刀先遂に市九郎の小鬢を傷つける) 市九郎 おおっ! (悲鳴を挙げて、決死の形相となり、猛然として戦い始める。まず燭台を相手に抛附ける。その尖端が、三郎兵衛の面部を打ったため、三郎兵衛タジタジとなってひるむ。その暇に、市九郎は帯びている脇差を抜き放つ。無言の必死な決闘が始まる。三郎兵衛の太刀は、時々天井を掠めるので不利である。切り合いながら、二人とも縁側に近づく。先ず縁側に出た市九郎は、不覚にも足を滑らして片膝を付く。三郎兵衛得たりと、斬り下ろそうとしたが、あせった為め誤って縁側と座敷の中間に垂れている鴨居に深く切り込む。市九郎天の助けとばかり、片膝をつきながら、横に敵の脇を払う。三郎兵衛悲鳴を挙げながら、よろめき倒れる。 市九郎、魂の抜けたる如く、縁側にへたばって、低いうめき声を出しているばかりである・・・ 二三分の間、死にかかっている三郎兵衛と市九郎のうめき声が聞える外、舞台に何の動作もない。市九郎は、漸く顔を上げて、まだビクビク動いている主人の死体を見ている。それが、ピタリと動かなくなると急に悔恨の情に駆られたるものの如く脇差を取り直して、腹を寛ろげようとする。その時、座敷の隅の屏風が揺れる。お弓の顔が現われる。蒼白で、身体は、ガタガタと徴かに顫えているが、そうした内心の恐怖を努めて隠そうとしている) お弓 (市九郎の自殺しようとするのを、尻目にかけながら)ほんとうにまあ、どうたる事かと思って心配したよ。お前が真二つにやられた後は、追っつけわたしの番じゃあるまいかと、屏風の蔭で、息を擬して見ていたのさ。余程逃け出そうか、逃げ出そうかと思ったのだが、斬られそうになっているお前への義理もあってね。が、ほんとうに命拾いだったね。お互様に、悪運が尽きないんだよ。こうなっちゃ、一刻も猶予してはいられないから、在金をスッカリさらつて、高飛びをする事だね。まだ母屋の方では、気が附かないようだから、支度をするのは、今の裡だよ。さあお前、在金を探して見ようじゃないか。 市九郎 (女が喋舌っている間、何時の間にか自殺を思い止っている。が、まだ茫然として途方にくれている)ああ飛んでもねえ事をしてしまった。大それたお主殺しだ。 お弓 (男の云うことを相手にしないで)お前、述懐なんかの幕じゃないよ。男らしくもない、さあしゃんとおしよ。わたしは支度をして来るから、お前はお金を探しておくれよ。 市九郎 ああ飛んでもねえ。お主殺しだ。お主殺しだ。磔のお主殺しだ。 お弓 (市九郎を引き起すようにしながら)一刻を争う九死の場合じゃないか。さあ、早く支度するのだよ。 (市九郎、女に操らるる如く、立ち上り、三郎兵衛の死骸を遠く避けながら、茶箪笥に近づきて探し始める。血の手形が、桐の白い木目にところどころベタベタと附く。お弓、次の間へ行って暫くして風呂敷包みを持って、直きに帰って来る) お弓 幾何あったの。 市九郎 (声を落しながら)二朱銀の五両包みが、たった一つさ。 お弓 (自分でも茶箪笥に近よりながら中を引っ掻き廻す)こんな端金が、どうなるものかね。鎧櫃を探して御覧!軍用金とやらを、入れてあるかも知れないよ。 市九郎 (前よりは、やや元気になって、鎧櫃を開けて鎧を持ち上げて振って見ながら)ここもからっぽだ! お弓 (いまいましそうに)名うての始末屋だから、瓶にでも入れて土の中へでも、入れてあるのだろうよ。急場の間には合やしない。さあ、大抵のところで、切り上げて、人目にかからない前に、行くとしよう。 (市九郎、血に汚れた手を、手水鉢にて洗いながら帯をしめ直す) お弓 (ふと三郎兵衛の死骸に、目をやりたがら)これでも二年近くも、お世話になった旦那だ!どら、一寸拝んで行こう。(立ちながら、片手を上げて拝む) 市九郎 (黙ったまま跪いて、死骸に向って両手を合せる・・・ (二人行きかかる) お弓 裏門の鍵は持っているだろう。 市九郎 お役目だ。腰から離した事はねえ。 お弓 お誂向きだわねえ。(艶然と笑う) (月光は益々冴えている。二入が柴折戸をあけて出かかると、母家の方で乳母が歌う声がする。「お月様いくつ、十三七つ、まだ年や若い、油買いに茶買いに 一一」いたいけな男の子の声が、それを繰り返して歌う) 市九郎 (柴折戸を出ようとして、男の子の歌う声にじっと聞きとれる)ああ坊っちゃんだ! お弓 (柴折戸を出ながら)お前さん!何をぼんやりしているんだよ。(と強く男の手を引く) (二人去ってしまう。月の光の裡に、母家の方で尚歌いつづけている裡に、静かに幕)
第二幕
第一場木曾街道鳥居峠にて、市九郎とお弓とが営める茶店の店先。第一幕より二三年の後。藁葺の大なる家、右手半分は土間になっている。左手半分は壁になっている。壁にも入口が附いている。土間には、草餅、羊羹、乾柿など並べてある。二つの細長き腰掛あり、障子には、そば、かん酒と書いてある。背景は、一面の杉林。家を覆うて一株の老桜あり。蕾がふくらみ始めている。幕開くと、馬士の権作、家の横手の杉に馬を繋ぎ、腰掛に腰をかけながら、店の奥に向って次の如く話している。 権作 こう姐御!そう因業なことを、云わんと置け、勘定は勘定、商売は商売じゃねえか。この春先の景気で、一儲けすりゃ、滞りの勘定位はキレイさっぱり払ってやろう。さあ、文句は云わねえで、清く一本つけてくれねえか。 (答なし) 権作 こう姐御!そう意地わるくするもんじゃねえ。勘定と云ったって、高が一両か、一両二分かだろう。もう少し旅の衆が出盛って見ねえ、それっぱかしの目腐れ金は、二日か三日の働き高じゃねえか。 お弓 (姿は見えないで)お前さんが、稼いだ金を神妙に妾の家へ持ち込むような御仁だったら、五両でも十両でも文句を云わずに、貸して上げるわさ。二分はおろか二朱の金でも手にすると、藪原へ行って安女郎を買うか、チョボ一ですってしまう外、能のねえお前さんじゃないか。 権作 (怒って、腰掛を離れながら)利いた風な事を、ぬかしやがるない。手前達のようだ悪党夫婦が、お天道様の真下で、恐れ気もなく暮して行けるのは、何方様のお目こぼしだと思っているのだい。へん、忘れもしねえ、一昨年の秋の彼岸の翌くる日さ、藪原の宿の手前で、人殺しがあると云うから行って見ると、殺されているのは六十ばかりの旅の年寄さ。可哀そうに、衣類から道中差まで、スッカリ浚われている後に、落ちているのが煙草入れさ。年寄持の品じゃねえと、心を止めて見ると駭いた。何処かに見覚えのある品物さ。よくよく見ると、見覚えのあるのも道理、木曾山中じゃ滅多に見られない江戸細工の煙草入れさ。 お弓 (まだ姿を現わさないで)その話でお前さんは、何度酒にしたか分らないじゃないか。そう云うなら妾の方でも云い分があるんだ。月日は、お前さんのように、ハッキリとは覚えていないが、何でも去年の夏の事さ、抜け参りが流行って、この街道筋を、唐笠に道中杖一つの道者達が、ひっきりなしに続いた時さ。日暮方にまだ十六七の小娘が、シクシクと泣きながら駈け込むから家へ入れて容子を聞くと、駭くじゃないか。鳥居峠の登り口で、行き合わせた馬士に手籠めに遭い、路用の金をそっくり持って行かれたのだとさ。その馬士の人相を聞いて見ると、眉毛が芋虫のように太くって・・・。 権作 (苦笑いをしながら)ヘへん!その話なら、此方から附け足したい事があるんだ。泣きながら駈け込んで来た小娘を、深切ごかしに騙かして、福島の茶屋女に叩き売ったのは誰だったのだ。 お弓 お前ばかりに、うまい汁を吸われて堪るものか。お前さんが、上手に出りゃ此方だって上手に出るのだ。だがなあ、権作さん、「狐獲られて狸安からず」と云う諺を、お前聞いたことがあるかい。妾、常々そう思っているんだよ。万一暗い処に入るようなことがあったら、なるべく連れの多い方がいいからね。お前さんや、あの奈良井の辰蔵なんて云う人は、そうしたお交際もしておくれだろうね。 権作 (去ろうとして)脅かしやがるない。俺なんかどんなにヒドイ目にあっても、高々永牢だ。お前さん夫婦のような獄門首と、並べられて堪るもんか。(憤然として、馬を解いて去らんとす) お弓 (初めて土間の方へ現れて、権作の飲みたる茶碗を片づけながら)権作さん!お茶代を置く金もないのかい。 権作 (いまいましそうに)口のへらない女郎だな。 (鈴の音をさせながら去る。やや月並なれども、権作の歌う木曾節を聞かせてもよし。お弓、茶道具を神妙に片づけている。この時、左の入口より、市九郎生欠伸をしながら出て来る。第一幕よりもやや険兇の相を帯び、古びたる黄八丈の着物に三尺帯を締めている。お弓、それを見ると荒々しく) お弓 もうお前、八つを廻っている時分だぜ。なんぼ用がない身体だって、あんまりじゃないか。少し性根を入れ更えて、おっつけ一仕事しておくれでないと、お鳥目だっていくらも、残っていやしないんだよ。 市九郎 (やや不機嫌に、お弓を見返しながら)あたたかいお天道様だな。もう、スッカリ春だな。 お弓 (腰掛に腰をかけて休みながら、煙草を喫い始める)何を呑気な事を云っておいでだ。長い長い冬寵りで、去年の秋に稼いだ五十両も、幾何も残って居やしないんだよ。お前と妾とで、日に二升近くも御酒をいただくんだから、無理もないんだが。 市九郎 (頭を垂れながら)その故でもあるめいが、この頃はどうも頭が重くって、気がめいっていけねえ。春先の生あたたかいのが、却って身体に悪いのかも知んねえなあ。 お弓 (もどかしそうに)そんな事よりも、お前さん、いい鳥のかかり次第しっかりしてくれなきゃ、いけないよ。 市九郎 おい煙草を一服吸わしてくんねえ。 (お弓、自分が喫っていた煙草と煙管を市九郎に渡す。市九郎入口の横の壁を背にしながら蹲まって、煙草を喫っている。若い旅の夫婦が近づいて来る) 若き夫 もう、藪原の宿が見えてもよさそうだな。 若き妻 麓では一里も登れば、目の下に見えると云うておりましたが。 若き夫 疲れはしないかい。 若き妻 いいえ。 若き夫 茶店がある。一服して行こう。 (お弓二人を見ると満面の笑みを以て迎える) お弓 さあ、どうぞ、おかけなさいまし。さぞお疲れでございましょう。この街道は山坂ばかりでございますのにお足弱がお連れでは、さぞ不自由でございましょう。 若き夫 (妻と共に、腰をかけながら)この峠は、街道一の切所じゃと聞いたが、もうこれからは下りでございましょうな。 お弓 はあはあ、もう下りでございますとも。御覧あそばせ、あの谷が開けて、麦畑が拡っている所がござりましょう。 若き夫 (延び上りながら)なるぼど。 お弓 あの真中にある松並木が、藪原に入る街道でござります。ほれほれ、あの夕日に光る大屋根が見えましょう。あれが宿の入口にある妙本寺と云う寺でござります。 若き夫 なるほどな。もう二里とあるまいな。 お弓 二里は愚か、一里と少しでござりますな。ゆっくりお休み遊ばしても、暮六つ前には、楽にお着きになれまする。 若き夫 藪原の名物はお六櫛、たしか、そうでありましたな。 お弓 そうでござりまする。お帰りの道中では、たんとお買い遊ばしませ。 (この間、お弓は茶を饗し、菓子を出す。若き妻は、折々市九郎を気味悪く振り返る) お弓 時に何方までの旅でござりまするか。 若き夫 左様、伊勢参宮から、京へ上って、名所めぐりをする積りじゃが、時宜に依っては大和へも廻ろうかと思っておりまする。 お弓 日数から云うても、お費用から云うても、結構な思召立でござりますな。それにしても、お供の衆が見えませぬが。 若き夫 何処へ行っても、そう云うて、不審を打たるるのじゃが、有様は心利いた下男を伴うて出たのじゃが、松本のお城下まで参ると急に病み附いたので、代りの者を呼ぶのも費なのでそのまま宿屋へ残したまま、立って来ましたのじゃ。 お弓 水入らずの方が、結局気楽でござりましょうな。 若き夫 (妻を見返りて、意味もなく笑う)一休みしたほどに、さあ行きましょう、もうほんの一息じゃ。 お弓 まあ、ごゆっくりなさいませ。日は高うござります。 若き夫 早う宿屋に着いた方が何かに附けて便宜じゃ。これはいかい雑作になった。お茶代はここへ置きまするぞ。(去ろうとする) お弓 有難うござりまする。お帰りに、是非お立ち寄りなさいませ。それでは、道中御無事に。 (お弓、しばらく二人を見送っている、市九郎は、漠然として煙草を喫みつづけている。お弓急に気が附いたように、奥へ駈け入ったかと思うと、市九郎の脇差を持って、馳け出して来る) お弓 (刀を夫の肩の辺へ、差し付けながら)さあ!お前さん! 市九郎 (空とぽけたように不機嫌に)な、な、何をするのだい。 