ハイパー・メディア・テクスト

ディツケンス作『クリスマス・カロル』

森田草平譯(岩波文庫 496、岩波書店、昭和四年四月二十日發行)

第四章 第三の亡靈

目 次


挿絵:ジョン・リーチ



第四章 最後の精靈

 幽靈は徐々に、嚴かに、默々として近づいて來た。それが彼の傍に近く來た時、スクルージは地に膝を突いた。何故ならば、精靈は自分の動いてゐるその空氣中へ陰鬱と~祕とを振り撒いてゐるやうに思はれたからである。

 精靈は眞Kな衣に包まれてゐた。その頭も、顔も、姿もそれに隱されて、前へ差し伸べた片方の手を除いては、何にも眼に見えるものとてなかつた、この手がなかつたら、夜からその姿を見

-- 113 --

別けることも、それを包圍してゐる暗Kからそれを區別することも困難であつたらう。

 彼はそれが自分の傍へ來た時、その精靈の背が高く堂々としてゐることを感じた。そして、さう云ふ不可思議なものがそこに居ると云ふことのために、自分の心が一種嚴肅な畏怖の念に充されたのを感じた。それ以上は彼も知らなかつた。と云ふのは、精靈は口も利かなければ、身動きもしなかつたから。

 「私はこれから來る聖降誕祭の精靈殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云つた。

 精靈は返辭はしないで、その手で前の方を指した。

 「貴方はこれ迄は起らなかつたが、これから先に起らうとしてゐる事柄の幻影を私に見せようとしていらつしやるので御座いますね」と、スクルージは言葉を續けた。「さうで御座いますか、精靈殿?」

 精靈が頭をかしげでもしたやうに、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辭であつた。

 スクルージもこの頃はもう大分幽靈のお相手に馴れてゐたとは云へ、この押し默つた形像に對しては脚がぶるぶる顫へた程恐ろしかつた。そして、いざこれから精靈の後に隨いて出て行かうと身構へした時には、どうやら眞直まつすぐに立つてさへゐられないことを發見した。精靈も彼のこの様子に氣が附いて、少し待つて落ち着かせて遣らうとでもするやうに、一寸立ち停まつた。

-- 114 --

 が、スクルージはこれがためにu々具合が惡くなつた。自分の方では極力眼を見張つて見ても、幽靈の片方の手と一團の大きなK衣の塊の外に何物をも見ることが出來ないのに、あの薄Kい經帷子の背後では、幽靈の眼が自分をぢつと見詰めてゐるのだと思ふと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身體中がぞつとした。

 「未來の精靈殿!」と、彼は叫んだ。「私は今迄お目に懸かつた幽靈の中で貴方が一番怖ろしう御座います。併し貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、又私も今迄の私とは違つた人間になつて生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思つてするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでせうか。」

 精靈は何とも彼に返辭をしなかつた。ただその手は自分達の前に眞直に向けられてゐた。

 「御案内下さい!」と、スクルージは云つた。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん經つてしまひます。そして、私に取つては尊い時間で御座います。私は存じてゐます。御案内下さい、精靈殿!」

 精靈は前に彼の方へ近づいて來た時と同じやうに動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に隨いて行つた。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くやうに思つた。

 二人は市内へ這入つて來たやうな氣が殆どしなかつた、と云ふのは、寧ろ市の方で二人の周圍

-- 115 --

に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたやうに思はれたからである。が、(いづれにしても)彼等は市の中心にゐた。即ち取引所に、商人どもの集つてゐる中にゐた。商人どもは忙しさうに往來したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになつて話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考へ込みながら自分の持つてゐる大きな黄金の刻印をいじつたりしてゐた。その他スクルージがそれ迄によく見掛たやうな、いろいろな事をしてゐた。

 精靈は實業家どもの小さな一群の傍に立つた。スクルージは例の手が彼等を指差してゐるのを見て、彼等の談話を聽かうと進み出た。

 「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥つた大漢が云つた。「どちらにしても、それに就いちや好くは知りませんがね。たゞあの男が死んだつてことを知つてゐるだけですよ」

 「何時死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。

 「昨晩だと思ひます。」

 「だつて、一體如何したと云ふのでせうな?」と、又もう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうん・・と取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にさうもないやうに思つてましたがね。」

 「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云つた。

 「一體あの金子は如何したのでせうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえら・・のやうな瘤をぶらぶ

-- 116 --

ら下げた赤ら顔の紳士が云つた。

 「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云つた、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでせうよ。(兎に角)私には遺して行きませんでしたね。私の知つてゐるのはこれつきりさ。」

 この冗談で一同はどつと笑つた。

 「極く安直あんちよくなおとむらいでせうな」と、同じ男が云つた。「何しろ會葬者があると云ふことは全然まるで聞かないからね。どうです、我々で一團體つくつて義勇兵になつては?」

 「お辨當が出るなら行つても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云つた。「だが、その一人になるなら、喰はせるだけは喰はせて貰はなくつちやね。」

 一同また大笑ひをした。

 「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云つた。「僕は是迄まだ一度もKい手嚢を嵌めたこともなければ、お葬禮の辨當を喫べたこともないからね。併し誰か行く者がありや、僕も行きますよ。考へて見れば僕は決してあの人の一番親密な友人でなかつたとは云へませんよ。途で會えば、何時でも立ち停つて話しをしたものですからね。や、いづれ又。」

