作家と作品青春の大半は図書館通い初期の筆名は草田杜太郎、菊池比名士。明治21年(1888)、香川県高松市に生まれた。生家は貧しかったが、小学校時代から読書欲の旺盛な少年であった。中学校時代、市立図書館の蔵書2万冊のうち、中学生の読みこなせるものを全部読破したという。後年、<作家としての学問の八分までは図書館でした>と述べている。
芥川・久米らと「新思潮」創刊東京高等師範学校に入学したが、厳格な校風に反対して除名された。芥川・久米らと明大、早大に籍を置いたこともある。明治43年(1910)第一高等学校に入学、同級に芥川龍之介、久米正雄、成瀬正一、松岡譲、山本有三、土屋文明らがいた。在学中に友人の窃盗の罪を着て退学し、改めて京大選科(のちに本科)に進んだ。大正3年(1914)、芥川・久米らが第3次「新思潮」を起こすと同人として参加した。大正5年(1916)には第5次「新思潮」に参加し、戯曲『屋上の狂人』、『暴徒の子』(以上大正5年)、『父帰る』(大正6年)などを発表した。その間に京大を卒業したが、アイルランド近代劇の影響から劇作家を志しながら、その困難をさとり、小説に転じた。『無名作家の日記』、『忠直卿(ただなおきょう)行状記』、『青木の出京』、『恩讐の彼方に』(おんしゅうのかなたに)(ともに大正7年)などを続々発表して作家としての地歩を確立した。大正8年、芥川龍之介とともに大阪毎日新聞杜の客員となり、『藤十郎の恋』、『友と友の間』(ともに大正8年)、『神の如く弱し』、『義民(ぎみん)甚兵衛』(以上大正9年)など、個性の強い作品を書いた。当時の彼の作品には、気分や情調よりも明確な主題の展開を重視したものが多く、みずからそれをテーマ小説と呼んだ。
通俗小説に新境地「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に連載した『真珠夫人』(大正9年)は、通俗小説に構成の巧妙さと読者の心をとらえるツボのうまさによって、従来の家庭小説のわくを破り、新聞小説として、また通俗小説として新境地を開いたものである。また、『父帰る』の上演をきっかけに、戯曲も再評価され、『時の氏神』、『恋愛病患者』(ともに大正13年)などを発表した。『蘭学事始』、『入れ札』(ともに大正10年)などの小説も世評を得たものである。
経営の手腕と後進の育成昭和年代にはいると、もつぱら通俗小説の筆をとったが、一般からは経営の手腕と〈文壇の大御所〉と呼ばれるほどの実力を示した。大正12年(1923)には「文芸春秋」を創刊、独創的なアイデアによって一大出版杜に成長させた。芥川賞、直木賞の設定による後進の育成も彼の発案による。文芸家協会など、職能団体の設立にも尽力した。東京市会議員をつとめたこともある。主要作品
以上は、朝日出版社世界文学シリーズ『日本文学案内:近代編』(1977)pp.90-91 を電子化したものです。The Kikuchi Web のために、この箇所の使用を快諾していただきました朝日出版社/ブックマン社には、深甚の謝意を表します。
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