お弓 (少し語気を荒らげて)おとぼけじゃないよ。仕事だよ。大切な仕事じゃないか。 市九郎 (厭な顔をしながら)何だ!あの人達をかい!思いやりのねえ。(お弓を跳ね退けるように立ち上る) お弓 何が思いやりがねえのだい。お前さんこそ、思いやりがねえじゃないか。妾が、先刻から、どうかして少しでも長く引き止めようと、あせっているのに、アッケラカンと煙草なんか喫ってさ。さあ!ぐずぐずしていないで、オイソレと行っておいで。 市九郎 (やや強く)おらあ!厭だ。相手にもよりけりだ。ああした楽しそうな夫婦者を、とっちめるなんていくらこうした稼業でも、余り罪作りだからねえ。 お弓 お前さんのように、年寄は厭だの、子供は嫌いだの、夫婦者はいやだのと云っていた分には、此方とらの商売は上ったりだよ。仏心のついた盗賊位、厄介なものはありゃしない。・・・お前さんも考えて見るがいい。妾だって昔は満更捨てた女でもなかったのだよ。馬道小町とまで、浅草界隈で、人に騒がれた妾が、木曾の山奥まで流れて来て、山猿同様のしがねえ暮しをしているのも、一体誰の為だとお思いなのだえ。みんなお前さんというお主殺しの悪党を、亭主にしている為じゃないかえ。 市九郎 (首をうなだれたまま、黙って、つっ立っている)・・・ お弓 お前さんのお交際をして上げる代りにはさ、日に三度々々のおまんまと、好きなお神酒は文句なしに飲ましてくれる位の分別はしてくれても、満更罰も当るまいじゃないか。 市九郎 (やや憤然として)大きな口を利くじゃねえ。手前に云い分がありゃ、俺の方にだって云い分はあるんだ。中川様のお邸で、年期を無事に勤め上げて、御家人の株でも、買っていただこうと、御主人大事に勤めていた神妙な俺を、迷わして、おそろしや!お主様を手にかけさせたのは、一体何処の何奴だと思っているのだ。 お弓 (あざ笑って)ふふん!面白くもない。妾に迷おうと迷うまいと妾の知った事じゃないじゃないか。そんな過ぎさった昔のことを、クヨクヨ思い暮すより、毒を喰わば皿と云うじゃないか。おいしい酒でも浴びるように飲んでいたいわね。どうせお主様を、手にかけた、この脇差じゃないかい、今更、人一人二人助けたって罪の軽くなるお前さんじゃないだろう。・・・(やや相手を宥めるように)それに、あの人達をやってしまわなければいけないと云うのじゃないよ。打ち見た所まだ世間を知らねえ豪家の若旦那らしいから、荒療治をしなくたって、白刃で脅しさえすりゃ、身ぐるみ捲き上げるのは雑作もない事じゃないかえ。考えて御覧!五十両百両と纏まった金を懐にした旅馴れないお客様は、そう繁々と通るものじゃないよ。それに私がほしいのは!あの女の方が着ていた小紋縮緬さ!妾もあんな着物を偶には手が通して見たいわさ。 市九郎 (漸くお弓から、脇差を受け取りながら)鬼の女房にに鬼神と云うが、手前の方が悪党は二三枚上だ。仕方がねえ、行って来よう。 お弓 (市九郎の背をポンと叩きながら笑って)いやな人だねえ。屈託顔なんかしてさ。 市九郎 酒を持って来い。冷でいいから。 お弓 行って来てからにおしな。おかんをして置くから。 市九郎 持って来いったら。 お弓 (奥へ入って不承不承に酒を持って出て来る)可哀そうだなんて思っていると、とかくどじをやるものだよ。 市九郎 (無言にガツガツと樽の口から、むさぼり飲む)ああ苦い酒だ。(樽を地に抛ちながら急いで去る) お弓 (後を見送りながら)お伊勢まいりから、京上りという長い旅なら、五十両は間違いない。(急に身顫いさせながら)日が入りかけると、まだ寒い。(山寺の鐘の音が聞えて来る)おやもう暮六つの鐘かしら。(幕静かに下る) 第二場前場より、一刻ばかり過ぎたる後。前場と同じ場所、同じ家。前場の舞台を右に転じたるが如き舞台。茶店の奥の部屋。左にも入口あり。戸外には月が出ている。お弓はただ一人蓮葉に坐りながら三味線を取出して爪弾きをしている。が、幕が上ると、直ぐ糸が切れるので、乱暴に放り出してしまう。煙草盆を引き寄せて自棄に煙草を喫いつづける。市九郎登場する。小脇に衣類を束にして、かい込んでいる。時々後を振り返る。自分の家に近づくと、ホッとしたように、入口の敷居に腰を下す。 お弓 (耳聡く聞き附けて)誰!謹!お前さんかい! 市九郎 (黙ったまま返事をしない)・・・ お弓 (立ち上りながら)誰!誰!(障子を開ける)何だ!やっぱりお前さんじゃないか。そんな所にぐずぐずしていないで早くお上りよ。思いの外に早かったねえ。 市九郎 (上へ上る。が、やっぱり黙ったままでいる)・・・ お弓 首尾は?上首尾?(市九郎の持っている衣類を取上げて見ながら)おお無傷だねえ。お前さんも、よっぽど仕事がうまくなったねえ。おお、いい紋縮緬だね。いくら品がよくっても、血がはねている着物なんか、いくら妾だって、禁物だが、さあ、ゆっくりお寛ぎよ。ちゃんとおかんもつけてあるから、一杯飲みながら、話を聞こうじゃないか。 市九郎 (蒼白な顔をしながら、黙ったまま座に着く)・・・ああ疲れた 一一 お弓 ああお前さん、またくよくよしているんだねえ。やっぱりやってしまったのかい。その方が、いっそ片がついてキレイさっぱりだよ。 市九郎 (頻に重く頭を振りながら)ああいけねえ。追い脅しだけで、命は助けてやろうと思ったが、女の方が、血迷って、「あれ茶店の亭主だ。」と口走るものだから、仕方なしにやってしまった。ああ何だか腹の底が、底力がなくなった。ああ、一杯ついでおくれ。 お弓 それでお前さん、お鳥目はいくらだったのだい。 市九郎 (懐から、二つの胴巻と、男物と女物との財布を出しながら)道中を心配したと見え、夫婦で別けて持っているのだ。まだ勘定して見ねえが、手答えじゃ四十両だな。 お弓 どれお見せ。(その場へ浚い出しながら)小判が三十枚に二分銀が二十枚、二朱銀が三四十枚あるよ。ザット五十両。近頃にない豊年だね。(衣類を膝の上に乗せながら)それに衣装が嬉しいわねえ。緋縮緬の長襦袢に、繻珍の昼夜帯だね。(ふと気が附いたように)一寸お前さん、頭の物はどうおしだえ。 市九郎 頭の物?頭の物とは何だい。 お弓 そうだよ。頭の物だよ。あの女の頭の物だよ。 市九郎 (黙して答えず)・・・ お弓 紋縮緬の着物に、緋縮緬の長襦袢じゃ、頭の物だって擬い物の櫛や笄じゃあるまいじゃないか。妾は、先刻あの女が、菅笠を取った時に、チラと睨んで置いたのさ、べっこうの対に相違なかったよ。 市九郎 (黙したまま答えず)・・・ お弓 (のしかかるようになって)お前さん!まさか取るのを忘れたのじゃあるまいね。@瑁だとすれば、七両や八両が所は、たしかだよ。あんな金目のものを取って来ないなんて、駈け出しの泥棒じゃあるまいし何の為に殺生をするんだよ。あれだけの衣裳の女を殺して置きながら、頭の物に気が附かないなんて、お前さんは何時から、こうした商売を、お始めたのだえ。どじをやるのにも、程があるじゃないか。どうお思いなんだえ。何とか云って御覧よ。 市九郎 (苦々しげに)むごたらしい事を云うじゃねえか。身ぐるみ剥がして来たのだから、髪かざりだけは、せめて女のたしたみに冥途まで、附けさせてやったって、満更罰も当るめえぜ。 お弓 へへん、利いた風たお説法はよしなさいよ。あのまま捨てて置きゃ、野伏せりの乞食位が,濡手で粟の拾い物になるのじゃないか。さあ、一走り気軽に取っておいで。 市九郎 (女に対する烈しい憎悪を起しながら)女は女同志、男は男同志と云うことがあるが、手前も殺された女の身になって見るがええ。少しは女同志で可哀相とは思わねえのかい。 お弓 (嘲笑的に)ほほう、鬼の眼に涙とは、よく云ったものだ。そんなに可哀そうなら、その豆しぼりの手拭で、グッとやらなければいいのに。 市九郎 (ゾッとしたように、自分の腰に下げた手拭を取りはずしながら)ああつくづくこうした仕事が厭になって来た。 お弓 それもどじな仕事をやるからだよ。四の五の云わずに、さあお前さん!一走り行っておいでよ。夜に入ったら、犬の子一疋通らない街道筋だ。まだそのままになっているのに違いないから、一走り行って来るんだよ。折角、此方の手に入ったものを遠慮するには当らないじゃないか。又遠慮する柄でもないじゃないか。 市九郎 (黙々として応ぜず)・・・ お弓 おや!お前さんの仕事のアラを拾ったので、お気に触ったと見えるねえ。くどいようだが、本当に行く気はないんだね。十両に近い儲け物を、みすみすふいにしてしまう積りだね。 市九郎 (黙々として答えず)・・・ お弓 いくら云っても行かないのだね。それじゃ、私が一走り行って来ようよ。場所は何時もと同じ処だろうね。 市九郎 (吐き出すように)知れたことよ。藪原の宿の手前の松並木さ。 お弓 (立ち上って、裾をはし折りながら)じゃ一走り行って来よう。月夜で外はあかるいし・・・本当に世話のやけるお泥棒だ。(庭へ降り、草履をつっかけて行きかけんとす) 市九郎 (振り向いてギロリと女を睨みながら)手前本当に行くのかい。 お弓 行くのがどうかしたのかい。 市九郎 悪事にも程があるものだぜ。 お弓 (戸外へ出ながら)へん、大きな世話だ。ああ、いい月夜だ。(小走りに去る) 市九郎 (立ち上って)ああ到頭行ってしまいやがった。(戸外へ出る)熊笹を分けて走っている恰好は、人間じゃありゃしねえなあ。死体につく狼のようだな。)しばらく跡を見送った後蹌踉として家に入る、膳に附いてあった徳利を取って、一気に飲み干す)ああ魔だ、俺にくっ憑いている魔だ。(頭を抱えしばらく身をもだえる、ふと傍にあった男物の衣類に目を附け、触って見た手を灯に透かして見る)血だ。やっぱり血が附いている。(茫然として前方を見詰める)グッとやった時に、白い二つの手が蛇か何かのように俺の手に捲きつきやがった。ああ堪らねえ。(不快な記臆を払いのけんとし、身もだえする。しばらくしてふと気が附いたように)そうだ。あの女の帰らない中だ。(立ち上って押入より二三枚の衣類を取り出す。手早く風呂敷に包む。ふと女が膳の横に置いて行った盗んだ金の財布に目が附く。懐に収める)ああ百年の恋も醒めてしまったな。(急ぎ足で戸外に出る。ふと懐の金に手をやる。立ち止まって考える。二二歩後帰りして考える。到頭憤然としてとって返し)汚れた金だ!(つよく家の中に投げ込む。財布より飛び出た小判は燦然たる光を放って、家の中に散乱する。市九郎は一散に走り去る)
一一 幕 一一
第三幕
第一場第二幕より、二十年余を隔てし延享二年の春。所は、九州耶馬渓青の洞門(便宜のため後代の称呼を用う)洞門の入口。右手に岩石が削られて、山国川の流の一部が見えている。他は、舞台一面稍灰白を帯びた岩壁、岩壁の中央に、高さ三間横四間位の洞穴が口を開けている。周囲には小さな石塊がぞろぞろ落ち散っている。川に依って、杉の若葉が数本生えている。岩壁の端れを、桟道が危く伝っている。鎖を力に渡る、鎖渡しである。幕が開くとやや身分のあるらしい老人、物売の女、馬を連れた百姓が危げに鎖渡しを順次に渡って来る。渡ってしまうと皆舞台にて暫らく休息する。 老人 (ホットしたように石に腰かけながら)年に一度宇佐の八幡様へお参りの心願を立てたのもええが、この鎖渡しだけはいつもいつも命がけの難所じゃ。この頃は風も吹かいで桟が掛けかえたばかりで新しいから、命の心配はないものの年寄には、足元が危うて、危うて。 物売の女 妾などは、樋田郷のもので、毎日一度は通い馴れておりますけれど、雨の日で桟の滑る時とか、風で桟が揺れる時にはほんまに命がけで御座んすのう。 百姓 (馬を引きながら、漸く桟道を、渡って来て)ああ大骨を折らせたな。中途で、暴れ出すまいかと思って、ビクビクものじゃったわい。 物売の女 (百姓に)作蔵さん、ほんまに、気を附けないかんぜ。馬を連れる時は、ほんまに危いけに。去年の柿坂の新右衛門さんのように、馬諸共に、ころげこむと命が無えからのう。 百姓 (冗談に)せめて、お前との相対死じゃ、浮名も立つけれど、馬との相対死じゃほんまに犬死じゃけにな。(洞窟の入口から、石工が二人石塊を担って出て来る) 百姓 やあ、庄どん。えろう、精が出るのう。ちっとは捗が行ったかのう。 石工の一 (石塊を下し、その上に、腰かけながら)俺が来た時とちっとも変っておらんわい。相手が大磐石の岩じゃけに、半年や一年で物の十間と、彫れはせんわい。 百姓 そうじゃろう。そうじゃろう。俺などは初は針の穴からお天道様をのぞくほどの及びも附かぬ仕事じゃと思っておったのじゃ。