 話手も聽手もぶらぶら歩き出した。そして、他の群へ混つてしまつた。スクルージはこの人達

-- 117 --

を知つてゐた。で、説明を求めるために精靈の方を見遣つた。

 幽靈はだんだん進んで或街の中へ滑り込んだ。幽靈の指は立ち話しをしてゐる二人の人を指した。スクルージは今の説明はこの中にあるのだらうと思つて、再び耳を傾けた。

 彼はこの人達も亦よく知り拔いてゐた。彼等は實業家であつた。大金持で、しかも非常に有力な。彼はこの人達からよく思はれようと始終心掛けてゐた。つまり商賣上の見地から見て、嚴密に商賣上の見地から見て、よく思はれようと云ふのである。

 「や、今日は?」と、一人が云つた。

 「や、今日は?」と、片方が挨拶した。

 「處で」と、最初の男が云つた。「彼奴もたうとうくたばり・・・・ましたね、あの地獄行きがさ。ええ?」

 「さうださうですね」と、相手は返辭をした。「隨分お寒いぢやありませんか、えゝ?」

 「聖降誕祭の季節なら、これが順當でせう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。」

 「いえ、いゝえ。まだ他に考へることがありますからね。左様なら!」

 この他に一語もなかつた。これがこの二人の會見で、會話で、そして別れであつた。

 最初スクルージは精靈が外見上こんな些細な會話に重きを置いてゐるのに惘れかへらうとしてゐた。が、これには何か隱れた目算があるに違ひないと氣が附いたので、それは多分何であら

-- 118 --

うかとつくづく考へて見た。あの會話が元の共同者なるジエコブの死に何等かの關係があらうとはどうも想像されない、と云ふのは、それは過去のことで、この精靈の領域は未來であるから。それかと云つて、自分と直接關係のある人で、あの會話の當て嵌まりさうな者は一人も考へられなかつた。併し何人にそれが當て嵌まらうとも、彼自身の改心のために何か隱れた教訓が含まれてゐることは少しも疑はれないので、彼は自分の聞いたことや見たことは一々大切に記憶えて置かうと決心した。そして、自分の影像が現はれたら、特にそれに注意しようと決心した。と云ふのは、彼の未來の姿の行状が自分の見失つた手掛りを與へてくれるだらうし、またこれ等の謎の解決を容易にしてくれるだらうと云ふ期待を持つてゐたからである。

 彼は自分の姿を求めて、その場で四邉を見廻はした、が、自分の居馴れた片隅には他の男が立つてゐた。そして、時計は自分がいつもそこに出掛けてゐる時刻を指してゐたけれども、玄關から流れ込んで來る群衆の中に自分に似寄つた影も見えなかつた。とは云へ、それはさして彼を驚かさなかつた。何しろ心の中に生活の一變を考へ廻らしてゐたし、又その變化の中では新たに生れた自分の決心が實現されるものと考へてもゐたし、望んでもゐたからである。

 靜かにKく、精靈はその手を差し伸べたまゝ彼の傍に立つてゐた。彼が考へに沈んだ探究から眼を覺ました時、精靈の手の向き具合と自分に對するその位置から推定して、例の見えざる眼は鋭く自分を見詰めてゐるなと思つた。さう思ふと、彼はぞつと身顫ひが出て、ぞくぞく寒氣が

-- 119 --

して來た。

 二人はその繁劇な場面を捨てゝ、市中の餘り人にも知られない方面へ這入り込んで行つた。スクルージも兼てそこの見當も、又この好くない噂も聞いてはゐたが、今迄まだ一度も足を踏み入れたことはなかつた。その往來は不潔で狹かつた。店も住宅も見窄らしいものであつた。人々は半ば裸體で、醉拂つて、だらしなく、醜くかつた。路地や拱門路からは、それだけの數の下肥溜めがあると同じやうに、疎らに家の立つてゐる街上へ、胸の惡くなるやうな臭氣と、塵埃と、生物とを吐き出してゐた。そして、その一廓全體が罪惡と汚臭と不幸とでぷんぷん臭つてゐた。

 この如何はしい罪惡の巣窟の奥の方に、葺卸屋根の下に、軒の低い、廂の出張つた店があつて、そこでは鐵物や、古襤褸や、空壜、骨類、脂のべとべとした膓屑(わたくづ)などを買入れてゐた。内部の床の上には、銹ついた鍵だの、釘だの、鎖だの、蝶番ひだの、鑪だの、秤皿だの、分銅だの、その他あらゆる種類の鐵の廃物が山の様に積まれてあつた。何人も精査することを好まないやうな祕密が醜い襤褸の山や、腐つた脂身の塊りや、骨の墓場の中に育まれ且隱されてゐた。古煉瓦で造つた炭煖爐を傍にして、七十歳に近いかとも思はれる白髪の惡漢が自分の賣買する代物の間に坐り込んでゐた。この男は一本の綱の上に懸け渡した種々雜多な襤褸布をむさくるしい幕にして、戸外の冷たい風を防いでゐた。そして、穩やかな隱居所にぬくぬく暖まりながら、呑氣に烟草をかしてゐた。

-- 120 --

 スクルージと精靈とがこの男の前に來ると、恰度その時一人の女が大きな包みを持つて店の中へこそこそと這入り込んで來た。が、その女がまだ這入つたか這入り切らぬうちに、もう一人の女が同じやうに包みを抱へて這入つて來た。そして、この女のすぐ後からげたKい服を着た一人の男が隨いて這入つた。二人の女も互に顔見合せて吃驚したものだが、この男は二人を見て同じやうに吃驚した。暫時は、煙管を喞へた老爺までが一緒になつて、ぽかんと惘れ返つてゐたが、やがて三人一緒にどつと笑ひ出した。

