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ディツケンス作『クリスマス・カロル』

森田草平譯(岩波文庫 496、岩波書店、昭和四年四月二十日發行)

第二章 第一の亡靈

目 次




第二章 第一の精靈

 スクルージが眼を覺ました時には、寝床から外を覗いて見ても、その室の不透明な壁と透明な

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窓との見分けが殆ど附かない位暗かつた。彼は鼬のやうにきよろきよろした眼で闇を貫いて見定めようと骨を折つてゐた。その時近所の教會の鐘が十五分鐘を四たび打つた。で、彼は時の鐘を聞かうと耳を澄ました。

 彼が非常に驚いたことには、重い鐘は六つから七つと續けて打つた、七つから八つと續けて打つた。そして、正確に十二まで續けて打つて、そこでぴたりと止んだ。十二時! 彼が床に就いた時には二時を過ぎてゐた。時計が狂つてゐるのだ。機械の中に氷柱が這入り込んだものに違ひない。十二時とは!

 彼はこの途轍もない時計を訂正しようと、自分の時打ち懷中時計の彈條ばねに手を觸れた。その急速な小さな鼓動は十二打つた。そして停まつた。

 「何だつて」と、スクルージは云つた、「まる一日寝通して、次の晩の夜更けまで眠つてゐたなんて、そんな事はある筈がない。だが、何か太陽に異變でも起つて、これがひるの十二時だと云ふ筈もあるまいて!」

 さうだとすれば大變なことなので、彼は寝床から這ひ出して、探り探り窓の所まで行つた。處が、何も見えないので、已むを得ず寝間着の袖で霜を拭い落した。で、ほん・・の少し許り見ることが出來た。彼がやつと見分けることの出來たのは、たゞまだ非常に霧が深く、耐らない程寒くて、大騒ぎをしながらあちらこちらと走り廻つてゐる人々の物音なぞは少しもなかつたと云ふことで

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あつた。若し夜が白晝を追い拂つて、この世界を占領したとすれば、さう云ふ物音は當然起つてゐた筈である。これは非常な安心であつた。何故なら、勘定すべき日といふものがなくなつたら、「この第一振出為替手形一覽後三日以内に、エベネザー・スクルージ若しくはその指定人に支拂うべし」云々は、單に合衆國の擔保に過ぎなくなつたらうと思はれるからである。

 スクルージは又寝床に這入つた。そして、それを考へた、考へた、繰り返し繰り返し考へたが、薩張り譯が分らなかつた。考へれば考へる程、愈々こんぐらかつてしまつた。考へまいとすればする程、u々考へざるを得なかつた。

 マアレイの幽靈は無性に彼を惱ました。彼はよくよく詮議した揚句、それは全然夢であつたと胸の中で定めるたんびに、心は、強い彈機ばねが放たれたやうに、再び元の位置に飛び返つて、「夢であつたか、それとも夢ではなかつたのか」と、始めから遣り直さるべきものとして同じ問題を持ち出した。

 鐘が更に十五分鐘を三たび鳴らすまで、スクルージはかうして横たはつてゐた。その時突然、鐘が一時を打つた時には、最初のお見舞ひを受けねばならぬことを幽靈の戒告して行つたことを想ひ出した。彼はその時間が過ぎてしまふまで、眼を覺ましたまゝ横になつてゐようと決心した。處で、彼がもはや眠られないことは天國に行かれないと同様であることを想へば、これは恐らく彼の力の及ぶ限りでは一番賢い決心であつたらう。

 

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 その十五分は非常に長くて、彼は一度ならず、我知らずうとうととして、時計の音を聞き漏らしたに違ひないと考へた位であつた。たうとうそれが彼の聞き耳を立てゐた耳へ不意に聞えて來た。

 「ヂン、ドン!」

 「十五分過ぎ!」とスクルージは數へながら云つた。

 「ヂン、ドン!」

 「三十分過ぎ!」

 「ヂン、ドン!」

 「もうあと十五分」と、スクルージは云つた。

 「ヂン、ドン!」

 「いよいよそれだ!」と、スクルージは占めたとばかりに云つた、「しかも何事もない!」

 彼は時の鐘が鳴らないうちにかく云つた。が、その鐘は今や深い、鈍い、空洞うつろな、陰鬱な一時を打つた。忽ち室中に光りが閃き渡つて、寝床の帷幄カーテンが引き捲くられた。

