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A Hero of the Sea by Kan Kikuchi

菊池 寛『海の勇者』(一幕)


人物

老いたる母 およし
その夫
彼等の子 末次郎
隣人
その他の人々

土佐の国佐多の岬に近き海岸

情景

漁夫の家。異様な臭気を持っていそうな暗い汚い部屋。正面の右に窓あり、左に戸口がある。窓より夕暮の薄明の裡にすさまじき跳躍をなしつつある大平洋の姿が見える。初夏の一日。戸外は稍烈しき風の音。窓の直ぐ傍に漁具を繕っている老人が坐っている。闇は烈しく襲いつつある。


老人 (窓より海と空とを眺めつつ)また荒れやがる。およし!およし!何ぐずぐずしとるんか。早うランプつけんかい。

およし (戸口から内へはいって来ながら)夜さになったらまた一荒れ荒れるやろう。また海奴が人間を欲しがっておるわい。

老人 早うラソブ点けったら。何ぐずぐずしとるんか。

およし (悪意ある口吻にて)よう考えて見い。こんなに風が吹いとるにランプが点くけ。

老人 (云い込められる習慣になれている如く)もう舟は皆戻っとるんやろうな。

およし ああ、戻っとる。先刻助の舟が一番おしまいに戻っていた。今日の時化では後家は出来んわい。

老人 末は遅いな。

およし もう直き戻って来る。荒れとるけに舟を川上の方へ廻しとかな、いかんのやろ。・・・(飯を仏壇に供えながら)勝の死んだ晩は今日よりも荒れとったのう。

老人 あの時とは比べもんになるけ。岸に寄りつこうとする舟が、大浪を喰ってバラバラに砕けるんやからな。岸から鼻の先まで来とっても寄りつけんのやからな。

およし もうあの時の話はせんことにしよう、また勝の事を思い出すけに。

老人 海は俺達の飯の種や、なんぼ恐しゅうても寄りつかないかんわい。今度町へ行ったら渋を忘れるな。

およし 勝は鰹を釣らしたら、日に四両や五両は何でもなかったな。あいつは小さい時から、他人の事云うたら先にたって働いとったが、とうとう他人のために命をほうってしもた。

老人 まあ、ええわ。この浜の奴は畳の上で死ねんのや。身体だけでも帰って来たらまあええ方や。町の奴が云うとる香西の奴棺桶入らずや、棺桶屋は香西にない云うとる。

およし (戸口から空を見ながら)まだ荒れるぜ、巽が真黒やあ。

隣人 (戸口から物音もさせずに這入って来る)村の舟は皆戻っとるんやろうな。

およし 今日は荒模様になると皆逃げて帰って来たのや。先度の事で懲りとるけにな。

隣人 そうやろう。ええ若い者が五人も死んだんやからな。勝太郎さんが死んで、えろう困るやろうな。(烈しき風の音)だんだん酷うたって来るなあ。

老人 今もそう云うとんや、彼奴は勲章の金がはいるしな、腕はあるしな、年が寄って彼奴にほっとかれては生きるせいがないわ。

隣人 けどな、この村で死んだ奴は多いけど知事さんから使が来たり、郡長さんが葬式の伴をしてくれたのは勝太郎さんだけやないか。町の新聞やってえろう書きよったぜ。あの墓石を見いや。この近所には二つとない大きいもんやないか。

およし ええ死に方やろ。死に賃が七円五十銭やと云うからなあ。

隣人 おかあのように云うたものでないわ。お上から下さる金やもの七円五十銭やで貴いもんやないか。村の達蔵が身投を助けた時やって、たった一円五十銭やもの、それから見たら七円五十銭云ったら大金じゃ。

およし 阿呆くさい。七円五十銭位の瑞金、鰹を釣ったら二日か三日で儲けるわ。

隣人 お上から下さるもんやけに第一名誉やないか。

およし 勝が死んでから年に三百両も違うけになあ。難船の人が三人で皆助かったのに助けに行った方が七人とも死んでしもて、こんな阿呆くさいことがあるもんけ、助けに行かん方が人間の数から云うてもよっぽど得や。

老人 愚痴を云うな、お前は記念碑の式のときにも仮病を起しやがって、とうとう出たかったがまだぐずぐず云うんか。

およし (激して)当り前やないか。お前のようなお人好しとはちいと違うけにな。郡長さんに賞められて嬉しがって泣いたりしやがって、それほど息子が惜しゅうないんか。息子をとられて七円五十銭貰うて、オダテに乗って嬉しがっとる馬鹿があるけい。難船があったら救わなならん云う青年会の規定が無茶や。年の寄った二親をほうって置いて他人の命を助けて何になるんや。