 「打捨うつちやつて置いても、どうせ日傭ひ女は一番に來るのだ」と、最初に這入つて來た女は叫んだ。「どうせ二番目には洗濯婆さんが來るのだ、それから三番目にはどうせ葬儀屋さんがやつて來るのさ。ちょつ・・・と、老爺さん、これが物の拍子と云ふものだよ。あゝ三人が揃ひも揃つて云ひ合せたやうにこゝで出喰はすとはねえ!」

 「お前方は一番好い場所で出會つたのさ」と、老ジヨーは口から煙管パイプを離しながら云つた。「さあ居間へ通らつしやい。お前はもうずつと以前から一々斷らないでもそこへ通られるやうになつてゐるんだ。それから自餘あとの二人も滿更知らぬ顔ではない。まあ待て、俺が店の戸を閉める迄よ。あゝ、何と云ふきしむ・・・戸だい! この店にも店自身に緊着くつついてゐるこの蝶番ひのやうに錆びた鐵つ片れは他にありやしねえよ、本當にさ。それに又俺の骨程古びた骨は此處にもないからね。はゝゝ! 俺達は皆この職業しやうばいに似合つてるさ、眞個まつたく似合ひの夫婦と云ふものだね。さあ居間へお

-- 121 --

這入り。さあ居間へ!」

 居間といふのは襤褸の帷幄カーテンの背後になつてゐる空間であつた。その老爺は階段の絨緞を抑へて置く古い鐵棒で火を掻き集めた。そして、持つてゐた煙管パイプ羅宇らうで燻つてゐる洋燈の心を直しながら(もう夜になつてゐたので、)再びその煙管を口へ持つて行つた。

 彼がこんな事をしてゐる間に、既にもう饒舌つたことのある女は床の上に自分の包みを抛り出して、これ見よがしの様子をしながら床几の上に腰を下ろした−−兩腕を膝の上で組み合せて、他の二人を馬鹿にしたやうにしやあしやあ・・・・・・と見やりながら。

 「で、どうしたと云ふんだね! 何がどうしたと云ふんだえ、えゝディルバアのお主婦さん?」と、その女は云つた。「誰だつて自分のためを思つてする權利はあるのさ。あの人・・・なんざ始終さうだつたんだよ。」

 「そりやさうだとも、實際!」と、洗濯婆は云つた。「何人だれもあの人以上にさうしたものはないよ。」

 「ぢや、まあさう可怖おつかなさうにきよろきよろ・・・・・・立つてゐなくとも好う御座んさあね、お婆さん、誰が知つてるもんですか。それに此方こちとらだつてお互に何も弱點あらの拾ひつこをしようと云ふんぢやないでせう、さうぢやないかね。」

 「さうぢやないともさ!」と、ディルバーの主婦さんとその男とは一緒に云つた。「勿論そん

-- 122 --

な積りはないとも。」

 「それなら結構だよ」と、その女は呶鳴つた。「それでもう澤山なのさ。これ位僅かな物を失くしたとて、誰が困るものかね。眞逆死んだ人が困りもしないだらうしねえ。」

 「眞個まつたくさうだよ」と、ディルバーの主婦さんは笑ひながら云つた。

 「死んでからも、これが身に着けてゐたかつたら、あの因業親爺がさ」と例の女は言葉を續けた。「生きてゐる時に、何故人間並にしてゐなかつたんだい? 人間並にさへしてりや、お前、いくら死病に取り憑かれたからとて、誰かあの人の世話位する者はある筈だよ、あゝして一人ぽつちで彼處に寝たまゝ、最後の息を引き取らなくたつてねえ。」

 「眞個まつたくそりや本當の話だよ」と、ディルバーの主婦さんは云つた。「あの人に罰が當つたんだねえ」

 「もう少し酷い罰が當てゝ貰ひたかつたねえ」と、例の女は答へた。「なに、もつと他の品に手が着けられたら、大丈夫お前さん、もう少し酷い罰を當てゝ遣つたんだよ。その包みを解いておくれな、ジヨー爺さんや。そして、値段をつけて見ておくれな。なに、明白はつきりと云ふが可いのさ。私や一番先だつて構やしないし、又皆さんに見てゐられたつて別段こはかないんだよ。私達は此處で出會はさない前から、お互様に他人ひとの物をくすねてゐたことは好く承知してゐるんだからねえ。別段罪にやならないやね。さあ包みをお開けよ、ジヨー。」

-- 123 --

 が、二人の仲間にも侠氣があつて、仲々さうはさせて置かなかつた。禿げちよろのKの服を着けた男が眞先驅けに砦の裂目を攀じ登つて、自分の分捕品を持ち出した。それは量高かさだかの物ではなかつた。印刻が一つ二つ、鉛筆入れが一個、袖口カフスボタンが一組、それに安物の襟留めと、これだけであつた。品物はジヨー爺さんの手で一々檢められ、値踏みされた。爺さんはそれぞれの品に對して自分がこれだけなら出してもいゝと云ふ値段を壁の上に白墨で記した。そしていよいよこれだけで、後にはもう何もないと見ると、その總額を締め合せた。

 「これがお前さんの分だよ」と、ジヨーは云つた。「釜で煮られるからと云つても、この上は六ペンスだつて出せないよ。さ、お次は誰だい?」

 ディルバーの主婦さんがその次であつた。上敷とタウエルの類、少し許りの衣裳、舊式の銀の茶匙二本、一挺の角砂糖挾み、それに長靴二三足。彼女の勘定も前と同じやうに壁の上に記された。