 彼の寝床の帷幄は、私は敢て斷言するが、一つの手でわきへ引き寄せられた。足下あしもとの帷幄でも、背後うしろの帷幄でもない、顔が向ひてゐた方の帷幄なのだ。彼の寝床の帷幄は側へ引き寄せられた。そして、スクルージは、飛び起きて半坐りになりながら、帷幄を引いたその人間ならぬ訪客と面と面を突き合せた。恰度私が今讀者諸君に接近してゐると同じやうに密接して。そして、私は精

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~的には諸君のつい・・手近に立つてゐるのである。

 それは不思議な物の姿であつた−−子供のやうな。しかも子供に似てゐると云ふよりは老人に似てゐると云つた方が可いかも知れない。(老人と云つてもたゞの老人ではない)、一種の超自然的な媒介物を通じて見られるので、だんだん眼界から遠退いて行つて、子供の躯幹にまで縮小された観を呈してゐると云つたやうな、さう云ふ老人に似てゐるのである。で、その幽靈の頸のまはりや背中を下に垂れ下がつてゐた髪の毛は、年齢とし所為せゐでもあるやうに白くなつてゐた。しかもその顔には一筋の皺もなく、皮膚は瑞々みづみづした盛りの色澤つやを持つてゐた。腕は非常に長くて筋肉が張り切つてゐた。手も同様で、竝々ならぬ把握力を持つてゐるやうに見えた。極めて繊細に造られたその脚も足も、上肢と同じく露出むきだしであつた。幽靈は純白の長衣を身に着けてゐた。そして、その腰の周りには光澤のある帶を締めてゐたが、その光澤は實に美しいものであつた。幽靈は手に生々いきいきした告Fの柊の一枝を持つてゐた。その冬らしい表徴とは妙に矛盾した、夏の花でその着物を飾つてゐた。が、その幽靈の身のまはりで一番不思議なものと云へば、その頭の頂邉てつぺんからして明煌々たる光りが噴出してゐることであつた。その光りのために前に擧げたやうなものが總て見えたのである。そして、その光りこそ疑ひもなくその幽靈が、もつと不愉快な時々には、今はその腋の下に挾んで持つてゐる大きな消燈器ひけしを帽子の代りに使用してゐる理由であつた。

 とは云へ、スクルージがだんだん落ち着いてその幽靈を見遣つた時には、これですらそれの有

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する最も不思議な性質とは云へなかつた。と云ふのは、その帶の今こゝがぴかりと光つたかと思ふと、次には他の所がぴかりと輝いたり、また今明るかつたと思ふ所が次の瞬間にはもう暗くなつたりするに伴れて、同じやうに幽靈の姿それ自體も、今一本腕の化物になつたかと思ふと、今度は一本脚になり、又二十本脚になり、又頭のない二本脚になり、又胴體のない頭だけになると云ふやうに、その瞭然はつきりした部分が始終搖れ動いてゐた。で、それ等の消えて行く部分は濃い暗闇の中に溶け込んでしまつて、その中に在つては輪廓一つ見えなかつたものだ。そして、それを不思議だと思つてゐるうちに、幽靈は再び元の姿になるのであつた、元のやうに瞭然はつきりとして鮮明な元の姿に。

 「貴方があのお出での前觸れのあつた精靈でいらつしやいますか」と、スクルージは訊ねた。

 「左様!」

 その聲は靜かで優しかつた。彼の側にこれ程近く寄つてゐるのではなく、ずつと觸れてでもゐるやうに、變梃に低かつた。

 「何誰どなたで、又どういふ方でいらつしやいますか」と、スクルージは問ひ詰めた。

 「私は過去の聖降誕祭の幽靈だよ。」

 「ずつと古い過去のですか」と、スクルージはその侏儒のやうな身丈せい恰好かつこうに眼を留めながら訊いた。

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「いや、お前さんの過去だよ。」

  たとい誰かが訊ねたとしても、恐らくスクルージはその理由を語ることが出來なかつたらう。が、彼はどう云ふものか、その精靈に帽子を被せて見たいものだと云ふ特別な望みを抱いた。で、それを被るやうに相手にョんだ。