老人 このあまあ、頬げたばち張り飛ばすぞ。

およし 何ぬかしやがるんや、おいぼれ。

隣人 (争わんとする二人を止めて)まあええわ。あとにたった事は仕様がないわ。

(室全く暗し、およし戸棚よりカンテラを下して火を点ける)

およし 風がひどいけにランプが点きゃせん。これで辛抱するんや。

(この時戸口があいて吹き込む風と共に末次郎が帰って来る。十七歳の少年。やや上品な顔立と黒い眸とを持っている)

末次郎 (上りがまちに寝ころぴながら)おお腹が空いた。お母、飯を直ぐ喰べさして。

隣人 沖はどうだった。

末次郎 雲が出たから、滅茶々々に漕いだんや。今日はええ工合に遠くへ行っとらんでな。岬が見えとった。

老人 (戸外に吹き募る風の音に耳を傾けて)だんだんひどうなってくるな。

隣人 末さあ、兄が居らんけに骨が折れるやろうな。

末次郎 そやけんど。ああ云う事で死んだんやけに仕方がないと思うて働いとんや。誰やって難船したときは助かりたいからな。

隣人 勝さんが死んだんで青年会長の選挙がある云うげんどもう勝さんのようなええ人はないわ。

およし (飯の仕度をしながら窓外を見て)また風がひどうなってくるな。雨も降り出したぜ。末や、おかずはひじきのたいたんやぜ。

末次郎 何でもええけに早う喰べさして。

隣人 (帰らんとして戸口を出たが直くはいって来て)誰かしら走って来るぜ。

外の声 (風に交ってかすかに)舟が帰ったぞう。舟が帰ったぞう。

末次郎 (老人、隣人、殆ど同時に)ええ、舟が帰って来た。

末次郎 (戸口から顔を出して)おい誰の舟や、誰の舟やあ。

外の声 (やや不明に)誰の舟やら分らんけど灯が見えるんやあ。

隣人 誰のやろう。

末次郎 皆帰ったと思うたがそりゃ一艘遅れたんやな。

およし この風じゃまた岸に着けんやろ、ひどうなって来とるけに。

隣人 難しい、とても着けやせん。どら行って見て来よう。(急いで退場)

末次郎 不思議やなあ。もう誰も残っとらんと思うとったのに、わしも一寸行って見て来る。

およし (末次郎を引きとめながら)飯も喰べずに行かんでもええ。

末次郎 一寸行って見て来るんや。

およし 行かんでもええ、さあ飯をお喰べ。

一人の漁夫 (駆けこんで来ながら)浜で火をたいてやるんやけに薪をかしてくれ。

末次郎 誰の舟や。

漁夫 誰の舟やら分らんけど、あの通りにわめいとる。今、川の方へ調べに行ったんや。

およし やっばり助け舟を出すのけ。

漁夫 出さないかん。先度の事があるけんど見殺しには出来んからな。

(この時初て海上よりの悲鳴風に交じりてきこゆ)

漁夫 あの声をきくと三年命が縮まる。あれをきいたら助けずにはおれんわい。

およし 阿呆な。わしは生れてから耳が痛うなるほど聞いとるけに何ともないわ。お父の死んだ時にも兄貴の死んだときにも思う存分聞いとるけに。(薪を一束持ってくる)

漁夫 えろうケチケチすんやな。

およし ケチケチせいでか。ええ息子一人とられたんやからな。

漁夫 勝さんが生きとった時はこんな時は一番に飛び出したな。人のため云うたら命でも惜しんどらん。

およし その代りに自分の親をほったらかして苦労させやがるんや。

漁夫 (返事もせずに出てしまう)

およし 話が分らん奴に薪一束でも惜しいわ。

末次郎 お母一寸行って来るぜ。

およし 行くなと云うたら行くな。また勝のように助け舟に乗って、岩に打ちあてて、他人様のために命をほうりたいか。

末次郎 (苦笑して)何を云うんや。まだ舟を出すとも出さんともきまっとらんのに。

およし 勝はな。わしに長年養うて貰うとりながら、一文も貰うたことのない他人様のために命をほうりやがったんや。お前もそんな真似をするやないぞ。あんな石碑が建ったって、あれが何になるんや、年の寄った両親に何のたしになるんや。