 「俺は婦人にはいつも餘計に出し過ぎてね。これが俺の惡い癖さ。又それがために損ばかりしてゐるのさ」と、ジヨー老爺は云つた。「これがお前さんの勘定だよ。この上一文でも増せなどと云つて、まだこれを決着しないものにする氣なら、俺は折角奮發したのを後悔して、半クラウン位差引く積りだよ。」

 「さあ、今夜は私の荷物をお解きよ、ジヨーさん。」と、最初の女が云つた。

-- 124 --

 ジヨーはその包みを開き好いやうに兩膝を突いて、幾つも幾つもの結び目を解いてからに、大きな重さうな卷き物になつた何だかKつぽい布片きれを引き摺り出した。

 「こりや何だね?」と、ジヨーは云つた。「寝臺の帷幄カーテンかい。」

 「あゝ!」と、例の女は腕組みをしたまゝ、前へ屈身こごむやうにして、笑ひながら返辭をした、「寝臺の帷幄だよ。」

 「お前さんも眞逆あの人を彼處に寝かしたまゝ、環ぐるみそつくりこれを引つ外して來たと云ふ積りぢやなからうね。」と、ジョーは云つた。

 「さうだよ、さう云ふ積りなんだよ」と、その女は答へた。「だつて、いけないかね。」

 「お前さんは身代造りに生れついてゐるんだねえ」と、ジヨーは云つた。「今に屹度一身代造るよ。」

 「さうさ、私も手を伸ばすだけで何がしでもその中に握れるやうな場合に、あの爺さんのやうなあんな奴のためにその手を引つ込めるやうな、そんな遠慮はしない積りだよ、ジヨーさん、お前さんに約束して置いても可いがね」と、例の女は冷やかに返答した。「その油を毛布の上へ垂らさないやうにしておくれよ。」

 「あの人の毛布かね」と、ジヨーは訊ねた。

 「あの人のでなけりや、誰のだと云ふんだよ」と、女は答へた。「あの人も(あゝなつては)

-- 125 --

毛布がなくたつて風邪を引きもしまいぢやないか、本當の話がさ。」

 「眞逆傳染病で死んだんぢやあるまいね、えゝ?」と、老ジヨーは仕事の手を止めて、(相手を)見上げながら云つた。

 「そんな事はびくびくしないでも可いよ」と、女は云ひ返した。「そんな事でもありや、いくら私だつてこんな物のために何時迄も彼奴の周りをうろついてゐる程、彼奴のお相手が好きぢやないんだからね。あゝ! その襯衣シャツが見たけりや、お前さんの眼が痛くなる迄好く御覽なさいだ。だが、いくら見ても、穴一つ見附ける譯にや行かないだらうよ、擦り切れ一つだつてさ。これが彼奴の持つてゐた一番上等のだからね。又實際好い物だよ、私でもこれを手に入れなかろうものなら、他の奴等はむざむざと打捨うつちやつてしまふ處なんだよ。」

 「打捨うつちやるつてどう云ふことなんだい?」と、老ジヨーは訊ねた。

 「彼奴に着せたまゝ一緒に埋めてやるのに極まつてらあね」と、その女は笑ひながら答へた。「誰か知らんが、そんな眞似をする馬鹿野郎があつたのさ。でも、(良い按排に)私が(それを見附けて、)もう一度脱がして持つて來ちまつたんだよ。そんな目的には(キャリコで澤山さ。)キャリコで間に合はなかつたら、キャリコなんてえものは何にだつて役に立ちはしないよ。死骸には(痲の襯衣)同様しつくり似合ふものね。彼奴があの(痲の)襯衣を着てゐた時見つともなく見えたよりも、見つともなく見える筈はないよ。」

-- 126 --

 スクルージは慄然としながらこの對話に耳を傾けてゐた。例の老爺さんの洋燈から出る乏しい光の下に、銘々の分捕品を取り捲いて、彼等が坐つてゐた時、彼はたとひ、彼等が死骸其者を賣買する醜怪な惡鬼どもであつたとしても、よもこれより烈しくはあるまいと思はれる程の憎惡と嫌忌の情を以てそれを見やつたものだ。

 老ジヨーが錢の入つてゐるフランネルの嚢を取り出して、床の上に銘々の所得を數へ立てた時に、例の女は「はッ、はァ!」と、笑つた。「これが事の結末むすびでさあね。彼奴が生きてゐた時分は、誰でも彼でもおどかしてそばへ寄せ附けなかつたものだが、そのお蔭で死んでから私達を儲けさしてくれたよ。はッ、はッ、はァ!」

 「精靈殿!」と、スクルージは頭から足の爪先までぶるぶると顫へながら云つた。「分りました。分りました。この不幸な人間のやうに私もなるかも知れませんね。今では、私の生活もそちらの方へ向いて居ります。南無三、こりやどうしたのでせう!」

 目の前の光景が一變したので、彼はぎよつとして後へ退つた。彼は今や殆ど一つの寝床に觸れようとしてゐたのだ。帷幄も何もない露出むきだしの寝床である。その寝床の上には、ぼろぼろの敷布に蔽はれて、何物かが横はつてゐた。それは何とも物は云はないが、畏ろしい言葉でそれが何物であるかを宣言してゐた。