それにしても感心なのは、了海様の御辛抱じゃ。初は、気違坊主じゃの騙りじゃなぞと、俺などは若い時には了海様の後から、小石の一つ二つは、ぶっ喰わしたことがあるのじゃ。が、あの御辛抱には、みんなが頭を下げてしまったのじゃ。郡奉行様の御褒美が下ってからは、石工の数も倍になったと云うのう。 石工の一 今日日じゃ、八分通りはくり貫いたから、もう一息じゃ。了海様は、この頃は夜もロクロクに枕には就かれぬのじゃ。 老人 わしも、どうかしてこの刳貫が出来るまでは、生き延びていたいと思うのじゃ。この向きじゃ、わしの願いも叶いそうじゃ。 百姓 山国七郷の百姓が、今では頸を長うして出来るのを待っておるのじゃ。わしも植附でも済んだら、今年もお手伝いしようと思っとるんじゃ。了海様だけに働かせては冥加が恐ろしいからのう。 (この時、下手より又数名の百姓登場す) 百姓の二 (洞穴の入口に行きて、耳を聳てながら)ああ深うなっとるのう。これでも、二三年前までは、鎚の音が入口まで聞えて来たものじゃが。 百姓の三 深うなっとる。深うなっとる、俺はもう一年半と云う見込で、隣村の林八と賭をしたが、この向きじゃ、わしの勝だな。 百姓の四 太い野郎じゃのう。了海様が、土にまみれて働いてござらっしゃるのに、罰が当るぞえ。 百姓の三 なに、了海様は了海様で、俺は自分の罪亡しにしていることじゃ。お前たちが恩に被ることはないと、口癖のように仰しゃるじゃろう。 百姓の四 何の罪滅しの為だけに、こんなどえらい事が出来るものか。みんな衆生済度と云う御本願があるからじゃ。俺も、暇になったらお手伝いじゃ。 百姓の三 偽を云え。お前は、毎年々々お手伝いじゃと云いながら、一度も鎚をとったことはないじゃろう。 百姓の四 お前だって同じ事じゃないか。 (百姓達が、話している間に、実之助登場する。質素なる旅姿。木綿の旅合羽を着ている。洞穴を見ると、やや興奮した体にて、周囲の地形を見、右手に行く鎖渡しを見て引き返し洞穴の中を見る。この間百姓達の注意を引きつつあり) 実之助 (漸く百姓の二に話しかく)卒爾ながら、少々物を訊ねる。この洞窟の中に、了海と申す出家がおるそうじゃが、しかと左様か。 百姓達 (口々に)おらないでどうしようぞ。了海様なら、この洞窟の主同然の方じゃわ。 実之助 左様か。それなら、尚訊ぬるが年の頃は、およそ何程じゃ。 石工の一 (いぶかしげに未知の武士を見ながら)了海様ならもう五十を越した方じゃ。やがて六十に手の届く方じゃ。 実之助 (落着いて)生国は、越後柏崎じゃと聞き及んだが。 石工の一 へえ、何でも雪の沢山降る国じゃと云うことで。 実之助 若年の折、江戸で奉公いたしたとは聞かなかったか。 石工の二 ああ聞いたことがある。俺に一度江戸の浅草観世音の繁昌を語って下さったことがある。 実之助 (漸く緊張しながら)よくぞ教えてくれた。して、この洞窟の出入口は、ここ一カ所か。 石工の一 ほう、それは知れたことじゃ。向うへ口を開けるために、了海様は塗炭の苦しみをしておられるのじゃ。 実之助 奥行は凡そ幾町ぞ。 石工の二 そんなことを訊かされて、何にせらるるのじゃ。 実之助 (少しく思案して)了海殿とやらに、御意得たいのじゃ。(つかつかと奥へ入ろうとする) 石工の一 お待ちなされませ。初めてのお人では歩かれませぬわい。石が、彼方にも此方にも突き出ている上に、穴なども折々ありまする。 実之助 それでは、其方に頼みがある。越後からはるばる尋ね参った者じゃと云うて取次ではくれられぬか。 石工の二 それでは、俺が一走り行って来よう。(馳け入る) 百姓の二 了海様の身寄の方でござりますか。了海様にはこの山国七郷の者が、みんないかい御恩になっております。忝う思っております。(頭を下げる) 老人 (進み出でながら)越後と九国の端とでは、お聞き及びにもなりますまいが、了海様は、この谿七郷の者には、持地菩薩さまのように有難い方でござります。御恩になっております。(頭を下げる。他を顧みて)御身寄の御武家様じゃ。みんなお礼を申し上げい。(皆一斉に頭を下げる。実之助精神的にやや困惑しながら軽く応ずる) 老人 まさか。お子様ではござりますまい。甥御様でござりますか。よう御尋ねて御座らしゃった。一体何処でお聞きになりましたか。 実之助 武者修業の傍、諸国を尋ね廻ったが、当国の字佐の八幡にて、人手に聞きました。 老人 それこそ真に神様のお引き合せじゃ。 百姓の二 今年で、二十年でござります。長い間、一心不乱にお働きになりました。何でも、お若い時に罪業をお重ねになった罪滅しだと仰せられて、この頃では、夜まで鎚を振っておられまする。 実之助 (半ば独言のように)重ねた罪業の罪滅しと云うのか。だが主殺しの悪逆は消えまいて。(ハハハハと嘲る如く笑う) 老人 お主殺しまで。ほほう。が、それもあの御精進では消えておりましょう。 実之助 消えているか消えていぬか、今に分明いたすであろうぞ。(ハハハハと冷笑する) (人々やや実之助を疑い始める。各々の間に私語を始める。その時、了海が石工二人に両手を取られながら、出て来る。実之助ひそかに目釘をしめす。肉悉く落ちて骨露われ、脚の関節以下は、殊に削ったようである。破れたる法衣に依って僧形とは知れるものの、頭髪は長く延びて、皺だらけの顔を掩うている。眼は灰色の如く濁っている。洞窟の外へ出ると目が眩むと見え、よろめく。百姓達了海を見ると膝をついて礼をなす) 石工の二 (了海を介抱しながら)お危うございます。 了海 (手で探るように)何処におられるのじゃ。何処におられるのじゃ。 石工の二 それそこでござります。すぐそこでござります。 了海 (実之助の姿をおぽろに見出したように)何方様でござりましたか、老眼衰えはてまして弁え兼ねまする。 実之助 (敵の衰えはてた姿を見て、やや駭き最初の擬勢を、くじかれたように)そこ許が、了海どのと云わるるか。 了海 仰せの通りでござります、して、貴方様は。 実之助 (やや興奮しながら)了海とやら、如何に、僧形に身を窶すとも、よも偽は申すまい。汝市九郎と呼ばれし若年の頃、江戸表に於て主人中川三郎兵衛を打って立退いた覚えがあろう。 了海 (罪を悔い、しかもその罪から救われていることを示すような落着いた、しかし謙虚な口調で)ござります。ござります。して、それを仰せらるる貴方様は。 実之助 そちも忘れは致すまい。三郎兵衛の一子実之助じゃ。 了海 (潸然と涙をこぼす)実之助様!覚えおりまする。よく覚えおりまする。お父上を打って立退きました者、この了海奴に相違ござりませぬ。 実之助 主を打って立ち退いたる非道の汝を打つ為に、十年に近い年月を、艱苦辛苦の裡に過したわ。このところにて、会うからは、もはや逃れぬところと、尋常に勝負いたせ。 了海 長い御辛苦でござりました。申訳がござりませぬ。身の罪滅しばかりを考えておりました。貴方様に、これほどの御辛苦をかけようとは、思いませんでした。いざ、お斬り遊ばせ。(やや眼が見え始める)お顔がやっと見えました。お父上様の御無念のお顔が眼に見えるようでござります。いざお斬り遊ばせ。お聴き及びもござりましょうが、これなる刳貫は了海奴が、罪亡しに掘り穿とうと思いました洞門でござりまするが、二十年の年月をかけて、九分までは出来上りました。了海が身を果てましても、はや一年とはかかりませぬ。いざ、お斬りなされい、お身様の手にかかりこの洞門の入口に血を流して人柱となり申さば、思い残すことはござりませぬ。 実之助 (感動しながら、素志を曲げまいと努めて)よい覚悟じゃ。いかに、善果を積もうとも悪逆の報は免れぬわ。最後の念仏を申すがよかろう。 (百姓や石工達は、事件の急激なる回転に、最初は茫然としている。中頃了海の身が、危険であると悟る。一人の石工が、奥へ知らせにはいる) 石工の二 おおい、みんな出て来い。(洞門の中を見て大声に叫ぶ) (石工達、手に手に鉄鎚を下げ、わめきながら、そして実之助を遠巻きにし、了海を庇護してしまう了海、石工の庇護を脱して実之助に近づかんとあせる。それを制しながら) 石工の頭 了海様を何とするのじゃ。 実之助 (大勢を見て、刀を抜きはなつ。八方に目を配りながら)その老僧は、某が親の仇じゃ。端なく今日廻り合うて、本懐を達するものじゃ。主殺しの極重悪人を庇うて神仏の罰を受くるな。 石工の頭 (傲然と)敵呼ばわりは、まだ浮世に在る裡の事じゃ。見らるる通り、了海殿は出家の御身でござるぞ。その上、山国谿七郷は愚か、豊後肥後山国川の流に添う村々の者どもには、仏とも仰がれる方じゃ。其方様などにムザムザと打たせてなるものか。 実之助 (全く激昂して)申すな。申ずな。仮令出家致そうとも、主殺しの大罪は八逆の一つじゃわ。其方達が、邪魔いたさば片っ端から、死人の山を築いてくれるのじゃ。(実之助怒って斬り込もうとする。石工達ワッと叫んで一斉に鉄鎚を振り上げる。百姓達は小石を拾って、投げるべく身構えする) 了海 (必死になってもがく)皆の衆お控えなさい。この御武家に石一つ指一本加えたなら、了海はその人を恨みまするぞ。永々了海を助けくれられたよしみに、ただこのままに討たさせて下されよ。了海討たるべき覚え十分ござる。了海がこの刳貫を掘ろうと云う心持も、今ここで討たれようと云う心持も同じじゃ。刳貫の成就は目に見えている。その上、かかる孝子のお手にかかれば、了海の本懐この上はないのじゃ。皆の衆お控えなされ。 石工の頭 それじゃと申しまして、貴方様の討たれるのを傍で、みすみす見過すことが出来ましょうか。 了海 了海が討たれるのを見て下さるより、その暇に石一片でも、砕いて下さる方が、この了海には最後の念仏よりも有難い。さあ!お引取り下されい! 石工の二 そりゃいかぬ。貴方様が死なれては、このどえらい思い立も、どうなるか知れたものでない。貴方様が、見て御座らっしゃればこそ、ピクともせぬ大磐石と夜昼かけての戦が出来るのじゃ。貴方様に、死なれては今まで掘り抜いた洞門が一夜の中に埋もるようなものじゃ。 石工達 (口々に)そうじゃ、そうじゃ。ことわりじゃ。ことわりじゃ。 百姓の二 そうじゃ。そうじゃ。長い間の俺達の楽しみが、ふいになってしまうのじゃ。今了海様に死なれてなるものか。 実之助 是非に及ばぬ。この上妨げいたす者は、誰彼の容赦はない。 (実之助、石工達の中に斬り込もうとする。石が霰のように飛んで来る。タジタジとなる) 了海 (身もだえしながら)其方達はこの了海に、生きながら、地獄の責苦を見せるのか。了海の身の罪の為に、孝心深き御武家を傷つけようとするのか。石一つ御武家様に当てて見よ。了海は舌を噛み切ってでも即座に相果てて見せますぞ。 (石工百姓達、石を投ずることを止める。実之助了海を望んで斬り込もうとする。石工百姓達又烈しく抵抗す。老人列を離れて実之助の前へ進む) 老人 お待ちなされませい。貴方様のお心も、御尤もでござりまする。が、石工達百姓達の心も、やっぱり尤もでござりまする。が、お心を静めてよくお聞き遊ばしませ。貴方様がいくらあせっても、向うは四十人にも近い人数がござります。それに、こうしている中に、近在近郷の人々は了海さまの大事じゃと申して、段々駈け附けて参りまする。貴方様がいかほど武芸の上手でおありなされても、人数には叶いませぬ。さあ、ここは御思案でござります。なあ、御武家様!この刳貫は了海様一生の御大願でござります。二十年に近き御辛苦に、心身を砕かれたので御座りまするのじゃ。いかに御白身の悪業とは申しながら、大願成就を目前に置きながら、お果てなさるること如何ばかり無念で御座りましょう。皆の衆が、了海様を庇うのも、矢張りその為で御座りまする。長くとは申しませぬ。この刳貫の通じ申す間、了海様のお命を私共に預けて下さりませ。御覧の通りの御身体で御座りまする。逃げかくれなどのなされる御身体では御座りませぬ。刳貫さえ通じました節は、御存分になさりませ。 石工、百姓達 尤もじゃ。尤もじゃ。 老人 皆もあのように申しておりまする。この場は一先ずお引き取りなさりませ。若しお待ちになると云えば、御滞在のお宿も御世話いたしましょう。皆の衆、しかと誓いなされい。その期に及んで、きっと変易せぬように。 石工達、百姓達 誓うた。誓うた。しかと誓うた。 老人 了海様いかがで御座りまするか。 了海 御武家様の御辛苦を思えば、わしは一日も生き延びとう思いませぬ。 老人 それではなりませぬ、貴方様のお命は、この刳貫を刺し貫く仏様の錐のようなものじゃ。刳貫の成就するまでは軽々とお捨てになってはなりませぬ。御武家様!お聞きになりましたか。御思案は如何で御座りまするか。 実之助 (何事をか思案したる後)了海の僧形にめで、その願を許して取らそう。束えた言葉を忘れまいぞ。 石工の頭 何の忘れてよいものか。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向うへ通じた節は、その場を去らず了海様を討たせ申そう。さあ了海様、思わぬ事に手間を取りました。いざ仕事にかかりましょう。 了海 いや俺は、この場で・・・ (了海の留らんとするを、石工達担ぐように拉してしまう。実之助、無念らしく見送る) 老人 さあ、宿へ案内いたしましょう、ああ言葉を束えて置けば、了海様には勿体ないが、網に這入った魚で御座ります。ただ時期をお待ちなさりませ。 実之助 (無念の形相にて、洞門を見ながら)了海は夜は何処に宿るのじゃ。 老人 夜も昼もありませぬ。お疲れになれば、坐ったまま岩に靠れてお休みになりまする。人間の為さることとは思われませぬ。 実之助 左様か。(思案をして)今宵は、七日か八日か。 老人 七日で御座りまする。 実之助 (独言のように)子の刻には月も入るのう。ハハハハハ。(微かに笑う)