 「何!」と幽靈は叫んだ、「お前さんはもう俗世界の手で、私の與える光明を消さうと思ふのか。俗衆の我慾がこの帽子を拵へて、長の年月の間にずつと私を強ひて無理に額眉深にそれを被らせて來たものだ。お前さんもその一人だが、それだけでもう澤山ぢやないかね。」

 スクルージは、決して腹を立てさせるつもりではなかつた、又自分の一生の中何時いつの時代にも故意に精靈を侮辱した覺えなぞはないと、恭々うやうやしげに辯解した。それから彼は思ひ切つて、何用あつて此處へはやつて來たのかと訊ねた。

 「お前さんの安寧のためにだよ」と、幽靈は云つた。

 スクルージはそれは大變に有難う御座いますと禮を述べた。併し一晩邪魔されずに休息した方が、それにはもつと利き目があつたらうと考へずにはゐられなかつた。精靈は彼がさう考へてゐるのを見て取つたに違ひない。と云ふのは、すぐにかう云つたからである。

 「ぢやお前さんの濟度のためだよ。さあいゝか!」

 こう云ひながら、幽靈はその頑丈な手を差し伸べて、彼の腕をそつと掴まへた。

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「さあ立て! 一緒に歩くんだよ。」

 天氣と時刻とが徒歩の目的に適してゐないと云つた處で、寝床が温かで、寒暖計はずつと氷點以下に降つてゐると抗辯した處で、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けてゐないのだと抗言あらがつて見た處で、又當時自分は風邪を引いてゐると爭つた處で、そんな事はスクルージに取つては何の役にも立たなかつたらう。婦人の手のやうに優しくはあつたが、その把握には抵抗すべからざるものがあつた。彼は立ち上がつた。が、精靈が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。

 「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てゐた、「ですから落ちてしまひますよ。」

 「そこへ一寸私の手を當てさせろ」と幽靈はスクルージの胸に手を載せながら云つた。「さうすれば、お前さんはこんな事位でない、もつと危險な場合にも支へて貰はれるんだよ。」

 かう云つてゐるうちに、彼等は壁を突き拔けて、左右に畠の廣々とした田舎道に立つた。倫敦の町はすつかり消えてなくなつた。その痕跡すら見られなかつた。暗闇も霧もそれと共に消えてしまつた。それは地上に雪の積つてゐる、晴れた、冷い、冬の日であつた。

 「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周圍を見廻して、兩手を固く握り合せながら云つた。「私は此處で生れたのだ。子供の時には此處で育つたのだ!」

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 精靈は穩かに彼を見詰めてゐた。精靈が優しく觸つたのは、輕くてほん・・の瞬間的のものではあつたが、この老人の觸覺には尚まざまざと殘つてゐるやうに思はれた。彼は空中に漂うてゐる様々な香氣に氣が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられてゐた、様々な考へや希望や、喜びや、心配と結び着いてゐた。

 「お前さんの脣は慄へてゐるね」と、幽靈は云つた。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」

 スクルージは平生に似合はず聲を吃らせながら、これは面瘡にきびだと呟いた。そして、何處へなりと連れて行つて下さいと幽靈にョんだ。

 「お前さん此の道を覺えてゐるかね?」と、精靈は訊ねた。

 「覺えてゐますとも!」と、スクルージは勢ひ込んで叫んだ、「目隱をしても歩けますよ。」

 「あんなに長い年月それを忘れてゐたと云ふのは、どうも不思議だね!」と、幽靈は云うた。「さあ行かうよ。」

 二人はその往還に沿うて歩いて行つた。スクルージには、目に當る程の門も、柱も、木も一々見覺えがあつた。かうして歩いて行くうちに、遙か彼方に橋だの、教會だの、曲りくねつた河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくぢやらの小馬が、その背に男の子達を乘せて、二人の方へ驅けて來るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車

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に乘つかつてゐる他の子供達に聲を掛けてゐた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきやつきやつと聲を立てゝ喚び合つた。で、仕舞にはC々すがすがしい冬の空氣までそれを聞いて笑ひ出した程、廣い田野が一面に嬉しげな音樂で滿たされた位であつた。

 「これはたゞ昔あつたものの影に過ぎないのだ」と、幽靈は云つた。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」