 この部屋は非常に暗かつた、どんな風の部屋であるか知りたいと思ふ内心の衝動に從つて、ス

-- 127 --

クルージはその部屋の中をぐるりと見廻はしては見たが、少しでも精密に見分けようとするには餘りに暗かつた。戸外の空中に昇りかけた(朝の太陽の)薄白い光が眞直に寝床の上に落ちた。するとその寝床の上に、何も彼も剥ぎ取られ、奪はれて、誰一人見張つてゐる者もなければ、泣いてやる者もなく、世話の仕手してもないまゝで、この男の死體が横はつてゐた。

 スクルージは精靈の方を見やつた。そのびく・・ともしない手は死體の頭部を指してゐた。覆ひ物は、一寸それを持ち上げただけでも、スクルージの方で指一本を動かしただけでも、その面部を露出しただらうと思はれる程、如何にもぞんざい・・・・に當てがはれてゐた。彼はその事について考へた。さうするのが如何にも造作ないことだと云ふことにも氣が附いた、結局さうしたいとも思つて見た。が自分の傍からこの精靈を退散させる力が自分にないと同様に、この覆ひ物をくるだけの力がどうしても彼にはなかつた。

 お、冷たい、冷たい、硬直な、怖ろしい死よ、此處に汝の祭壇をしつらへよ。そして、汝の命令のまゝになるやうな、さまざまの恐怖をもてその祭壇を装飾せよ。こは汝の領國なればなり。乍併愛されたる、尊敬せられたる、名譽づけられたる頭からは、その髪の毛一本たりとも汝の恐ろしき目的のために動かすことは出來ないし、その目鼻立ちの一つでも見苦しいものにすることは出來ない。何もそれはその手が重くて、放せば再びだらりと垂れるからではない。又その心臓も脈も靜かに動かないからではない。否、その手は生前氣前よく、鷹揚で、誠實であつたからである。

-- 128 --

その心は勇敢で、暖かで、優しかつたからである。そして、その脈搏は眞の人間のそれであつたからである。斬れよ、死よ、斬れよ! そして、彼の善行がその傷口から飛び出して、永遠の生命を世界中に種蒔くのを見よ!

 何等の聲がスクルージの耳にこれ等の言葉を囁いたのではない。しかも彼は寝床の上を見やつた時に、まざまざとこんな言葉を聞いた。彼は考へた、萬一この人間が今生き返ることが出來たとしたら、先ず第一に考へることはどんな事であらうかと。貪慾か、冷酷な取引か、差し込むやうな苦しい心遣ひか。かう云ふものは彼を結構な結果に導いてくれた、眞個まつたくね!

 「この人はかう云ふことで私に親切にしてくれた、あゝ云ふことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云つて呉れるやうな、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝てゐた。一疋の猫が入口の戸を引掻いてゐた、爐石の下ではがりがり噛じつてゐる鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在つて何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそはそはしてゐるのか、スクルージは迚も考へて見るだけの勇氣がなかつた。

 「精靈殿!」と、彼は云つた。「これは恐ろしい所です。此處を離れた處で、此處で得た教訓は忘れませんよ、それだけは私の云ふことを信じて下さい。さあ參りませう!」

 處が、精靈はまだぢつと一本の指でその頭部を指してゐた。

-- 129 --

 「もう解りました」と、スクルージは返辭をした。「私も出來ればさうしたいのですがね。ですが、私にはそれだけの力がないのです、精靈殿。それだけの力がないのです。」

 又もや精靈は彼の方を見てゐるらしかつた。

 「この男が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあつたら」と、スクルージはもうこの上見てはゐられないやうな氣持で云つた。「何卒その人を私に見せて下さい。精靈殿、お願ひで御座います!」

 精靈は一瞬間彼の前にその眞Kな衣を翼のやうに擴げた。そして、それを引いた時には、そこに晝間の部屋が現はれた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。

 その女は誰かを待つてゐるのであつた。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びてゐるのであつた。と云ふのは、彼女が部屋の中を頻りに往つたり來たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がつたり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしようとしても手に着かなかつたりした。そして、(傍で)遊んでゐる子供達の聲を平氣で聞いてゐられない程苛々してゐたからである。

 やつと待ち焦れてゐた戸を敲く音が聞えた。彼女は急いで入口に彼女の良人を迎へた。良人と云ふのは、まだ若くはあるが、氣疲れで、滅入り切つたやうな顔をした男であつた。が、今やその顔には著しい表情が現はれてゐた、自分ながら恥かしいことに思つて、抑へようと努めてはゐ

-- 130 --

るが、どうも壓へ切れないやうな、容易ならぬ喜びの表情であつた。

 その男は爐のはたに自分のためにとてつて置かれてあつた御馳走の前に腰を下ろした。それから彼女がどんな様子かと力なげに訊いた時に、(それも長い間沈默してゐた後で、)彼は何と返辭をしたものかと當惑してゐるやうに見えた。

 「好かつたのですか」と、彼女は相手を助けるやうに云つた。「それとも惡いのですか。」

 「惡いんだ」と、彼は答へた。

 「私達はすつかり身代限りですね?」

 「いや、まだ望みはあるんだ、キヤロラインよ。」

 「あの人の氣が折れゝば」と、彼女は意外に思つて云つた、「望みはありますわ! 萬一そんな奇蹟が起つたのなら、決して望みのない譯ではありませんよ。」

 「氣の折れる處ではないのさ」と、彼女の良人は云つた。「あの人は死んだんだよ。」

 彼女の顔つきが眞實を語つてゐるものなら、彼女は温和おとなしい我慢強い女であつた。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思つた。そして、兩手を握つたまゝ、さうと口走つた。次の瞬間には、彼女も~の宥免を願つた。そして、(相手を)氣の毒がつた。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であつた。