一一 幕 一一
第二場
時と場所
情景 石工の一 皆が一緒に手を休めると、急に静けさが身に浸みて来るのう。 石工の二 道理じゃ、地の中へ幾町ともなく来ておるのじゃからのう。 石工の三 今宵は、みんな了海様のお傍に居ぬと、あの昼の武士が、合点せずに又狙いに来るかも知れぬ。 石工の一 それゃ念もない事じゃ。樋田郷まで人をやって、武士が宿っている宿の周囲には、ちゃんと寝ずの番を附けてあるのじゃ。 石工の二 ああもう、亥の刻だろう。手がしびれるように痛むのう。 了海 (しわがれた低い声で)尤もじゃ、今日は岩の焼き方が、足りなかったと見えて、滅相岩が堅かったのう。ああもう皆の衆、小屋へ引き上げさっしゃれ。了海も、もう休もう。さあ皆の衆、引き上げさっしゃれ。 石工の三 それじゃ、みんたお暇をするとしよう。了海様も、もうお休みなされませ。さあ、わしが夜の具を取って来て進せよう。 (石工の三、走り去りて、やがて蓆と汚き夜具とを持って来る。程よき所に敷く) 了海 ああ忝けない。忝けない。それじゃ皆の衆、わしが先きへ御免蒙るぞ。(了海寝ようとする〉 石工の一 それじゃ、了海様又明朝お目にかかりまするぞ。 石工の二 御免なさりませ。 石工の三 御免なさりませ。 (石工遠く去る。了海暫く眠る振りして、又むくむくと起きる) 了海 ( 合掌して低声に観音経を誦す)真観清浄観。広大智恵観。悲観及慈観。常願常胆仰。無垢清浄光。慧日破諸闇。能伏災風火。普妙照世間。非体戒雷震。慈意妙大雲。樹甘露法雨。滅除煩悩焔。過去の罪業報い来て実之助様のおわせられたからは、命は風前の灯じゃ。生ある中に、一寸なりとも一尺なりとも、掘り進まいでは叶わぬ処じゃ。懈怠を貪る時ではない。 (岩面に膝行し、前より、烈しく打ち下す) 了海 (声を励まして)諍訟経官処。怖畏軍陣中。念彼観音力。衆怨悉退散。妙音観世音。梵音海潮音。勝彼世間音。是故須常念。念々勿生疑。観世音清浄。於苦悩死厄。能為作依怙。 (狂えるが如く、打ち進む。暫くすると、実之助が舞台の左端から忍び寄って来る。右に太刀を抜きそばめ、左手を地につきながら、徐かに徐かに忍び寄って来る。了海は夢も知らざる如く、更に観音経を誦しつづける。実之助走り寄らんとして逡巡す。暫く太刀を振り翳して切らんとし、しかも相手の一心不乱なるを見て討ちがたく遂に刀を、鞘に収めて去らんとす) 了海 (急に振り顧りて)実之助様!何故お斬り遊ばされませぬか。 実之助 (了海に不意に言葉をかけられて、やや狼狽して言葉なし)・・・ 了海 昼間の仕宜は、さぞ御無念に御座りましたろう。いざお斬り遊ばしませ。今こそ妨げいたすものは御座りませぬ。邪魔の入らぬ中、いざお斬りなさりませ。 実之助 了海とやら、この上はいさぎよく、この刳貫成就の折を相待とうぞ。敵を眼前に控えながら、武士たるものが、手を拱しゅうする無念さに、束えた約束をも反古にいたし、ただ両断にいたさんと忍び寄ったれども、其方が一心精進のけ高さに、瞋恚の炎も、打ち消されて、高徳の聖に対し忍び寄る夜盗の如く獣の如く窺い寄る身があさましゅうて、太刀を取る手が、心ならずも鈍ったわ。この上は心長く其方が本願を達する日を相待とうぞ。 了海 (手を突きて平伏しながら)極重悪人の拙僧に、大願成就の月目を、借して下さりまするか。忝う御座りまする。この上は、身を粉に砕いて、明目明後日にも刳開く心にて、鎚を振うで御座りましょう。御孝心深き貴方様に長い御辛苦をかけまして、申訳はありませぬ。お許し下さりませ。お許し下さりませ。 (了海、実之助に近よりながら、頭を下げる) 実之助 敵同志となるも、宿世の業と申すことじゃが、いかに了海とやら、拙者もただ空しく、この地に止まって、其方達の働くを見るより、及ばずながら、鎚を取って、一片二片の岩たりとも、削り取って得させよう。其方が本懐の日が、近くなるのは、取もなおさず拙者が本懐の日が近づくのじゃ。 了海 (感激しながら)よい所にお気が附かれました。貴方様の御助力は百万の味方よりも頼もしゅう御座りまする。貴方様のお顔を見ていれば、この了海奴も、片時も鎚が休められませぬわい。 実之助 ただ徒然に瞋恚のほむらに心を爛らせているよりも、世のため人のために、鎚を振うている方が、この実之助にも心安いと云うものじゃ。さらば、了海どの、刳貫の開くまでは、味方なれど。 了海 おお、一寸でも二寸でも、向うへ通りましたその節は、ただ両断になさりませ。そなた様の本懐と、了海奴の本懐とが、成就する日が待ち遠しゅう御座りまするわ。 実之助 それまでは、敵同志が肩を並べて、鎚を振うも、又一興であろう。 (二人相見て淋しく笑う) 第三場
時と場所
情景 実之助 えいっ! 了海 おおつ! 実之助 えいっ! 了海 おおつ! 実之助 (一寸手を休めて)石工達は、はや去り申したな。 了海 (同じく手を休めて)石工達も、今日は終日身を粉にして働き申した。実之助様、そなたももう休まさせられい!もう一九つを廻りましたわ。もう御引き上げなさりませ。 実之助 なかなか。夜更くると共に、心神澄み渡って精力は、又一倍じゃ。 了海 昨夜も、あのようにお働きなされたものを、今宵はちと早目にお引き上げなさりませ。 実之助 それは、其方に云いたいことじゃ。六十に近い御坊より先きに、われらが引き上げてよいものか。 (鎚を振り上げて又「えいっ」と打ち下す) 了海 おおっ。(と応じて打つ) (暫く二人とも打ち続ける) 了海 (又手を止めて)昨日石工の一人が、鎚音の合間に、かすかな鳥銃の音を耳にしたと申しておったが、御身様はお耳になされましたか。 実之助 身共は、鳥銃の音は耳にせねども、一昨日の晩であったか、かすかに瀬鳴の音を聞いたように覚ゆれどもそれも鎚を持つ手を休めてふとまどろんだ折の、夢かも知れぬのじゃ。 了海 御身様が来られてからも、もう一年に近い。ああ待ち遠しい事で御座る。まして、この一月二月了海の身も心も、漸く衰え果てまして、力も十が一も出ぬように成り申した。今日明日と頼まれぬ命のように覚えまする。万が一、鎚を持ちながら、息が絶え果てる事がありましたら、身の無念はともかく、御身様に申訳のたたぬことと、精神を励ましてはおりますけど、ああ今は、はや了海が辛抱の縄も切れ申した。ああ岩よ。この一念に微塵となれ。 (烈しく打ち下す) 実之助 ただ不退転の勇気じゃ。この期に及んで、退転なさば九仭の功も、一日にかくるのじゃ。心を確にお持ちなされい。今となっては、ただ精進の外は御座らぬ。えいっ1(烈しく打ち下す) 了海 いかにも、御身様の仰せの通じゃ。一下の鎚にも懈怠疑惑の心があってはならぬわ。念彼観音力!おおっ。(打ち下す) (二人相並んで、烈しく打ち下す) 了海 ああっ。(と鎚を捨てて、右手を左手にて握る) 実之助 (駈け寄って)如何なされた。如何なされた。 了海 殊の外に脆い岩で、力余って拳までが貫き申した。(ふと、了海岩面に開かれた穴に気が附く)御覧なされい!不思議な穴が、開き申したぞ。 実之助 (穴の所に近づきながら)不思議じゃ、風が通うわ。 了海 (狂気の如く)何々風が通うとは。(鎚を振り上げて、烈しく打ち続く。岩それに従って崩れて洞になる)崩れる。崩れる。快く崩れるぞ。 実之助 (了海と並んで、狂気の如くに鎚を振う)貫けるわ。快く貫けるぞ。 了海 ああ、風が通う。風が通う。さては刳貫き了せたのか。実之助様、とくと御覧なされい。 実之助 (半身を穴から突き出しながら)ああ正しく大願成就なるぞ。ほのかに光が見えますわ。闇の申に、かすかに光るは山国川の流に相違ない。了海どの、正しく大願成就なるぞ。 了海 (うめく如く言葉を発し得ず、ただ手を合掌して身をもだえる)・・・ 実之助 見える!見える!聞える!聞える!川の流れが聞ゆるぞ!目の下に闇にもほのじろく見ゆる。まぎれもない街道じゃ。了海どの、お欣ぴなされい。 了海 (初めて声を挙げて咲笑す)あな嬉しや。天上界へ生きながら、昇る心持がする。眼も耳も衰えて、川の流れも聞えねど、ほの明りは見えまするぞ。あな嬉しや。嬉しや。嬉しや嬉しや。心の中が、煮えくり返るように嬉しい。 (了海身悶えをする) 実之助 (了海の手をとりながら)尤もじゃ。尤もじゃ。たった一年手伝うても、この嬉しさは分かるのにまして二十余年の艱難辛苦、仏神も嘉納ましましで、今宵本懐を遂げらるるのも、元よりその処じゃ。実之助も嬉しゅう御座るわ。 了海 (ふと考え附いて)身の嬉しさに取りまぎれて、申し遅れました。今宵こそ約束の日じゃ。いさお斬りなされませ。了海奴も、かかる法悦の中に往生いたすなれば、未来は浄土に生るること、必定疑なしじゃ。いざお斬りなされい。 実之助 (了海の突いた手をとりながら)了海どの、もはや何事も忘れ申した。二十年来肝を砕き身を粉にする御坊の大業に比べては、敵を討つ討たぬなどは、あさましい人間の世の業だ。実之助も御坊の傍の一年の修業を積んだ仕合せに、修羅の妄執を見事に解脱いたしましたわ。見られい。月が雲を破ったと見え、月の光がさして来た。 了海 (穴より顔を出しながら)おお嬉しや。嬉しや。老眼にも山国川の流れがほのかに、見え申すわ。 実之助 この月の光が、、御坊には即身成仏の御光のように輝き申すわ。この実之助に取っても妄執を晴らす真如の光じゃ。ああ快い月影じゃ。御坊を討つ代りに、この岩をこう打どうぞ。(傍なる長き柄の鎚を取り、力任せに打つ。岩石崩れ落ちて、山国川一帯の山河の夜の姿が見える) 了海 げに快い月影じゃのう。(叉心付いて)いざ実之助様、お斬りなされませ。明日ともなれば、石工共がまた妨げ致そうも知れぬ。いざお斬りなされ。 実之助 (近よる了海の手を取って)何をたわけた事を申さるる。あれ見られい!柿坂あたりの峰々まで、月の光に浮んで見えるわ。ああ大願成就思い残す方もない月影じゃ。 (二人手を取って、月の光に見惚れる) 了海 (やがて念珠を取り出してもみながら)南無頓生菩提!俗名中川三朗兵衛様。了海奴が、悪逆を許させ給え。 (泣きながら頭を下げる) 実之助 恩讐は昔の夢じゃ。手を挙げられい。本懐の今宵をば、心の底より欣び申そう。あな嬉しや嬉しや。嬉ばしや。 (二人相擁して泣くところにて)
一一 幕 一一 |
人物
中川三郎兵衛 浅草田原町に屋敷を持てる旗下の士、五十歳位 時 江戸時代、安永から延享へかけての出来事 所 第一幕 一一 江戸、第二幕 一一 木曽山中、第三幕 一一 耶馬渓(仮に後代の称呼に従う) 衣装と道具に就て 一一 衣装は呉服店の広告人形に着せるが如き、仕立下しの華美なるを避けたし、温雅にして目立たざるほどよろし。第一幕の大道具も小成金の住宅の如く安手に新しきを避けたし。 第一幕