 陽氣な旅人どもは近づいて來た。で、彼等が近づいた時、スクルージは一々彼等を見覺えてゐて、その名前を擧げた。どうして彼は彼等に會つたのをあんなに法外にスんだのか。彼等が通り過ぎてしまつた時、何だつて彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上つたのか。各自の家路に向つて歸るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互ひに聖降誕祭お目出たうと言ひ交はすのを聞いた時、何だつて彼の胸に嬉しさが込み上げて來たか。一體スクルージに取つて聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出たうがちやんちやら可笑しいやい! 今迄聖降誕祭が何か役に立つたことがあるかい。

 「學校はまだすつかり退けてはゐないよ」と、幽靈は云つた。「友達に置いてけぼりにされた、獨りぼつちの子がまだ其處に殘つてゐるよ。」

 スクルージはその子を知つてゐると云つた。そして、彼は啜り泣きを始めた。

 彼等はよく覺えてゐる小路を取つて、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を

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頂いた小さな圓頂閣のある、そして、その圓頂閣に鐘の下がつてゐる、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行つた。それは大きな家であつたが、又零落した家でもあつた。廣々とした臺所も殆ど使はれないで、その塵は濕つて苔蒸してゐた、窓も毀れてゐた、門も立ち腐れになつてゐた。鷄はくつくつと鳴いて、厩舎の中を威張りくさつて歩いてゐた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面に蔓つてゐた。室内も同じやうに昔の堂々たる面影を留めてはゐなかつた。陰氣な見附けの廊下に這入つて、幾つも開け放しになつた室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切つて、洞然としてゐた。空氣は土臭ひ匂ひがして、場所は寒々として何もなかつた、それがあまりに朝夙く起きて見たが、喰ふ物も何もないのと、何處か似通う處があつた。

 彼等は、幽靈とスクルージとは、見附けの廊下を横切つて、その家の背後にある戸口の所まで行つた。その戸口は二人の押すがまゝに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰氣な室を展げて見せた。木地のまゝの樅板の腰掛と机とが幾筋にも竝んでゐるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しさうな少年が微温火とろびの前で本を讀んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れてゐたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。

 家の中に潜んでゐる反響も、天井裏の二十日鼠がちゆうちゆう鳴いて取組み合ひをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元氣のない白楊の葉の落ち盡した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたやうにばたばたするのも、いや、煖爐の中で火の

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撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるやうな影響を與へないものはなかつた、又彼の涙を一層惜し氣もなく流させないものはなかつた。

 精靈は彼の腕に手を掛けて、讀書に夢中になつてゐる若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外國の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚する程ありありと且はつきりとした一人の男が、帶に斧を挾んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立つた。

 「何だつて、アリ・ババぢやないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。さうだ、さうだ、私は知つてゐる! ある聖降誕祭の時節に、彼處にゐるあの獨りぼつちの子がたつた一人此處に置いてけぼりにされてゐた時、始めてあの老爺さんが恰度あゝ云ふ風をしてやつて來たのだ。可哀さうな子だな! それからあのヴアレンタインも」と、スクルージは云つた、「それからあの亂暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠つてゐるうちに股引を穿いたまゝ、ダマスカスの門前に捨てゝ置かれたのは、何とか云ふ名前の男だつたな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王サルタンの馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立つてゐる! 好い氣味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴が又何の權利があつて姫君の婿にならうなぞとしたのだ!」

 スクルージが笑ふやうな泣くやうな突拍子もない聲で、こんな事に自分の眞面目な所をすつかり曝け出してゐるのを聞いたり、彼の如何にも嬉しさうな興奮した顔を見たりしようものなら、

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本當に倫敦市の商賣仲間は吃驚したことであらう。

 「あすこに鸚鵡がゐる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の體躯に黄色い尻尾、頭の頂邉てつぺんから萵苣ちさのやうなものをやして。あすこに鸚鵡がゐるよ。可哀さうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして歸つて來た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀さうなロビン・クルーソー、何處へ行つて來たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見てゐたのだと思つたが、さうぢやなかつた。鸚鵡だつた、御存じの通りに。あすこに金曜日フライデーが行く。小さな入江を目がけて命からがら驅け出して行く、しつかり! おーい! しつかり!」

 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な氣の變りやうで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀さうな子だな!」と云つた。そして、再び泣いた。