 「昨宵お前に話したあの生醉ひの女が私に云つたことね、それ、私があの人に會つて、一週間

-- 131 --

の延期をョまうとした時にさ。それを私は單に私に會ひたくない口實だと思つたんだが、それは眞個まつたく 眞實ほんとうのことだつたんだね。たゞ病氣が重いと云ふだけぢやなかつたんだ、その時はもう死にかけてゐたんだよ。」

 「それで私達の借金は誰の手に移されるんでせうね?」

 「そりや分からないよ。だが、それ迄には、こちらも金子の用意が出來るだらうよ。たとひ出來ないにしても、あの人の後嗣あとつぎが又あんな無慈悲な債權者だとすれば、餘つ程運が惡いと云ふものさ。何しろ今夜は心配なしにゆつくりと眠られるよ、キヤロライン!」

 出來るだけその心持を隱すやうにはしてゐたが、二人の心はだんだん輕くなつて行つた。子供達は解らないながらもその話を聞かうとして、鳴りを鎭めて周圍に集まつてゐたが、その顔はだんだん晴れ晴れして來た。そして、これこそこの男の死んだために幸bノなつた家庭であつた。この出來事に依つて惹起された感情の中で、精靈が彼に示すことの出來た唯一のものは喜スのそれであつた。

 「人の死に關係したことで、何か優しみのあることを見せて下さいな」と、スクルージは云つた。「でないと、今しがた出て來たあの暗い部屋がね、精靈殿、何時迄も私の眼の前にちらついてゐるでせうからね。」

 精靈は彼の平生歩き馴れた街々を通り脱けて、彼を案内して行つた。歩いて行く間に、スクル

-- 132 --

ージは自分の姿を見出さうと彼方此方を見廻はしたものだ。が、何処にもそれは見附からなかつた。彼等は前に訪問したことのある貧しいボブ・クラチツトの家に這入つた。すると、母親と子供達とは煖爐の周りに集まつて坐つてゐた。

 靜かであつた。非常に物靜かであつた。例の騒がしい小クラチツトどもは立像のやうに片隅にぢつとかたまつて、自分の前に一册の本を擴げてゐるピータアを見上げながら腰掛けてゐた。母親と娘達とは一生懸命に針仕事をしてゐた。が確かに彼等は非常に靜かにしてゐた。

 「『また孩子をさなごを取りて、彼等の中に立てゝ、さて‥‥』」

 スクルージはそれ迄何処でかう云ふ言葉を聞いたことがあるか。彼はそれ迄それを夢に見たこともなかつた。彼と精靈とがその閾を跨いだ時に、その少年がその言葉を讀み上げたものに違ひない。だが彼はどうしてその先を讀み續けないのか。

 母親は卓子の上にその仕事を置いて、顔に手を當てた。

 「どうも色が眼にさはつてねえ」と、彼女は云つた。

 色が? あゝ、可哀さうなちび・・のティムよ!

 「もうくなりましたよ」と、クラチツトの主婦かみさんは云つた。「臘燭の光では、Kい物は眼を弱らせるね。私は、阿父さんがお歸りの時分には、どんな事があつても、どんよりした眼をお目にかけまいと思つてるんだよ。そろそろもうお歸りの時分だね。」

-- 133 --

 「過ぎた位ですよ」と、ピータアは前の書物を閉ぢながら云つた。「だが、阿父さんはこの四五日今迄よりは少しゆつくり歩いて戻つてらつしやるやうだと思ひますよ、ねえ阿母さん。」

 彼等は又もやひつそりとなつた。が、漸くにして、彼女は云つた、それもしつかりした元氣の好い聲で−−それは一度慄へただけであつた。−−

 「阿父さんは好くちび・・のティムを肩車に乘せてお歩きになつたものだがねえ、それもずゐぶん速くさ。」

 「僕もおぼえてゐます」と、ピータアは叫んだ。「たびたび見ましたよ。」

 「わたしも覺えてゐますわ」と、他の一人が叫んだ。つまり皆が皆覺えてゐるのであつた。

 「何しろあの兒は輕かつたからね」と、彼女は一心に仕事を續けながら、再び云つた。「それに阿父さんはあの兒を可愛がつておいでだつたので、肩車に乘せるのがちつとも苦にならなかつたのだよ、些とも。あゝ阿父さんのお歸りだ!」

 彼女は急いで迎へに出た。そして、襟卷にくるまつた小ボブ−−實際彼には慰安者(註、原語では襟卷と慰安者の兩語相通ず)が必要であつた、可哀さうに−−が這入つて來た。彼のためにお茶が爐棚の上に用意されてゐた。そして、一同の者は誰が一番澤山彼にお茶の給仕をするかと、めいめい先を爭つてやつて見た。その時二人の小クラチツトどもは彼の膝の上に乘つて、それぞれその小さい頬を彼の顔に押し當てた−−「阿父さん、氣に懸けないで頂戴ね、泣かないで下さいね」とでも云ふやうに。

-- 134 --

 ボブは彼等と一緒に愉快さうであつた。そして、家内中の者にも機嫌よく話しをした。彼は卓子の上の縫物を見やつた。そして、クラチツトのお主婦かみさんや娘どもの出精と手疾さとを褒めた。(そんなに精を出したら、)日曜日(註、この日が葬式の日と定められたものらしい)のずつと前に仕上げてしまふだらうよと云つたものだ。

