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ディツケンス作『クリスマス・カロル』

森田草平譯(岩波文庫 496、岩波書店、昭和四年四月二十日發行)

「神よ陽気に殿方を憩わせたまえ」("God Rest You Merry, Gentlemen")

目 次


挿絵:ジョン・リーチ


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はしがき

 ディキンズが最もイギリス的な作家としてイギリス人に愛されてゐた(ゐると云つてもよいだらう)のは、主として滑稽作家ヒユウモリストとしてであつた。彼は前時代の先輩の中でも殊にゴウルドスミスとスタアンに私淑してゐた、それだけ前者の甘美な家庭趣球、また後者の多感な人道主義は、彼の作品の本質的要素を成してゐるのであるが、更に兩者の中に溢れてゐた滑稽味ヒユウマは、彼に於はは一層勢よき漲りをなしてその作品のすべてに湛へてゐる。これが何より彼の天才の特色であつて、夙に「ピクウィク」に依つて名を成したのも、長くヴィクトリア朝第一の人氣者として聲價を保つたのも皆その滑稽味ヒユウマの爲である。滑稽味ヒユウマがディキンズの作晶の精~だとギッシングは云つた。ディキンズは非常にまじめな人道主義者であつたから、若しその滑稽味ヒユウマを缺いたとしたら、社會改善者としては相當に仕事をしたであらうが、小讀家としては失敗に終つただらうと云つたギッシングの説は當つてゐると思ふ。彼の描いた多くの性格の中で、眞實でないとか、またその他の意味で、十分でない者はあるとしても、滑稽的ヒユウモラスな性格で成功してない者は一つもない。「クリスマス・カロル」のスクルウジがその一例である。ディキンズの滑稽味ヒユウマにはきまつて感傷ペイソスが加味されるのが、またその特長である。彼の感傷ペイソスは「カロル」に依つて始眞個リスマス物(一八四三年−四六年)に於は最上に達して居るが、之は感傷ペイソスの側から云ふと、ややもすれば生生なまなましい

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實感に依つて打ち勝たれがちな危險を滑稽味ヒユウマのために調節されて居るわけであり、また滑稽味ヒユウマの方から云ふと、その誇張によつてとかく現實から離れようとする足場を感傷ペイソスで結び付けられてゐるとも見られ、互ひに持ち合つて效果を大きくする利uがある。此の感傷ペイソス滑稽味ヒユウマの調理の巧みさが殊にディキンズの同時代人を喜ばしたことに就ては、時代の風潮といふものも少からず助けたことを見遁してはならぬ。彼の書き出した三十年代は、その前に十九世紀初葉の刻薄冷淡とも形容すべき非人情的時代思潮の反動として、極端に同情的な人道主義的傾向の勃發した時代であつた。ディキンズはその潮流に乘つて忽ちイギリス文人の選手となつたのである。彼は貧しき者、弱き者の生活の中に入り込んで「下級の桂冠詩人」と謳はれた。それは貴族の社曾が實力を失ひ、富者の社曾が現はれようとする時であつた。さうして、働く下級者が擡頭しつつある時であつた。ディキンズは同時代の一人なる批評家ウォルタ・バジョトは、一八二五年から四五年へかけてのイギリスの新進階級を指導した此のラディカリズムの思想の中でも、特にディキンズのほセンティメンタル・ラディカリズムとでも云ふべき性質のものであつたと云つて居る。「カロル」ほ實にその傾向の間に於は書かれたものであつた。

 昭和四年二月、譯者森田草平君が順天堂病院で腹部を切開して筆を執られぬから、代りに此のはしがきを書く。英學者であり小説家である草平君が「カロル」の譯者として如何に適當であるかに就ては今更吹喋するに及ぶまい。

法政大學にて、野上豐一郎



譯者紹介

森田草平。1881-1949。本名米松。小説家。岐阜県方県郡鷺山村(現在の岐阜市鷺山)に生まれた。海軍に志したのち、第四高等学校、第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。文学への開眼は森鴎外の『水沫(みなわ)集』に接してなされ、生田長江らと回覧雑誌『夕づゝ』を出し、また植田敏、馬場孤蝶らの同人雑誌『芸苑』に加わったりした。1904(明治37)年夏目漱石の木曜会に出席しはじめ、その影響下に文壇人となった。夏目漱石に師事し、漱石門の四天王に数えられた。処女作である出世作は、漱石の推薦によって『朝日新聞』に書いた『煤煙』(1909) で、これは平塚らいてうとの恋愛事件の体験を描いたものであった。その後漱石担当の『朝日新聞』文芸欄の編集を助け、作品も『自叙伝』(1911)、『初恋』(同)、『十字街』(1912) などを出した。戯曲には『袈裟御前』(1913) がある。このころから創作上の行き詰まりを感じて翻訳に転じた。ゴーゴリの『死せる魂』、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』をはじめ各国の作品を手がけた。イプセン、ドストエフスキー、ゴーゴリなどの海外文学は、森田草平によって訳され日本に紹介された。1920(大正9)年法政大学文学部教授の職に就いた。創作に復帰したのは自伝的小説『輪廻』(1925-26) をもってで、その内容は『煤煙』の前編に位置すべきものであった。作者の最もすぐれた代表作である。そのほか歴史小説『吉良家の人々』(1929)、『四十八人目』(同)、『細川ガラシヤ夫人』(1948) などがある。晩年は共産党に入り、その情熱は人を驚かせた。漱石門下の小説家としては鈴木三重吉と双璧をなす。ただし作風は対照的である。平坦な自然主義的筆致を越えて鈍重なまでにエネルギッシュであり、情熱を込めて意志的に自己を生かす迫力に特色がある。また『夏目漱石』正・続の著もある。1949(昭和24)年12月14日、「夏目漱石の永遠の弟子」という意識を持ち続けた生涯を終えた。岐阜市鷺山にある森田草平出生地の屋敷跡には、その業績をたたえた文学碑が建てられている。


挿絵画家紹介

ジョン・リーチ(John Leech, 1817-64)。画家。挿絵画家。諷刺画家。『パンチ』への常連寄稿者。『クリスマス・カロル』に4枚の挿絵を提供した。TC と HM の挿絵画家の一人。リーチは1849年1月、ディケンズと共にノーフォーク (Norfolk) へ赴いた。翌月、彼と彼の妻は、ディケンズと妻のケイトのブライトン (Brighton) での休暇に同行した。1851年、ディケンズは彼と共にパリで短い休暇を取る。リーチが死んだ時、ディケンズは、「気の毒なリーチの死が、ひどく私の調子を狂わしてしまった」(Letters 10: 447) と書いている。