 「あゝ、あゝして遣りたかつたな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四邉を見廻はしながら呟いた。「だが。もう間に合はないよ。」

 「一體どうしたと云ふんだね?」と、精靈は訊ねた

 「何でもないんです」と、スクルージは云つた。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌つてゐた子供がありましたがね。何か遣れば可かつたとこう思つたんですよ、それだけの事です。」

 幽靈は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もつと他の聖降誕祭を見ようぢやないか」と

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云ひながら、その手を振つた。

 かう云ふ言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずつと大きくなつた。そして、その部屋は幾分暗く、且一層汚くなつた。羽目板は縮み上つて、窓には龜裂が入つた。天井からは漆喰の破片かけらが落ちて來て、その代りに下地の木片が見えるやうになつた。併しどうしてかう云ふ事になつたかと云ふことは、讀者に分らないと同様に、スクルージにも分つてゐなかつた、たゞそれが眞個まつたくその通りであつたと云ふことは、何事も嘗てその通りに起つたのだと云ふことは、他の子供達が皆樂しい聖降誕祭の休日をするとて家へ歸つて行つたのに、此處でも又彼ひとり殘つてゐたと云ふことだけは、彼にも分つてゐた。

 彼は今や讀書してゐなかつた、落膽がつかりしたやうに往つたり來たりしてゐた。スクルージは幽靈の方を見遣つた。そして、悲しげに頭を振りながら、心配さうに戸口の方をぢろりと見遣つた。

 その戸が開いた。そして、その少年よりもずつと年下の小娘が箭を射るやうに飛び込んで來た。そして、彼の首のまわりに兩腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。

 「ねえ兄さん、私兄さんのお迎ひに來たのよ」と、その小つぽけな手を叩いたり、身體を二つに折つて笑つたりしながら、その子は云つた。「一緒に自宅うちへ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」

 「自宅へだつて? フアンよ」と、少年は問い返した。

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「さうよ!」と、その子ははしやぎ切つて云つた。「歸りつ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんも是迄よりはずつと善くして下さるので、本當にもう自宅は天國のやうよ! この間の晩寝ようと思つたら、それはそれは優しく物を言つて下すつたから、私も氣が強くなつて、もう一度兄さんが自宅へ歸つて來てもいゝかつて訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、あゝ、歸つて來るんだともだつて。そして、兄さんのお迎ひに來るやうに私を馬車へ乘せて下さつたのやうで、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云つた、「そして、もう二度とは此處へ歸つて來ないのやうでも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」

 「お前はもうすつかり大人だね、フアン!」と、少年は叫んだ。

 彼女は手を打つて笑つた。そして、彼の頭に觸らうとしたが、あまり小さかつたので、又笑つて爪先で立ち上りながら、やつと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引つ張つて行つた。で、彼は得たり賢しと彼女に隨つて出て行つた。

 誰かが玄關で「スクルージさんの鞄を下ろして來い、そら!」と怖しい聲で呶鳴つた。そして、その廣間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいやうな謙讓の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依つてすつかり彼を慄え上がらせてしまつた。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本當に嘗てこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と

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云つても可いやうな寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。其處には壁に地圖が掛けてあり、窓には天體儀と地球儀とが置いてあつたが、兩方とも寒さで臘のやうになつてゐた。此處で校長は變梃に輕い葡萄酒の容器と、變梃に重い菓子の一塊片ひとかけらとを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分づゝ分けて遣つた。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやつた。處が、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答へたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂邉に括り着けられてゐたので、子供達はたゞもう心からスんで校長に暇を告げた。そして、それに乘り込んで、菜園の中の曲路を笑ひさゞめきながら驅り去つた。廻轉の疾い車輪は、常磐木のKずんだ葉から水烟のやうに霜だの雪だのを蹴散らして行つた。

 「いつも脾弱ひよわな、一と吹きの風にも萎んでしまひさうな兒だつた」と、幽靈は云つた、「だが、心は大きな兒だよ!」

 「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しやる通りです。私はそれを否認しようとは思ひません、精靈どの。いやもう決して!」

 「彼女は一人前になつて死んだ」と、幽靈は云つた、「そして、子供達もあつたと思ふがね。」

 「一人です」と、スクルージは答へた。

 「いかにも、」と、幽靈は云つた。「お前さんの甥だ!」

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 スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡單に「さうです」と答へた。