 「日曜日ですつて! それぢやあなたは今日行つて來たんですね? ロバート」と、彼の妻は云つた。

 「あゝさうだよ」と、ボブは返辭をした。「お前も行かれると好かつたんだがね。あの青々した所を見たら、お前も嘸晴れ晴れしたらうからね。なに、これから度々見られるんだ。何時いつか私は日曜日には毎も彼処へ行く約束をあの子にしたよ。あゝ小さい、小さい子供よ」と、ボブは叫んだ。「私の小さい子供よ。」

 彼は急においおい泣き出した。どうしても我慢することが出來なかつたのだ。それを我慢することが出來るやうなら、彼とその子供とは、恐らくは彼等が現在あるよりもずつと遠く離れてしまつたことであらう。

 彼はその室を出て、階段を上つて二階の室へ這入つた。そこには景氣よく燈火あかりが點いて、聖降誕祭のお飾りが飾つてあつた。そこには又死んだ子の傍へくつ附けるやうにして、一脚の椅子が置いてあつた。そして、つい・・今し方迄誰かがそこに腰掛けてゐたらしい形跡があつた。憐れなボ

-- 135 --

ブはその椅子に腰を下ろした。そして、少時考へてゐた後で、やゝ氣が落ち着いた時、彼は死んだ子の冷たい顔に接吻した。かうして彼は死んだものはもう仕方がないと諦めた。そして、再び晴れやかな氣持になつて降りて行つた。

 一同の者は煖爐の周圍にかたまつて話し合つた。娘達と母親はまだ針仕事をしてゐた。ボブはスクルージの甥が非常に親切にしてくれたと一同の者に話した。彼とはやつと一度位しか會つたことがないのだが、今日途中で會つた時、自分が少し弱つてゐるのを見て、−−「お前も知つての通り、ほん・・の少し許り弱つてゐたんだね」と、ボブは云つた。−−何か心配なことが出來たのかと訊ねてくれた。「それを聞いて」と、ボブは云つた。「だつて、あの方はとても愉快に話しをする方だものね、そこで私も譯を話したのさ。すると、『そりや本當にお氣の毒だね、クラチツト君、貴方の優しい御家内のためにも心からお氣の氣だと思ふよ』と云つて下さつた。時に、どうしてあの人がそんな事を知つてゐるんだらうね? 私には分からないよ。」

 「何を知つてゐるのですつて、貴方?」

 「だつて、お前が優しいさいだと云ふことをさ」と、ボブは答へた。

 「誰でもそんなことは知つてますよ」と、ピータアは云つた。

 「よく云つてくれた、ピータア」と、ボブは叫んだ。「誰でも知つてゝ貰ひたいね。『貴方の優しい御家内のためには心からお氣の毒で』と、あの方は云つて下すつたよ。それから『何か貴方

-- 136 --

のお役に立つことが出來れば』と、名刺を下すつてね、『これが私の住居すまひです。何卒御遠慮なく來て下さい』と云つて下さつたのさ。私がそんなに喜んだのは、なにもあの方が私達のために何かして下さることが出來るからつてえんぢやない。いや、それもないことはないが、それよりもたゝあの方の親切が嬉しかつたんだよ、親切がさ。實際あの方は私達のちび・・のティムのことを好く知つてでもいらして、それで私達に同情して下さるのかと思はれる位だつたよ。」

 「本當に好い方ですね」と、クラチツトの主婦かみさんは云つた。

 「お前も會つて話しをして見たら、一層にさう思ふだらうよ」と、ボブは返辭をした。「私はね、あの方にョんだら−−いゝかい、お聞きよ−−何かピータアに好い口を見附けて下さるやうな氣がするんだがね。」

 「まあ、あれをお聞きよ、ピータア」と、クラチツトの主婦かみさんは云つた。

 「そして、それから」と、娘の一人が叫んだ。「ピータアは誰かと一緒になつて、別に世帶を持つやうになるのだわね。」

 「馬鹿云へ!」と、ピータアはにたにた笑ひをしながら云ひ返した。

 「まあまあ、さう云ふことにもなるだらうよ」と、ボブは云つた。「いづれそのうちにはさ、尤も、それにはまだ大分時日があるだらうがね。併し何日いつどう云ふ風にして各自めいめいが別れ別れになるにしても、屹度うちの者は誰一人あのちび・・のティムのことを−−うん、私達家族の間に起つた最初

-- 137 --

のこの別れを決して忘れないだらうよ−−忘れるだらうかね。」

 「決して忘れませんよ、阿父さん!」と、一同異口同音に叫んだ。

 「そしてね、皆はあの子が−−あんな小さい、小さい子だつたが−−いかにも我慢強くて温和おとなしかつたことを思ひ出せば、さう安々とうちの者同志で喧嘩もしないだらうし、又そんな事をして、あのちび・・のティムを忘れるやうなこともないだらうねえ、私はさう思つてゐるよ。」

 「いゝえ、決してそんな事はありませんよ、阿父さん!」と、又一同の者が叫んだ。

 「私は本當に嬉しい」と、親愛なるボブは叫んだ。「私は本當に嬉しいよ。」

 クラチツトの主婦かみさんは彼に接吻した、娘達も彼に接吻した、二人の少年クラチツトどもも彼に接吻した。そして、ピータアと彼自身とは握手した。ちび・・のティムの魂よ、汝の子供らしき本質は~から來れるものなりき。

 「精靈殿!」と、スクルージは云つた。「どうやら私どもの別れる時間が近づいたやうな氣がいたします。そんな氣はいたしますが、どうしてかは私には分かりませぬ。私どもが死んでるのを見たあれは、どう云ふ人間だか、何卒教へて下さいませ。」