江戸田原町中川三郎兵衛の邸。安永三年の秋の初、月夜の晩。 市九郎 (必死な懸命な顫えを帯びた声で)御容赦なさりませ、不義ではござりませぬ、毛頭不義ではござりませぬ。(そう云いながら、逃げ路を物色しているのであるが、庭には垣根が周らされている上、若し庭に下りると相手に太刀を振う自由を与えそうなので必死に柱を楯に取っている) 三郎兵衛 (沈痛しかも必死な声で)申すな、申すな、この期に及んで、命を助かろうなどと未練者奴! 市九郎 無実でござります。無実でござります。大それた・・・。お部屋様と、そのような・・・。大それた事を・・・。 三郎兵衛 くどい! (飛び込み様、柱を避けて打ち下す。市九郎身を躱して右に避く。三郎兵衛、太刀を引いて、右より斬り下す。市九郎左に避く) 三郎兵衛 (いらって)面倒なッ! (柱を廻る、市九郎も、それに従って、グルグル三四回周りし後、市九郎遂に柱より追い退けられ、庭に下りて一周り逃げ廻る。が、垣根の柴折戸は、鎖されている。若し開けようとすれば、後から浴びせられるのは必定なので、また引き返して、三郎兵衛をやり過して座敷きへ飛び上り襖より逃れようとするとき、ふと置いてある燭台に手がかかる。其処を三郎兵衛が、追い縋って肩口に薄手を負わせる) 市九郎 ああっ! (悲鳴を挙げると、思わず燭台を手にして立ち向う。燭台の打消えて、周囲は月光に照らされた薄暗になる) 三郎兵衛 おのれ!主に手向い致すか不埒者奴が! (前よりも、もっと烈しく斬りかかる。数合の凄じき打合あり。市九郎追い詰められて、危くなる。三郎兵衛の太刀先遂に市九郎の小鬢を傷つける) 市九郎 おおっ! (悲鳴を挙げて、決死の形相となり、猛然として戦い始める。まず燭台を相手に抛附ける。その尖端が、三郎兵衛の面部を打ったため、三郎兵衛タジタジとなってひるむ。その暇に、市九郎は帯びている脇差を抜き放つ。無言の必死な決闘が始まる。三郎兵衛の太刀は、時々天井を掠めるので不利である。切り合いながら、二人とも縁側に近づく。先ず縁側に出た市九郎は、不覚にも足を滑らして片膝を付く。三郎兵衛得たりと、斬り下ろそうとしたが、あせった為め誤って縁側と座敷の中間に垂れている鴨居に深く切り込む。市九郎天の助けとばかり、片膝をつきながら、横に敵の脇を払う。三郎兵衛悲鳴を挙げながら、よろめき倒れる。 市九郎、魂の抜けたる如く、縁側にへたばって、低いうめき声を出しているばかりである・・・ 二三分の間、死にかかっている三郎兵衛と市九郎のうめき声が聞える外、舞台に何の動作もない。市九郎は、漸く顔を上げて、まだビクビク動いている主人の死体を見ている。それが、ピタリと動かなくなると急に悔恨の情に駆られたるものの如く脇差を取り直して、腹を寛ろげようとする。その時、座敷の隅の屏風が揺れる。お弓の顔が現われる。蒼白で、身体は、ガタガタと徴かに顫えているが、そうした内心の恐怖を努めて隠そうとしている) お弓 (市九郎の自殺しようとするのを、尻目にかけながら)ほんとうにまあ、どうたる事かと思って心配したよ。お前が真二つにやられた後は、追っつけわたしの番じゃあるまいかと、屏風の蔭で、息を擬して見ていたのさ。余程逃け出そうか、逃げ出そうかと思ったのだが、斬られそうになっているお前への義理もあってね。が、ほんとうに命拾いだったね。お互様に、悪運が尽きないんだよ。こうなっちゃ、一刻も猶予してはいられないから、在金をスッカリさらつて、高飛びをする事だね。まだ母屋の方では、気が附かないようだから、支度をするのは、今の裡だよ。さあお前、在金を探して見ようじゃないか。 市九郎 (女が喋舌っている間、何時の間にか自殺を思い止っている。が、まだ茫然として途方にくれている)ああ飛んでもねえ事をしてしまった。大それたお主殺しだ。 お弓 (男の云うことを相手にしないで)お前、述懐なんかの幕じゃないよ。男らしくもない、さあしゃんとおしよ。わたしは支度をして来るから、お前はお金を探しておくれよ。 市九郎 ああ飛んでもねえ。お主殺しだ。お主殺しだ。磔のお主殺しだ。 お弓 (市九郎を引き起すようにしながら)一刻を争う九死の場合じゃないか。さあ、早く支度するのだよ。 (市九郎、女に操らるる如く、立ち上り、三郎兵衛の死骸を遠く避けながら、茶箪笥に近づきて探し始める。血の手形が、桐の白い木目にところどころベタベタと附く。お弓、次の間へ行って暫くして風呂敷包みを持って、直きに帰って来る) お弓 幾何あったの。 市九郎 (声を落しながら)二朱銀の五両包みが、たった一つさ。 お弓 (自分でも茶箪笥に近よりながら中を引っ掻き廻す)こんな端金が、どうなるものかね。鎧櫃を探して御覧!軍用金とやらを、入れてあるかも知れないよ。 市九郎 (前よりは、やや元気になって、鎧櫃を開けて鎧を持ち上げて振って見ながら)ここもからっぽだ! お弓 (いまいましそうに)名うての始末屋だから、瓶にでも入れて土の中へでも、入れてあるのだろうよ。急場の間には合やしない。さあ、大抵のところで、切り上げて、人目にかからない前に、行くとしよう。 (市九郎、血に汚れた手を、手水鉢にて洗いながら帯をしめ直す) お弓 (ふと三郎兵衛の死骸に、目をやりたがら)これでも二年近くも、お世話になった旦那だ!どら、一寸拝んで行こう。(立ちながら、片手を上げて拝む) 市九郎 (黙ったまま跪いて、死骸に向って両手を合せる・・・ (二人行きかかる) お弓 裏門の鍵は持っているだろう。 市九郎 お役目だ。腰から離した事はねえ。 お弓 お誂向きだわねえ。(艶然と笑う) (月光は益々冴えている。二入が柴折戸をあけて出かかると、母家の方で乳母が歌う声がする。「お月様いくつ、十三七つ、まだ年や若い、油買いに茶買いに 一一」いたいけな男の子の声が、それを繰り返して歌う) 市九郎 (柴折戸を出ようとして、男の子の歌う声にじっと聞きとれる)ああ坊っちゃんだ! お弓 (柴折戸を出ながら)お前さん!何をぼんやりしているんだよ。(と強く男の手を引く) (二人去ってしまう。月の光の裡に、母家の方で尚歌いつづけている裡に、静かに幕)
第二幕
第一場木曾街道鳥居峠にて、市九郎とお弓とが営める茶店の店先。第一幕より二三年の後。藁葺の大なる家、右手半分は土間になっている。左手半分は壁になっている。壁にも入口が附いている。土間には、草餅、羊羹、乾柿など並べてある。二つの細長き腰掛あり、障子には、そば、かん酒と書いてある。背景は、一面の杉林。家を覆うて一株の老桜あり。蕾がふくらみ始めている。幕開くと、馬士の権作、家の横手の杉に馬を繋ぎ、腰掛に腰をかけながら、店の奥に向って次の如く話している。 権作 こう姐御!そう因業なことを、云わんと置け、勘定は勘定、商売は商売じゃねえか。この春先の景気で、一儲けすりゃ、滞りの勘定位はキレイさっぱり払ってやろう。さあ、文句は云わねえで、清く一本つけてくれねえか。 (答なし) 権作 こう姐御!そう意地わるくするもんじゃねえ。勘定と云ったって、高が一両か、一両二分かだろう。もう少し旅の衆が出盛って見ねえ、それっぱかしの目腐れ金は、二日か三日の働き高じゃねえか。 お弓 (姿は見えないで)お前さんが、稼いだ金を神妙に妾の家へ持ち込むような御仁だったら、五両でも十両でも文句を云わずに、貸して上げるわさ。二分はおろか二朱の金でも手にすると、藪原へ行って安女郎を買うか、チョボ一ですってしまう外、能のねえお前さんじゃないか。 権作 (怒って、腰掛を離れながら)利いた風な事を、ぬかしやがるない。手前達のようだ悪党夫婦が、お天道様の真下で、恐れ気もなく暮して行けるのは、何方様のお目こぼしだと思っているのだい。へん、忘れもしねえ、一昨年の秋の彼岸の翌くる日さ、藪原の宿の手前で、人殺しがあると云うから行って見ると、殺されているのは六十ばかりの旅の年寄さ。可哀そうに、衣類から道中差まで、スッカリ浚われている後に、落ちているのが煙草入れさ。年寄持の品じゃねえと、心を止めて見ると駭いた。何処かに見覚えのある品物さ。よくよく見ると、見覚えのあるのも道理、木曾山中じゃ滅多に見られない江戸細工の煙草入れさ。 お弓 (まだ姿を現わさないで)その話でお前さんは、何度酒にしたか分らないじゃないか。そう云うなら妾の方でも云い分があるんだ。月日は、お前さんのように、ハッキリとは覚えていないが、何でも去年の夏の事さ、抜け参りが流行って、この街道筋を、唐笠に道中杖一つの道者達が、ひっきりなしに続いた時さ。日暮方にまだ十六七の小娘が、シクシクと泣きながら駈け込むから家へ入れて容子を聞くと、駭くじゃないか。鳥居峠の登り口で、行き合わせた馬士に手籠めに遭い、路用の金をそっくり持って行かれたのだとさ。その馬士の人相を聞いて見ると、眉毛が芋虫のように太くって・・・。 権作 (苦笑いをしながら)ヘへん!その話なら、此方から附け足したい事があるんだ。泣きながら駈け込んで来た小娘を、深切ごかしに騙かして、福島の茶屋女に叩き売ったのは誰だったのだ。 お弓 お前ばかりに、うまい汁を吸われて堪るものか。お前さんが、上手に出りゃ此方だって上手に出るのだ。だがなあ、権作さん、「狐獲られて狸安からず」と云う諺を、お前聞いたことがあるかい。妾、常々そう思っているんだよ。万一暗い処に入るようなことがあったら、なるべく連れの多い方がいいからね。お前さんや、あの奈良井の辰蔵なんて云う人は、そうしたお交際もしておくれだろうね。 権作 (去ろうとして)脅かしやがるない。俺なんかどんなにヒドイ目にあっても、高々永牢だ。お前さん夫婦のような獄門首と、並べられて堪るもんか。(憤然として、馬を解いて去らんとす) お弓 (初めて土間の方へ現れて、権作の飲みたる茶碗を片づけながら)権作さん!お茶代を置く金もないのかい。 権作 (いまいましそうに)口のへらない女郎だな。 (鈴の音をさせながら去る。やや月並なれども、権作の歌う木曾節を聞かせてもよし。お弓、茶道具を神妙に片づけている。この時、左の入口より、市九郎生欠伸をしながら出て来る。第一幕よりもやや険兇の相を帯び、古びたる黄八丈の着物に三尺帯を締めている。お弓、それを見ると荒々しく) お弓 もうお前、八つを廻っている時分だぜ。なんぼ用がない身体だって、あんまりじゃないか。少し性根を入れ更えて、おっつけ一仕事しておくれでないと、お鳥目だっていくらも、残っていやしないんだよ。 市九郎 (やや不機嫌に、お弓を見返しながら)あたたかいお天道様だな。もう、スッカリ春だな。 お弓 (腰掛に腰をかけて休みながら、煙草を喫い始める)何を呑気な事を云っておいでだ。長い長い冬寵りで、去年の秋に稼いだ五十両も、幾何も残って居やしないんだよ。お前と妾とで、日に二升近くも御酒をいただくんだから、無理もないんだが。 市九郎 (頭を垂れながら)その故でもあるめいが、この頃はどうも頭が重くって、気がめいっていけねえ。春先の生あたたかいのが、却って身体に悪いのかも知んねえなあ。 お弓 (もどかしそうに)そんな事よりも、お前さん、いい鳥のかかり次第しっかりしてくれなきゃ、いけないよ。 市九郎 おい煙草を一服吸わしてくんねえ。 (お弓、自分が喫っていた煙草と煙管を市九郎に渡す。市九郎入口の横の壁を背にしながら蹲まって、煙草を喫っている。若い旅の夫婦が近づいて来る) 若き夫 もう、藪原の宿が見えてもよさそうだな。 若き妻 麓では一里も登れば、目の下に見えると云うておりましたが。 若き夫 疲れはしないかい。 若き妻 いいえ。 若き夫 茶店がある。一服して行こう。 (お弓二人を見ると満面の笑みを以て迎える) お弓 さあ、どうぞ、おかけなさいまし。さぞお疲れでございましょう。この街道は山坂ばかりでございますのにお足弱がお連れでは、さぞ不自由でございましょう。 若き夫 (妻と共に、腰をかけながら)この峠は、街道一の切所じゃと聞いたが、もうこれからは下りでございましょうな。 お弓 はあはあ、もう下りでございますとも。御覧あそばせ、あの谷が開けて、麦畑が拡っている所がござりましょう。 若き夫 (延び上りながら)なるぼど。 お弓 あの真中にある松並木が、藪原に入る街道でござります。ほれほれ、あの夕日に光る大屋根が見えましょう。あれが宿の入口にある妙本寺と云う寺でござります。 若き夫 なるほどな。もう二里とあるまいな。 お弓 二里は愚か、一里と少しでござりますな。ゆっくりお休み遊ばしても、暮六つ前には、楽にお着きになれまする。 若き夫 藪原の名物はお六櫛、たしか、そうでありましたな。 お弓 そうでござりまする。お帰りの道中では、たんとお買い遊ばしませ。 (この間、お弓は茶を饗し、菓子を出す。若き妻は、折々市九郎を気味悪く振り返る) お弓 時に何方までの旅でござりまするか。 若き夫 左様、伊勢参宮から、京へ上って、名所めぐりをする積りじゃが、時宜に依っては大和へも廻ろうかと思っておりまする。 お弓 日数から云うても、お費用から云うても、結構な思召立でござりますな。それにしても、お供の衆が見えませぬが。 