 彼等はその瞬間學校を後にして出て來たばかりなのに、今はある都會の賑やかな大通りに立つてゐた。其處には影法師のやうな往來の人が頻りに往つたり來たりしてゐた。其處には又影法師のやうな荷車や馬車が道を爭つて、あらゆる實際の都市の喧騒と雜閙とがあつた。店の飾り附けで、此處も亦聖降誕祭の季節であることは、明白に分つてゐた。但し夕方であつて、街路には燈火が點いてゐた。

 幽靈は或商店の入口に立ち停まつた。そして、スクルージにそれを知つてゐるかと訊ねた。

 「知つてゐるかですつて!」と、スクルージは答へた。「私は此處で丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」

 彼等は中に這入つて行つた。ウエルス人の鬘(註、老人の被る毛絲で編んだ帽子のこと)を被つた老紳士が、今二吋も自分の身丈せいが高からうものなら、屹度天井に頭を打ち附けたらうと思はれるやうな、丈の高い書机の向うに腰かけてゐるのを一目見ると、スクルージは非常に興奮して叫んだ。

 「まあ、これは老フエツジウイッグぢやないか! あゝ! フエツジウイッグが又生き返つた!」

 老フエツジウイッグは鐵筆を下に置いて、時計を見上げた。その時計は七時を指してゐた。彼は兩手を擦つた。たぶたぶした胴服チヨツキをきちんと直した。靴の先から頭の頂邉まで、身體中搖振つ

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て笑つた。そして、氣持の好ささうな、滑らかな、巾のある、肥つた、愉快さうな聲で呼び立てゐた

 「おい、ほら! エベネザア! デイック!」

 今や立派な若者になつてゐたスクルージの前身は、仲間の丁稚と一緒に、てきぱきと這入つて來た。

 「デイック・ウイルキンスです、確に!」と、スクルージは幽靈に向つて云つた。「成る程さうだ。彼處に居るわい。彼奴は私に大層懷いてゐたつけ、可哀さうに! やれ、やれ!」

 「おい、子供達よ」と、フエツジウイッグは云つた。「今夜はもう仕事なぞしないのだ。聖降誕祭だやうでック! 聖降誕祭だよ、エベネザア! さあ雨戸を閉めてしまへ」と、老フエツジウイッグは兩手を一つぴしやりと鳴らしながら叫んだ、「とつとと仕舞ふんだぞ!」

 讀者はこれ等二人の若者がどんなにそれを遣つ附けたかを話しても信じないであらう。二人は戸板を持つて往來へ突進した−−一、二、三−−その戸板を嵌めべき所へ嵌めた−−四、五、六−−戸板を嵌めて目釘で留めた−−七、八、九−−そして、讀者が十二迄數へ切らないうちに、競馬の馬のやうに息を切らしながら、家の中へ戻つて來た。

 「さあ來た!」と、老フエツジウイッグは吃驚するほど輕快に高い書机から跳ね降りながら叫んだ。「片附けろよ、子供達、此處に澤山の空地を作るんだよ。さあ來た、デイック! 元氣

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を出せ、エベネザア!」

 片附けろだつて! 何しろ老フエツジウイッグが見張つてゐるんだから、彼等が片附けようとしないものもなければ、片附けようとして片附ける事の出來ないものもなかつた。一分間で出來てしまつた。動かすことの出來るものは、恰度永久に公的生活から解雇されたやうに、悉く包んで片附けられてしまつた。床は掃いて水を打たれた、洋燈は心を剪られた、薪は煖爐の上に積み上げられた。かうして問屋の店は、冬の夜に誰しもかくあれかしと望むやうな、小ぢんまりした、温い、乾いた明るい舞踏室と變つた。