 未來の聖降誕祭の精靈は前と同じやうに−−尤も、前と違つた時ではあつたがと、彼は考へた。實際最近に見た幻影は、すべてが未來のことであると云ふ以外には、その間に何の秩序もあるやうに見えなかつた−−實業家達の集まる場所へ彼を連れていつた。が、彼自身の影は少しも

-- 138 --

見せてくれなかつた。實際精靈は何物にも足を留めないで、今所望された目的を指してでもゐるやうに、一直線に進んで行つた。たうとうスクルージの方で一寸待つて貰ふやうにョんだものだ。

 「只今二人が急いで通り過ぎたこの路地は」と、スクルージは云つた。「私が商賣をしてゐる場所で、しかも長い間やつてゐる所で御座います。その家が見えます。未來に於ける私はどんな事になつてゐますか。何卒見せて下さいませ!」

 精靈は立ち停まつた。その手はどこか他の所を指してゐた。

 「その家は向うに御座います」と、スクルージは絶叫した。「何故なぜ貴方は他所よそを指すのですか。」

 頑として假借する所のない指は何の變化も受けなかつた。

 スクルージは彼の事務所の窓の所へ急いで、中を覗いて見た。それは矢張り一つの事務所ではあつた。が、彼のではなかつた。家具が前と同じではなかつた。椅子に掛けた人物も彼自身ではなかつた。精靈は前の通りに指さしてゐた。

 彼はもう一度精靈と一緒になつて、自分はどうして又何処へ行つてしまつたかと怪しみながら、精靈に隨いて行くうちに、到頭二人は一つの鐵門に到着した。彼は這入る前に、一寸立ち停つて、四邉あたりを見廻した。

-- 139 --

 墓場。此処に、その時、彼が今やその名を教へらるべきあの不幸なる男は、その土の下に横はつてゐたのである。それは結構な場所であつた。四面家に取りかこまれて、生ひ茂る雜草や葭に蔽はれてゐた。その雜草や葭は植物の生の産物でなく、死の産物であつた。又餘りに人を埋め過ぎるために息の塞るやうになつてゐた。そして、滿腹のために肥え切つてゐた。誠に結構な場所であつた。

 精靈は墓の間に立つて、その中の一つを指差した。彼はぶるぶる慄へながらその方に歩み寄つた。精靈は元の通りで寸分變る所はなかつた。而も彼はその嚴肅な姿形に新しい意味を見出したやうに畏れた。

 「貴方の指していらつしやるその石の傍へ近づかないうちに」と、スクルージは云つた、「何卒一つの質問に答へて下さい。これ等は将來本當にある物の影で御座いませうか、それともたゞ單にあるかも知れない物の影で御座いませうか。」

 精靈は、依然として自分の立つて居る傍の墓石の方へ指を向けてゐた。

 「人の行く道は、それに固守して居れば、どうして或定まつた結果に到達する−−それは前以て分りもいたしませう」と、スクルージは云つた。「が、その道を離れてしまへば、結果も變るものでせう。貴方が私にお示しになることに就ても、さうだと仰しやつて下さいな!」

 精靈は依然として動かなかつた。

-- 140 --

 スクルージはぶるぶる慄へながら、精靈の方に這ひ寄つた。そして、指の差す方角へ眼で從ひながら、打捨り放しにされたその墓石の上に、「エベネザア・スクルージ」と云ふ自分自身の名前を讀んだ。

 「あの寝床の上に横はつてゐた男は私なのですか」と、彼は膝をついて叫んだ。

 精靈の指は墓から彼の方に向けられた、そして又元に返つた。

 「いえ、精靈殿、おゝ、いえ、いゝえ!」

 指は矢張りそこにあつた。

 「精靈殿!」と、彼はその衣にしつかり噛じりつきながら叫んだ。「お聞き下さい! 私はもう以前の私では御座いません。私はかうやつて精靈様方とお交りをしなかつたら、なつた筈の人間には斷じてなりませんよ。で、若し私に全然見込みがないものなら、何故こんなものを私に見せて下さるのです?」

 この時始めてその手は顫へるやうに見えた。

 「善良なる精靈殿よ」と、彼は精靈の前の地に領伏ひれふしながら言葉を續けた。「貴方は私のために取り做して、私を憐れんで下さいます。私はまだ今後の心を入れ代へた生活に依つて、貴方がお示しになつたあの幻影を一變することが出來ると云ふことを保證して下さいませ!」

 その親切な手はぶるぶると顫へた。

-- 141 --

 「私は心の中に聖降誕祭を祝ひます。そして、一年中それを守つて見せます。私は過去にも、現在にも、未來にも(心を入れ代へて)生きる積りです。三人の精靈方は皆私の心の中にあつて力を入れて下さいませう。皆様の教へて下すつた教訓を閉め出すやうな眞似はいたしません。おゝ、この墓石の上に書いてある文句を拭き消すことが出來ると仰しやつて下さい!」

 苦悶の餘りに、彼は精靈の手を捕へた。精靈はそれを振り放たうとした。が、彼も懇願にかけては強かつた。そして、精靈を引き留めた。が、精靈の方はまだまだ強かつたので、彼を刎ね退けた。

 自己の運命を引つ繰り返して貰ひたさの最後の祈誓に兩手を差上げながら、彼は精靈の頭巾と着物とに一つの變化を認めた。精靈は縮まつて、ひしやげて、小さくなつて、一つの寝臺の上支へになつてしまつた。



目 次