末次郎 愚痴はええ加減にしとけ。

およし 云わいでか。何ぼでも云うんや、生みの親を捨てて行ったものを皆よってたかって賞めやがって、私に気の毒や云うてくれる奴は一人やってありゃせん。働き盛りの息子をとられて何が名誉や。

(未次郎は母にかまわず窓から海上を見ている。悲鳴は風の絶間にきこえて来る。やがて海浜に炬火が点ぜられたのが見える、多くの人々がその光に写し出される。風に交りて喧噪の声も聞える)

隣人 (戸口から駆けこんで)おい、およしさん何か燃すものはないけ。

およし もう先刻出したやないか。

隣人 こう云う時じゃけに、もっと出してくれ。後で青年会から返すそうじゃけに。

およし (いやいや薪を渡しだから)一体誰の舟や。

隣人 まだ分らん。(退場)

(舟はだんだんこの家に近くなるらしい。舟の悲鳴も人々の喧噪の声も間近にきこえる。風は少しも勢を減じない)

一人の男 (戸口に現われて)綱がありゃ借してくれ。

およし 誰か泳いで行くのかい。

 先度の事があるけに泳いで行って綱を渡すことにしたんや。

およし 誰が行くのや。

 まだ分からん。行くものがなけりゃ、青年会員で籤引や。

およし (不安に)末にも引けい云うまいな。

 心配せいでもええわ。末さんはまだ子供や。それに兄さんが死んどるんやもの。誰が末さんをやらすものか。

およし (安心して)そうやろうな。(綱を出して来る)

末次郎 誰の舟やら分からんのけ。

 まだ分からん。

他の男 (戸口に現われて)俺が行くことになったんや。綱はあるけ。

 お前が行ってくれるんけ。

他の男 綱さえ掴んどりゃ大丈夫や、めったに下手な事はやりゃせん。

第三の>男 (戸口に来て)おい他村の舟らしいぜ。

他の男 何だ他村の奴か。

 それでもやっぱり行ってやらないかんやろ。村同志の交際じゃから。

他の男 ウン行ってやる。(三人退場)

(末次郎窓からじっと沖を見ている。母は監視するように傍に立っている)

隣人 (老人と一緒に帰って来て)何や阿呆らしい、××の舟や。

およし 何や××の舟か。

隣人 浅見村の××の舟や、権二も飛び込むのを止めてしもた。××の為に命でもほうったら笑われ物やからなあ。

およし そうや、それに浅見の××が海へ出だしてからこの村の魚の値が下ったんや。この村の魚まで××がとったんやと云われてなあ。

隣人 ××なら誰も行き手はないわ。

およし (初て安心して末次郎の傍を離れる)そうやろう。××のために命をほうったらつまらんからのう。

村の男 (はいって来て)××の舟やけど、火だけはたいてやろう。

老人 浅見へ知らしてやらんのか。

村の男 こんな雨風の晩に二里の道を行く奴があるけ。それに浅見の××とは去年の事があるけにほっといてもかまやせんわい。

外の声 (もう傍観的な興味と安心とが含まれている)だんだん西へ流されるな。岩へぷっつかるとおしまいやな。

末次郎 (凝視していたが何かを耳にして)子供が乗っとるんやな。

村の男 大人が三人と七八つの子供が一人居る。

末次郎 (ややふるえる声で)誰も行ってやらんのか。

村の男 それほど命の不用なものは居らんわい。(末次郎ふいと窓から飛降りる)

およし (気がついて戸口へ馳けよりながら)末や。どこへ行くんや。飯を喰べんかい。末や。末やあ!

(返事なし。皆、やや不安に囚われる。舟愈々近く悲鳴手にとる如くきこえて来る)

外の声 (急に)やあ誰かしらん綱を持って飛び込んだぞ。誰や誰や。

およし (烈しき不安に打たれながら外へ馳け出す)末や、末やあ。(他の三人後よりつづく)

(戸外には新しい喧噪と動揺とが風の裡に起る。その裡に交って次の叫びがきこえる)

種々の声 綱を離すな。一一 一体誰や 一一 岩の方へ流されるぞ 一一 飛び込んだのは誰や 一一 ほら珊あすこへ浮んで出た 一一 また沈んだぞ 一一。

およしの声 (この喧噪を聞いて)末や、末やあ!

種々の声 おい見えんぞ 一一 見えんぞ 一一 綱を離したんやないか。一一 おい引っ張って見い 一一 手答がないか 一一 見い綱ばっかりや。

およしの声 (狂乱に近く)末や、末やあ。

(烈しき風の裡にこの叫びはなお続いて行く)

一一 幕 一一

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