若き夫 何処へ行っても、そう云うて、不審を打たるるのじゃが、有様は心利いた下男を伴うて出たのじゃが、松本のお城下まで参ると急に病み附いたので、代りの者を呼ぶのも費なのでそのまま宿屋へ残したまま、立って来ましたのじゃ。 お弓 水入らずの方が、結局気楽でござりましょうな。 若き夫 (妻を見返りて、意味もなく笑う)一休みしたほどに、さあ行きましょう、もうほんの一息じゃ。 お弓 まあ、ごゆっくりなさいませ。日は高うござります。 若き夫 早う宿屋に着いた方が何かに附けて便宜じゃ。これはいかい雑作になった。お茶代はここへ置きまするぞ。(去ろうとする) お弓 有難うござりまする。お帰りに、是非お立ち寄りなさいませ。それでは、道中御無事に。 (お弓、しばらく二人を見送っている、市九郎は、漠然として煙草を喫みつづけている。お弓急に気が附いたように、奥へ駈け入ったかと思うと、市九郎の脇差を持って、馳け出して来る) お弓 (刀を夫の肩の辺へ、差し付けながら)さあ!お前さん! 市九郎 (空とぽけたように不機嫌に)な、な、何をするのだい。 お弓 (少し語気を荒らげて)おとぼけじゃないよ。仕事だよ。大切な仕事じゃないか。 市九郎 (厭な顔をしながら)何だ!あの人達をかい!思いやりのねえ。(お弓を跳ね退けるように立ち上る) お弓 何が思いやりがねえのだい。お前さんこそ、思いやりがねえじゃないか。妾が、先刻から、どうかして少しでも長く引き止めようと、あせっているのに、アッケラカンと煙草なんか喫ってさ。さあ!ぐずぐずしていないで、オイソレと行っておいで。 市九郎 (やや強く)おらあ!厭だ。相手にもよりけりだ。ああした楽しそうな夫婦者を、とっちめるなんていくらこうした稼業でも、余り罪作りだからねえ。 お弓 お前さんのように、年寄は厭だの、子供は嫌いだの、夫婦者はいやだのと云っていた分には、此方とらの商売は上ったりだよ。仏心のついた盗賊位、厄介なものはありゃしない。・・・お前さんも考えて見るがいい。妾だって昔は満更捨てた女でもなかったのだよ。馬道小町とまで、浅草界隈で、人に騒がれた妾が、木曾の山奥まで流れて来て、山猿同様のしがねえ暮しをしているのも、一体誰の為だとお思いなのだえ。みんなお前さんというお主殺しの悪党を、亭主にしている為じゃないかえ。 市九郎 (首をうなだれたまま、黙って、つっ立っている)・・・ お弓 お前さんのお交際をして上げる代りにはさ、日に三度々々のおまんまと、好きなお神酒は文句なしに飲ましてくれる位の分別はしてくれても、満更罰も当るまいじゃないか。 市九郎 (やや憤然として)大きな口を利くじゃねえ。手前に云い分がありゃ、俺の方にだって云い分はあるんだ。中川様のお邸で、年期を無事に勤め上げて、御家人の株でも、買っていただこうと、御主人大事に勤めていた神妙な俺を、迷わして、おそろしや!お主様を手にかけさせたのは、一体何処の何奴だと思っているのだ。 お弓 (あざ笑って)ふふん!面白くもない。妾に迷おうと迷うまいと妾の知った事じゃないじゃないか。そんな過ぎさった昔のことを、クヨクヨ思い暮すより、毒を喰わば皿と云うじゃないか。おいしい酒でも浴びるように飲んでいたいわね。どうせお主様を、手にかけた、この脇差じゃないかい、今更、人一人二人助けたって罪の軽くなるお前さんじゃないだろう。・・・(やや相手を宥めるように)それに、あの人達をやってしまわなければいけないと云うのじゃないよ。打ち見た所まだ世間を知らねえ豪家の若旦那らしいから、荒療治をしなくたって、白刃で脅しさえすりゃ、身ぐるみ捲き上げるのは雑作もない事じゃないかえ。考えて御覧!五十両百両と纏まった金を懐にした旅馴れないお客様は、そう繁々と通るものじゃないよ。それに私がほしいのは!あの女の方が着ていた小紋縮緬さ!妾もあんな着物を偶には手が通して見たいわさ。 市九郎 (漸くお弓から、脇差を受け取りながら)鬼の女房にに鬼神と云うが、手前の方が悪党は二三枚上だ。仕方がねえ、行って来よう。 お弓 (市九郎の背をポンと叩きながら笑って)いやな人だねえ。屈託顔なんかしてさ。 市九郎 酒を持って来い。冷でいいから。 お弓 行って来てからにおしな。おかんをして置くから。 市九郎 持って来いったら。 お弓 (奥へ入って不承不承に酒を持って出て来る)可哀そうだなんて思っていると、とかくどじをやるものだよ。 市九郎 (無言にガツガツと樽の口から、むさぼり飲む)ああ苦い酒だ。(樽を地に抛ちながら急いで去る) お弓 (後を見送りながら)お伊勢まいりから、京上りという長い旅なら、五十両は間違いない。(急に身顫いさせながら)日が入りかけると、まだ寒い。(山寺の鐘の音が聞えて来る)おやもう暮六つの鐘かしら。(幕静かに下る) 第二場前場より、一刻ばかり過ぎたる後。前場と同じ場所、同じ家。前場の舞台を右に転じたるが如き舞台。茶店の奥の部屋。左にも入口あり。戸外には月が出ている。お弓はただ一人蓮葉に坐りながら三味線を取出して爪弾きをしている。が、幕が上ると、直ぐ糸が切れるので、乱暴に放り出してしまう。煙草盆を引き寄せて自棄に煙草を喫いつづける。市九郎登場する。小脇に衣類を束にして、かい込んでいる。時々後を振り返る。自分の家に近づくと、ホッとしたように、入口の敷居に腰を下す。 お弓 (耳聡く聞き附けて)誰!謹!お前さんかい! 市九郎 (黙ったまま返事をしない)・・・ お弓 (立ち上りながら)誰!誰!(障子を開ける)何だ!やっぱりお前さんじゃないか。そんな所にぐずぐずしていないで早くお上りよ。思いの外に早かったねえ。 市九郎 (上へ上る。が、やっぱり黙ったままでいる)・・・ お弓 首尾は?上首尾?(市九郎の持っている衣類を取上げて見ながら)おお無傷だねえ。お前さんも、よっぽど仕事がうまくなったねえ。おお、いい紋縮緬だね。いくら品がよくっても、血がはねている着物なんか、いくら妾だって、禁物だが、さあ、ゆっくりお寛ぎよ。ちゃんとおかんもつけてあるから、一杯飲みながら、話を聞こうじゃないか。 市九郎 (蒼白な顔をしながら、黙ったまま座に着く)・・・ああ疲れた 一一 お弓 ああお前さん、またくよくよしているんだねえ。やっぱりやってしまったのかい。その方が、いっそ片がついてキレイさっぱりだよ。 市九郎 (頻に重く頭を振りながら)ああいけねえ。追い脅しだけで、命は助けてやろうと思ったが、女の方が、血迷って、「あれ茶店の亭主だ。」と口走るものだから、仕方なしにやってしまった。ああ何だか腹の底が、底力がなくなった。ああ、一杯ついでおくれ。 お弓 それでお前さん、お鳥目はいくらだったのだい。 市九郎 (懐から、二つの胴巻と、男物と女物との財布を出しながら)道中を心配したと見え、夫婦で別けて持っているのだ。まだ勘定して見ねえが、手答えじゃ四十両だな。 お弓 どれお見せ。(その場へ浚い出しながら)小判が三十枚に二分銀が二十枚、二朱銀が三四十枚あるよ。ザット五十両。近頃にない豊年だね。(衣類を膝の上に乗せながら)それに衣装が嬉しいわねえ。緋縮緬の長襦袢に、繻珍の昼夜帯だね。(ふと気が附いたように)一寸お前さん、頭の物はどうおしだえ。 市九郎 頭の物?頭の物とは何だい。 お弓 そうだよ。頭の物だよ。あの女の頭の物だよ。 市九郎 (黙して答えず)・・・ お弓 紋縮緬の着物に、緋縮緬の長襦袢じゃ、頭の物だって擬い物の櫛や笄じゃあるまいじゃないか。妾は、先刻あの女が、菅笠を取った時に、チラと睨んで置いたのさ、べっこうの対に相違なかったよ。 市九郎 (黙したまま答えず)・・・ お弓 (のしかかるようになって)お前さん!まさか取るのを忘れたのじゃあるまいね。@瑁だとすれば、七両や八両が所は、たしかだよ。あんな金目のものを取って来ないなんて、駈け出しの泥棒じゃあるまいし何の為に殺生をするんだよ。あれだけの衣裳の女を殺して置きながら、頭の物に気が附かないなんて、お前さんは何時から、こうした商売を、お始めたのだえ。どじをやるのにも、程があるじゃないか。どうお思いなんだえ。何とか云って御覧よ。 市九郎 (苦々しげに)むごたらしい事を云うじゃねえか。身ぐるみ剥がして来たのだから、髪かざりだけは、せめて女のたしたみに冥途まで、附けさせてやったって、満更罰も当るめえぜ。 お弓 へへん、利いた風たお説法はよしなさいよ。あのまま捨てて置きゃ、野伏せりの乞食位が,濡手で粟の拾い物になるのじゃないか。さあ、一走り気軽に取っておいで。 市九郎 (女に対する烈しい憎悪を起しながら)女は女同志、男は男同志と云うことがあるが、手前も殺された女の身になって見るがええ。少しは女同志で可哀相とは思わねえのかい。 お弓 (嘲笑的に)ほほう、鬼の眼に涙とは、よく云ったものだ。そんなに可哀そうなら、その豆しぼりの手拭で、グッとやらなければいいのに。 市九郎 (ゾッとしたように、自分の腰に下げた手拭を取りはずしながら)ああつくづくこうした仕事が厭になって来た。 お弓 それもどじな仕事をやるからだよ。四の五の云わずに、さあお前さん!一走り行っておいでよ。夜に入ったら、犬の子一疋通らない街道筋だ。まだそのままになっているのに違いないから、一走り行って来るんだよ。折角、此方の手に入ったものを遠慮するには当らないじゃないか。又遠慮する柄でもないじゃないか。 市九郎 (黙々として応ぜず)・・・ お弓 おや!お前さんの仕事のアラを拾ったので、お気に触ったと見えるねえ。くどいようだが、本当に行く気はないんだね。十両に近い儲け物を、みすみすふいにしてしまう積りだね。 市九郎 (黙々として答えず)・・・ お弓 いくら云っても行かないのだね。それじゃ、私が一走り行って来ようよ。場所は何時もと同じ処だろうね。 市九郎 (吐き出すように)知れたことよ。藪原の宿の手前の松並木さ。 お弓 (立ち上って、裾をはし折りながら)じゃ一走り行って来よう。月夜で外はあかるいし・・・本当に世話のやけるお泥棒だ。(庭へ降り、草履をつっかけて行きかけんとす) 市九郎 (振り向いてギロリと女を睨みながら)手前本当に行くのかい。 お弓 行くのがどうかしたのかい。 市九郎 悪事にも程があるものだぜ。 お弓 (戸外へ出ながら)へん、大きな世話だ。ああ、いい月夜だ。(小走りに去る) 市九郎 (立ち上って)ああ到頭行ってしまいやがった。(戸外へ出る)熊笹を分けて走っている恰好は、人間じゃありゃしねえなあ。死体につく狼のようだな。)しばらく跡を見送った後蹌踉として家に入る、膳に附いてあった徳利を取って、一気に飲み干す)ああ魔だ、俺にくっ憑いている魔だ。(頭を抱えしばらく身をもだえる、ふと傍にあった男物の衣類に目を附け、触って見た手を灯に透かして見る)血だ。やっぱり血が附いている。(茫然として前方を見詰める)グッとやった時に、白い二つの手が蛇か何かのように俺の手に捲きつきやがった。ああ堪らねえ。(不快な記臆を払いのけんとし、身もだえする。しばらくしてふと気が附いたように)そうだ。あの女の帰らない中だ。(立ち上って押入より二三枚の衣類を取り出す。手早く風呂敷に包む。ふと女が膳の横に置いて行った盗んだ金の財布に目が附く。懐に収める)ああ百年の恋も醒めてしまったな。(急ぎ足で戸外に出る。ふと懐の金に手をやる。立ち止まって考える。二二歩後帰りして考える。到頭憤然としてとって返し)汚れた金だ!(つよく家の中に投げ込む。財布より飛び出た小判は燦然たる光を放って、家の中に散乱する。市九郎は一散に走り去る)
一一 幕 一一
第三幕
第一場第二幕より、二十年余を隔てし延享二年の春。所は、九州耶馬渓青の洞門(便宜のため後代の称呼を用う)洞門の入口。右手に岩石が削られて、山国川の流の一部が見えている。他は、舞台一面稍灰白を帯びた岩壁、岩壁の中央に、高さ三間横四間位の洞穴が口を開けている。周囲には小さな石塊がぞろぞろ落ち散っている。川に依って、杉の若葉が数本生えている。岩壁の端れを、桟道が危く伝っている。鎖を力に渡る、鎖渡しである。幕が開くとやや身分のあるらしい老人、物売の女、馬を連れた百姓が危げに鎖渡しを順次に渡って来る。渡ってしまうと皆舞台にて暫らく休息する。 老人 (ホットしたように石に腰かけながら)年に一度宇佐の八幡様へお参りの心願を立てたのもええが、この鎖渡しだけはいつもいつも命がけの難所じゃ。この頃は風も吹かいで桟が掛けかえたばかりで新しいから、命の心配はないものの年寄には、足元が危うて、危うて。 物売の女 妾などは、樋田郷のもので、毎日一度は通い馴れておりますけれど、雨の日で桟の滑る時とか、風で桟が揺れる時にはほんまに命がけで御座んすのう。 百姓 (馬を引きながら、漸く桟道を、渡って来て)ああ大骨を折らせたな。中途で、暴れ出すまいかと思って、ビクビクものじゃったわい。 物売の女 (百姓に)作蔵さん、ほんまに、気を附けないかんぜ。馬を連れる時は、ほんまに危いけに。去年の柿坂の新右衛門さんのように、馬諸共に、ころげこむと命が無えからのう。 百姓 (冗談に)せめて、お前との相対死じゃ、浮名も立つけれど、馬との相対死じゃほんまに犬死じゃけにな。(洞窟の入口から、石工が二人石塊を担って出て来る) 百姓 やあ、庄どん。えろう、精が出るのう。ちっとは捗が行ったかのう。 石工の一 (石塊を下し、その上に、腰かけながら)俺が来た時とちっとも変っておらんわい。相手が大磐石の岩じゃけに、半年や一年で物の十間と、彫れはせんわい。 百姓 そうじゃろう。そうじゃろう。俺などは初は針の穴からお天道様をのぞくほどの及びも附かぬ仕事じゃと思っておったのじゃ。それにしても感心なのは、了海様の御辛抱じゃ。初は、気違坊主じゃの騙りじゃなぞと、俺などは若い時には了海様の後から、小石の一つ二つは、ぶっ喰わしたことがあるのじゃ。が、あの御辛抱には、みんなが頭を下げてしまったのじゃ。郡奉行様の御褒美が下ってからは、石工の数も倍になったと云うのう。 石工の一 今日日じゃ、八分通りはくり貫いたから、もう一息じゃ。了海様は、この頃は夜もロクロクに枕には就かれぬのじゃ。 老人 わしも、どうかしてこの刳貫が出来るまでは、生き延びていたいと思うのじゃ。この向きじゃ、わしの願いも叶いそうじゃ。 百姓 山国七郷の百姓が、今では頸を長うして出来るのを待っておるのじゃ。わしも植附でも済んだら、今年もお手伝いしようと思っとるんじゃ。了海様だけに働かせては冥加が恐ろしいからのう。 (この時、下手より又数名の百姓登場す) 百姓の二 (洞穴の入口に行きて、耳を聳てながら)ああ深うなっとるのう。これでも、二三年前までは、鎚の音が入口まで聞えて来たものじゃが。 百姓の三 深うなっとる。深うなっとる、俺はもう一年半と云う見込で、隣村の林八と賭をしたが、この向きじゃ、わしの勝だな。 百姓の四 太い野郎じゃのう。了海様が、土にまみれて働いてござらっしゃるのに、罰が当るぞえ。 百姓の三 なに、了海様は了海様で、俺は自分の罪亡しにしていることじゃ。お前たちが恩に被ることはないと、口癖のように仰しゃるじゃろう。 百姓の四 何の罪滅しの為だけに、こんなどえらい事が出来るものか。みんな衆生済度と云う御本願があるからじゃ。俺も、暇になったらお手伝いじゃ。 百姓の三 偽を云え。お前は、毎年々々お手伝いじゃと云いながら、一度も鎚をとったことはないじゃろう。 百姓の四 お前だって同じ事じゃないか。 (百姓達が、話している間に、実之助登場する。質素なる旅姿。木綿の旅合羽を着ている。洞穴を見ると、やや興奮した体にて、周囲の地形を見、右手に行く鎖渡しを見て引き返し洞穴の中を見る。この間百姓達の注意を引きつつあり) 実之助 (漸く百姓の二に話しかく)卒爾ながら、少々物を訊ねる。この洞窟の中に、了海と申す出家がおるそうじゃが、しかと左様か。 百姓達 (口々に)おらないでどうしようぞ。了海様なら、この洞窟の主同然の方じゃわ。 実之助 左様か。それなら、尚訊ぬるが年の頃は、およそ何程じゃ。 石工の一 (いぶかしげに未知の武士を見ながら)了海様ならもう五十を越した方じゃ。やがて六十に手の届く方じゃ。 実之助 (落着いて)生国は、越後柏崎じゃと聞き及んだが。 石工の一 へえ、何でも雪の沢山降る国じゃと云うことで。 実之助 若年の折、江戸で奉公いたしたとは聞かなかったか。 石工の二 ああ聞いたことがある。俺に一度江戸の浅草観世音の繁昌を語って下さったことがある。 実之助 (漸く緊張しながら)よくぞ教えてくれた。して、この洞窟の出入口は、ここ一カ所か。 石工の一 ほう、それは知れたことじゃ。向うへ口を開けるために、了海様は塗炭の苦しみをしておられるのじゃ。 実之助 奥行は凡そ幾町ぞ。 石工の二 そんなことを訊かされて、何にせらるるのじゃ。 実之助 (少しく思案して)了海殿とやらに、御意得たいのじゃ。(つかつかと奥へ入ろうとする) 石工の一 お待ちなされませ。初めてのお人では歩かれませぬわい。石が、彼方にも此方にも突き出ている上に、穴なども折々ありまする。 実之助 それでは、其方に頼みがある。越後からはるばる尋ね参った者じゃと云うて取次ではくれられぬか。 石工の二 それでは、俺が一走り行って来よう。(馳け入る) 百姓の二 了海様の身寄の方でござりますか。了海様にはこの山国七郷の者が、みんないかい御恩になっております。忝う思っております。(頭を下げる) 老人 (進み出でながら)越後と九国の端とでは、お聞き及びにもなりますまいが、了海様は、この谿七郷の者には、持地菩薩さまのように有難い方でござります。御恩になっております。(頭を下げる。他を顧みて)御身寄の御武家様じゃ。みんなお礼を申し上げい。(皆一斉に頭を下げる。実之助精神的にやや困惑しながら軽く応ずる) 老人 まさか。お子様ではござりますまい。甥御様でござりますか。よう御尋ねて御座らしゃった。一体何処でお聞きになりましたか。 実之助 武者修業の傍、諸国を尋ね廻ったが、当国の字佐の八幡にて、人手に聞きました。 老人 それこそ真に神様のお引き合せじゃ。 百姓の二 今年で、二十年でござります。長い間、一心不乱にお働きになりました。何でも、お若い時に罪業をお重ねになった罪滅しだと仰せられて、この頃では、夜まで鎚を振っておられまする。 実之助 (半ば独言のように)重ねた罪業の罪滅しと云うのか。だが主殺しの悪逆は消えまいて。(ハハハハと嘲る如く笑う) 老人 お主殺しまで。ほほう。が、それもあの御精進では消えておりましょう。 実之助 消えているか消えていぬか、今に分明いたすであろうぞ。(ハハハハと冷笑する) (人々やや実之助を疑い始める。各々の間に私語を始める。その時、了海が石工二人に両手を取られながら、出て来る。実之助ひそかに目釘をしめす。肉悉く落ちて骨露われ、脚の関節以下は、殊に削ったようである。破れたる法衣に依って僧形とは知れるものの、頭髪は長く延びて、皺だらけの顔を掩うている。眼は灰色の如く濁っている。洞窟の外へ出ると目が眩むと見え、よろめく。百姓達了海を見ると膝をついて礼をなす) 石工の二 (了海を介抱しながら)お危うございます。 了海 (手で探るように)何処におられるのじゃ。何処におられるのじゃ。 石工の二 それそこでござります。すぐそこでござります。 了海 (実之助の姿をおぽろに見出したように)何方様でござりましたか、老眼衰えはてまして弁え兼ねまする。 実之助 (敵の衰えはてた姿を見て、やや駭き最初の擬勢を、くじかれたように)そこ許が、了海どのと云わるるか。 了海 仰せの通りでござります、して、貴方様は。 実之助 (やや興奮しながら)了海とやら、如何に、僧形に身を窶すとも、よも偽は申すまい。汝市九郎と呼ばれし若年の頃、江戸表に於て主人中川三郎兵衛を打って立退いた覚えがあろう。 了海 (罪を悔い、しかもその罪から救われていることを示すような落着いた、しかし謙虚な口調で)ござります。ござります。して、それを仰せらるる貴方様は。 実之助 そちも忘れは致すまい。三郎兵衛の一子実之助じゃ。 了海 (潸然と涙をこぼす)実之助様!覚えおりまする。よく覚えおりまする。お父上を打って立退きました者、この了海奴に相違ござりませぬ。 実之助 主を打って立ち退いたる非道の汝を打つ為に、十年に近い年月を、艱苦辛苦の裡に過したわ。このところにて、会うからは、もはや逃れぬところと、尋常に勝負いたせ。 了海 長い御辛苦でござりました。申訳がござりませぬ。身の罪滅しばかりを考えておりました。貴方様に、これほどの御辛苦をかけようとは、思いませんでした。いざ、お斬り遊ばせ。(やや眼が見え始める)お顔がやっと見えました。お父上様の御無念のお顔が眼に見えるようでござります。いざお斬り遊ばせ。お聴き及びもござりましょうが、これなる刳貫は了海奴が、罪亡しに掘り穿とうと思いました洞門でござりまするが、二十年の年月をかけて、九分までは出来上りました。了海が身を果てましても、はや一年とはかかりませぬ。いざ、お斬りなされい、お身様の手にかかりこの洞門の入口に血を流して人柱となり申さば、思い残すことはござりませぬ。 実之助 (感動しながら、素志を曲げまいと努めて)よい覚悟じゃ。いかに、善果を積もうとも悪逆の報は免れぬわ。最後の念仏を申すがよかろう。 (百姓や石工達は、事件の急激なる回転に、最初は茫然としている。中頃了海の身が、危険であると悟る。一人の石工が、奥へ知らせにはいる) 石工の二 おおい、みんな出て来い。(洞門の中を見て大声に叫ぶ) (石工達、手に手に鉄鎚を下げ、わめきながら、そして実之助を遠巻きにし、了海を庇護してしまう了海、石工の庇護を脱して実之助に近づかんとあせる。それを制しながら) 石工の頭 了海様を何とするのじゃ。 実之助 (大勢を見て、刀を抜きはなつ。八方に目を配りながら)その老僧は、某が親の仇じゃ。端なく今日廻り合うて、本懐を達するものじゃ。主殺しの極重悪人を庇うて神仏の罰を受くるな。 石工の頭 (傲然と)敵呼ばわりは、まだ浮世に在る裡の事じゃ。見らるる通り、了海殿は出家の御身でござるぞ。その上、山国谿七郷は愚か、豊後肥後山国川の流に添う村々の者どもには、仏とも仰がれる方じゃ。其方様などにムザムザと打たせてなるものか。 実之助 (全く激昂して)申すな。申ずな。仮令出家致そうとも、主殺しの大罪は八逆の一つじゃわ。其方達が、邪魔いたさば片っ端から、死人の山を築いてくれるのじゃ。(実之助怒って斬り込もうとする。石工達ワッと叫んで一斉に鉄鎚を振り上げる。百姓達は小石を拾って、投げるべく身構えする) 了海 (必死になってもがく)皆の衆お控えなさい。この御武家に石一つ指一本加えたなら、了海はその人を恨みまするぞ。永々了海を助けくれられたよしみに、ただこのままに討たさせて下されよ。了海討たるべき覚え十分ござる。了海がこの刳貫を掘ろうと云う心持も、今ここで討たれようと云う心持も同じじゃ。刳貫の成就は目に見えている。その上、かかる孝子のお手にかかれば、了海の本懐この上はないのじゃ。皆の衆お控えなされ。 石工の頭 それじゃと申しまして、貴方様の討たれるのを傍で、みすみす見過すことが出来ましょうか。 了海 了海が討たれるのを見て下さるより、その暇に石一片でも、砕いて下さる方が、この了海には最後の念仏よりも有難い。さあ!お引取り下されい! 石工の二 そりゃいかぬ。貴方様が死なれては、このどえらい思い立も、どうなるか知れたものでない。貴方様が、見て御座らっしゃればこそ、ピクともせぬ大磐石と夜昼かけての戦が出来るのじゃ。貴方様に、死なれては今まで掘り抜いた洞門が一夜の中に埋もるようなものじゃ。 石工達 (口々に)そうじゃ、そうじゃ。ことわりじゃ。ことわりじゃ。 百姓の二 そうじゃ。そうじゃ。長い間の俺達の楽しみが、ふいになってしまうのじゃ。今了海様に死なれてなるものか。 実之助 是非に及ばぬ。この上妨げいたす者は、誰彼の容赦はない。 (実之助、石工達の中に斬り込もうとする。石が霰のように飛んで来る。タジタジとなる) 了海 (身もだえしながら)其方達はこの了海に、生きながら、地獄の責苦を見せるのか。了海の身の罪の為に、孝心深き御武家を傷つけようとするのか。石一つ御武家様に当てて見よ。了海は舌を噛み切ってでも即座に相果てて見せますぞ。 (石工百姓達、石を投ずることを止める。実之助了海を望んで斬り込もうとする。石工百姓達又烈しく抵抗す。老人列を離れて実之助の前へ進む) 老人 お待ちなされませい。貴方様のお心も、御尤もでござりまする。が、石工達百姓達の心も、やっぱり尤もでござりまする。が、お心を静めてよくお聞き遊ばしませ。貴方様がいくらあせっても、向うは四十人にも近い人数がござります。それに、こうしている中に、近在近郷の人々は了海さまの大事じゃと申して、段々駈け附けて参りまする。貴方様がいかほど武芸の上手でおありなされても、人数には叶いませぬ。さあ、ここは御思案でござります。なあ、御武家様!この刳貫は了海様一生の御大願でござります。二十年に近き御辛苦に、心身を砕かれたので御座りまするのじゃ。いかに御白身の悪業とは申しながら、大願成就を目前に置きながら、お果てなさるること如何ばかり無念で御座りましょう。皆の衆が、了海様を庇うのも、矢張りその為で御座りまする。長くとは申しませぬ。この刳貫の通じ申す間、了海様のお命を私共に預けて下さりませ。御覧の通りの御身体で御座りまする。逃げかくれなどのなされる御身体では御座りませぬ。刳貫さえ通じました節は、御存分になさりませ。 石工、百姓達 尤もじゃ。尤もじゃ。 老人 皆もあのように申しておりまする。この場は一先ずお引き取りなさりませ。若しお待ちになると云えば、御滞在のお宿も御世話いたしましょう。皆の衆、しかと誓いなされい。その期に及んで、きっと変易せぬように。 石工達、百姓達 誓うた。誓うた。しかと誓うた。 老人 了海様いかがで御座りまするか。 了海 御武家様の御辛苦を思えば、わしは一日も生き延びとう思いませぬ。 老人 それではなりませぬ、貴方様のお命は、この刳貫を刺し貫く仏様の錐のようなものじゃ。刳貫の成就するまでは軽々とお捨てになってはなりませぬ。御武家様!お聞きになりましたか。御思案は如何で御座りまするか。 実之助 (何事をか思案したる後)了海の僧形にめで、その願を許して取らそう。束えた言葉を忘れまいぞ。 石工の頭 何の忘れてよいものか。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向うへ通じた節は、その場を去らず了海様を討たせ申そう。さあ了海様、思わぬ事に手間を取りました。いざ仕事にかかりましょう。 了海 いや俺は、この場で・・・ (了海の留らんとするを、石工達担ぐように拉してしまう。実之助、無念らしく見送る) 老人 さあ、宿へ案内いたしましょう、ああ言葉を束えて置けば、了海様には勿体ないが、網に這入った魚で御座ります。ただ時期をお待ちなさりませ。 実之助 (無念の形相にて、洞門を見ながら)了海は夜は何処に宿るのじゃ。 老人 夜も昼もありませぬ。お疲れになれば、坐ったまま岩に靠れてお休みになりまする。人間の為さることとは思われませぬ。 実之助 左様か。(思案をして)今宵は、七日か八日か。 老人 七日で御座りまする。 実之助 (独言のように)子の刻には月も入るのう。ハハハハハ。(微かに笑う)
一一 幕 一一
第二場
時と場所
情景 石工の一 皆が一緒に手を休めると、急に静けさが身に浸みて来るのう。 石工の二 道理じゃ、地の中へ幾町ともなく来ておるのじゃからのう。 石工の三 今宵は、みんな了海様のお傍に居ぬと、あの昼の武士が、合点せずに又狙いに来るかも知れぬ。 石工の一 それゃ念もない事じゃ。樋田郷まで人をやって、武士が宿っている宿の周囲には、ちゃんと寝ずの番を附けてあるのじゃ。 石工の二 ああもう、亥の刻だろう。手がしびれるように痛むのう。 了海 (しわがれた低い声で)尤もじゃ、今日は岩の焼き方が、足りなかったと見えて、滅相岩が堅かったのう。ああもう皆の衆、小屋へ引き上げさっしゃれ。了海も、もう休もう。さあ皆の衆、引き上げさっしゃれ。 石工の三 それじゃ、みんたお暇をするとしよう。了海様も、もうお休みなされませ。さあ、わしが夜の具を取って来て進せよう。 (石工の三、走り去りて、やがて蓆と汚き夜具とを持って来る。程よき所に敷く) 了海 ああ忝けない。忝けない。それじゃ皆の衆、わしが先きへ御免蒙るぞ。(了海寝ようとする〉 石工の一 それじゃ、了海様又明朝お目にかかりまするぞ。 石工の二 御免なさりませ。 石工の三 御免なさりませ。 (石工遠く去る。了海暫く眠る振りして、又むくむくと起きる) 了海 ( 合掌して低声に観音経を誦す)真観清浄観。広大智恵観。悲観及慈観。常願常胆仰。無垢清浄光。慧日破諸闇。能伏災風火。普妙照世間。非体戒雷震。慈意妙大雲。樹甘露法雨。滅除煩悩焔。過去の罪業報い来て実之助様のおわせられたからは、命は風前の灯じゃ。生ある中に、一寸なりとも一尺なりとも、掘り進まいでは叶わぬ処じゃ。懈怠を貪る時ではない。 (岩面に膝行し、前より、烈しく打ち下す) 了海 (声を励まして)諍訟経官処。怖畏軍陣中。念彼観音力。衆怨悉退散。妙音観世音。梵音海潮音。勝彼世間音。是故須常念。念々勿生疑。観世音清浄。於苦悩死厄。能為作依怙。 (狂えるが如く、打ち進む。暫くすると、実之助が舞台の左端から忍び寄って来る。右に太刀を抜きそばめ、左手を地につきながら、徐かに徐かに忍び寄って来る。了海は夢も知らざる如く、更に観音経を誦しつづける。実之助走り寄らんとして逡巡す。暫く太刀を振り翳して切らんとし、しかも相手の一心不乱なるを見て討ちがたく遂に刀を、鞘に収めて去らんとす) 了海 (急に振り顧りて)実之助様!何故お斬り遊ばされませぬか。 実之助 (了海に不意に言葉をかけられて、やや狼狽して言葉なし)・・・ 了海 昼間の仕宜は、さぞ御無念に御座りましたろう。いざお斬り遊ばしませ。今こそ妨げいたすものは御座りませぬ。邪魔の入らぬ中、いざお斬りなさりませ。 実之助 了海とやら、この上はいさぎよく、この刳貫成就の折を相待とうぞ。敵を眼前に控えながら、武士たるものが、手を拱しゅうする無念さに、束えた約束をも反古にいたし、ただ両断にいたさんと忍び寄ったれども、其方が一心精進のけ高さに、瞋恚の炎も、打ち消されて、高徳の聖に対し忍び寄る夜盗の如く獣の如く窺い寄る身があさましゅうて、太刀を取る手が、心ならずも鈍ったわ。この上は心長く其方が本願を達する日を相待とうぞ。 了海 (手を突きて平伏しながら)極重悪人の拙僧に、大願成就の月目を、借して下さりまするか。忝う御座りまする。この上は、身を粉に砕いて、明目明後日にも刳開く心にて、鎚を振うで御座りましょう。御孝心深き貴方様に長い御辛苦をかけまして、申訳はありませぬ。お許し下さりませ。お許し下さりませ。 (了海、実之助に近よりながら、頭を下げる) 実之助 敵同志となるも、宿世の業と申すことじゃが、いかに了海とやら、拙者もただ空しく、この地に止まって、其方達の働くを見るより、及ばずながら、鎚を取って、一片二片の岩たりとも、削り取って得させよう。其方が本懐の日が、近くなるのは、取もなおさず拙者が本懐の日が近づくのじゃ。 了海 (感激しながら)よい所にお気が附かれました。貴方様の御助力は百万の味方よりも頼もしゅう御座りまする。貴方様のお顔を見ていれば、この了海奴も、片時も鎚が休められませぬわい。 実之助 ただ徒然に瞋恚のほむらに心を爛らせているよりも、世のため人のために、鎚を振うている方が、この実之助にも心安いと云うものじゃ。さらば、了海どの、刳貫の開くまでは、味方なれど。 了海 おお、一寸でも二寸でも、向うへ通りましたその節は、ただ両断になさりませ。そなた様の本懐と、了海奴の本懐とが、成就する日が待ち遠しゅう御座りまするわ。 実之助 それまでは、敵同志が肩を並べて、鎚を振うも、又一興であろう。 (二人相見て淋しく笑う) 第三場
時と場所
情景 実之助 えいっ! 了海 おおつ! 実之助 えいっ! 了海 おおつ! 実之助 (一寸手を休めて)石工達は、はや去り申したな。 了海 (同じく手を休めて)石工達も、今日は終日身を粉にして働き申した。実之助様、そなたももう休まさせられい!もう一九つを廻りましたわ。もう御引き上げなさりませ。 実之助 なかなか。夜更くると共に、心神澄み渡って精力は、又一倍じゃ。 了海 昨夜も、あのようにお働きなされたものを、今宵はちと早目にお引き上げなさりませ。 実之助 それは、其方に云いたいことじゃ。六十に近い御坊より先きに、われらが引き上げてよいものか。 (鎚を振り上げて又「えいっ」と打ち下す) 了海 おおっ。(と応じて打つ) (暫く二人とも打ち続ける) 了海 (又手を止めて)昨日石工の一人が、鎚音の合間に、かすかな鳥銃の音を耳にしたと申しておったが、御身様はお耳になされましたか。 実之助 身共は、鳥銃の音は耳にせねども、一昨日の晩であったか、かすかに瀬鳴の音を聞いたように覚ゆれどもそれも鎚を持つ手を休めてふとまどろんだ折の、夢かも知れぬのじゃ。 了海 御身様が来られてからも、もう一年に近い。ああ待ち遠しい事で御座る。まして、この一月二月了海の身も心も、漸く衰え果てまして、力も十が一も出ぬように成り申した。今日明日と頼まれぬ命のように覚えまする。万が一、鎚を持ちながら、息が絶え果てる事がありましたら、身の無念はともかく、御身様に申訳のたたぬことと、精神を励ましてはおりますけど、ああ今は、はや了海が辛抱の縄も切れ申した。ああ岩よ。この一念に微塵となれ。 (烈しく打ち下す) 実之助 ただ不退転の勇気じゃ。この期に及んで、退転なさば九仭の功も、一日にかくるのじゃ。心を確にお持ちなされい。今となっては、ただ精進の外は御座らぬ。えいっ1(烈しく打ち下す) 了海 いかにも、御身様の仰せの通じゃ。一下の鎚にも懈怠疑惑の心があってはならぬわ。念彼観音力!おおっ。(打ち下す) (二人相並んで、烈しく打ち下す) 了海 ああっ。(と鎚を捨てて、右手を左手にて握る) 実之助 (駈け寄って)如何なされた。如何なされた。 了海 殊の外に脆い岩で、力余って拳までが貫き申した。(ふと、了海岩面に開かれた穴に気が附く)御覧なされい!不思議な穴が、開き申したぞ。 実之助 (穴の所に近づきながら)不思議じゃ、風が通うわ。 了海 (狂気の如く)何々風が通うとは。(鎚を振り上げて、烈しく打ち続く。岩それに従って崩れて洞になる)崩れる。崩れる。快く崩れるぞ。 実之助 (了海と並んで、狂気の如くに鎚を振う)貫けるわ。快く貫けるぞ。 了海 ああ、風が通う。風が通う。さては刳貫き了せたのか。実之助様、とくと御覧なされい。 実之助 (半身を穴から突き出しながら)ああ正しく大願成就なるぞ。ほのかに光が見えますわ。闇の申に、かすかに光るは山国川の流に相違ない。了海どの、正しく大願成就なるぞ。 了海 (うめく如く言葉を発し得ず、ただ手を合掌して身をもだえる)・・・ 実之助 見える!見える!聞える!聞える!川の流れが聞ゆるぞ!目の下に闇にもほのじろく見ゆる。まぎれもない街道じゃ。了海どの、お欣ぴなされい。 了海 (初めて声を挙げて咲笑す)あな嬉しや。天上界へ生きながら、昇る心持がする。眼も耳も衰えて、川の流れも聞えねど、ほの明りは見えまするぞ。あな嬉しや。嬉しや。嬉しや嬉しや。心の中が、煮えくり返るように嬉しい。 (了海身悶えをする) 実之助 (了海の手をとりながら)尤もじゃ。尤もじゃ。たった一年手伝うても、この嬉しさは分かるのにまして二十余年の艱難辛苦、仏神も嘉納ましましで、今宵本懐を遂げらるるのも、元よりその処じゃ。実之助も嬉しゅう御座るわ。 了海 (ふと考え附いて)身の嬉しさに取りまぎれて、申し遅れました。今宵こそ約束の日じゃ。いさお斬りなされませ。了海奴も、かかる法悦の中に往生いたすなれば、未来は浄土に生るること、必定疑なしじゃ。いざお斬りなされい。 実之助 (了海の突いた手をとりながら)了海どの、もはや何事も忘れ申した。二十年来肝を砕き身を粉にする御坊の大業に比べては、敵を討つ討たぬなどは、あさましい人間の世の業だ。実之助も御坊の傍の一年の修業を積んだ仕合せに、修羅の妄執を見事に解脱いたしましたわ。見られい。月が雲を破ったと見え、月の光がさして来た。 了海 (穴より顔を出しながら)おお嬉しや。嬉しや。老眼にも山国川の流れがほのかに、見え申すわ。 実之助 この月の光が、、御坊には即身成仏の御光のように輝き申すわ。この実之助に取っても妄執を晴らす真如の光じゃ。ああ快い月影じゃ。御坊を討つ代りに、この岩をこう打どうぞ。(傍なる長き柄の鎚を取り、力任せに打つ。岩石崩れ落ちて、山国川一帯の山河の夜の姿が見える) 了海 げに快い月影じゃのう。(叉心付いて)いざ実之助様、お斬りなされませ。明日ともなれば、石工共がまた妨げ致そうも知れぬ。いざお斬りなされ。 実之助 (近よる了海の手を取って)何をたわけた事を申さるる。あれ見られい!柿坂あたりの峰々まで、月の光に浮んで見えるわ。ああ大願成就思い残す方もない月影じゃ。 (二人手を取って、月の光に見惚れる) 了海 (やがて念珠を取り出してもみながら)南無頓生菩提!俗名中川三朗兵衛様。了海奴が、悪逆を許させ給え。 (泣きながら頭を下げる) 実之助 恩讐は昔の夢じゃ。手を挙げられい。本懐の今宵をば、心の底より欣び申そう。あな嬉しや嬉しや。嬉ばしや。 (二人相擁して泣くところにて)
一一 幕 一一 |