 一人の提琴手が手に樂譜帳を持つて這入つて來た。そして、あの高い書机の所へ上つて、それを奏樂所にした。そして、胃病患者が五十人も集つたやうに、げえげえ云ふ音を立てゝ調子を合せた。フエツジウイッグ夫人即ちでぶでぶ肥つた愛嬌の好い女が這入つて來た。三人のにこにこした可愛らしいフエツジウイッグの娘が這入つて來た。その三人に心を惱まされてゐる六人の若者が續いて這入つて來た。この店に使はれてゐる若い男や女も悉く這入つて來た。女中はその從弟の麺麭燒きの職工と一緒に這入つて來た。料理番の女はその兄さんの特別の親友だと云ふ牛乳配達と一緒に這入つて來た。道の向う側から來たと云ふ、主人からろくすつぽ喰べさせて貰はないらしい小僧も、一軒置いて隣家の、これも女主人に耳を引つ張られたと云ふことが後で分かつた女中の背後に隱れるやうにしながら這入つて來た。一人又一人と、追ひ追ひに衆皆みんなが這入つて來

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た。中には極り惡さうに這入つて來る者もあれば、威張つて這入つて來る者もあつた。すんなりと這入つて來る者もあれば、不器用に這入つて來る者もあつた。押して這入つて來る者もあれば、引張つて這入つて來る者もあつた。兎に角どうなりかうなりして悉く皆這入つて來た。忽ち彼等は二十組に分れた。室を半分廻つて、又他の道を戻つて來る、室の眞中を降りて行くかと思へば又上つて來る、仲の好い組合せの幾段階を作つてぐるぐると廻つて行く。前の先頭の組はいつも間違つた所でぐるりと曲つて行く。新たな先頭の組もそこへ到着するや否や、再び横へ逸れて行く。終ひには先頭の組ばかりになつて、彼等を助ける筈の殿の組が一つも後に續かないと云ふ始末だ。こんな結果になつた時、老フエツジウイッグは舞踏を止めさせるやうに兩手を叩きながら、大きな聲で「上出來!」と叫んだ。すると、提琴手は、特にそのために用意された、K麥酒の大洋盃の中へ眞赧になつた顔を突込んだ。が、その盃から顔を出すと、休んでなぞ居られるものかと云はんばかりに、まだ踊子が一人も出てないのも構はず、直ぐさま又やり始めたものだ。恰度もう一人の提琴手が疲れ果てゝ戸板に載せて家へ連れ歸られたので、自分はその提琴手をすつかり負かしてしまふか、さもなければ自分が斃れるまでやり拔こうと決心した眞新しい人間でもあるやうに。

 その上にまだ舞踏があつた、又罰金遊びもあつた。そして、更に又舞踏があつた。それから菓子が出た、調合葡萄酒が出た、それから大きな一片の冷えた燒肉が出た、それから大きな一片の冷えた煮物が出た。それから肉饅頭が出た、又麥酒が澤山に出た。が、當夜第一の喚び物は燒肉

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や煮物の出た後で、提琴手が(巧者な奴ですよ、まあ聽いて下さい!−−讀者や私なぞがかうしろあゝしろと命ずる迄もなく、ちやんと自分のやるべきことを心得てゐると云ふ手合ですよ!)「サー・ロージヤー・ド・カヴアリー」(註、古風な田舎踊の名、當時非常に流行したものらしく、メレデイスの「エゴイスト」の中にも出て來る)を彈き始めた時に出たのであつた。その時老フエツジウイッグはフエツジウイッグ夫人と手を携へて踊りに立ち出でた。しかも、二人に取つては誂え向きの隨分骨の折れる難曲に對して、先頭の組を勤めようと云ふのだ。二十三四組の踊手が後に續いた。いづれも隅には置けない手合ばかりだ。踊らうとばかりしてゐて、歩くなぞと云ふことは夢にも考へてゐない人達なのだ。

 が、彼等の人數が二倍あつても−−おゝ、四倍あつても−−老フエツジウイッグは立派に彼等の對手になれたらう、フエツジウイッグ夫人にしてもその通りだ。彼女はと云へば、相手といふ言葉のどういふ意味から云つても、彼の相手たるに應はしかつた。これでもまだ讚め足りないなら、もつと好い言葉を教へて貰ひたい、私はそれを使つて見せよう。フエツジウイッグのふくらはぎからは本當に火花が出るやうに思はれた。そのふくらはぎは踊のあらゆる部分に於て月のやうに光つてゐた。或一定の時に於て、次の瞬間にそのふくらはぎがどうなるか豫言せよと云はれても、何人にも出來なかつたに相違ない。老フエツジウイッグ夫婦が踊の全部をやり通した時−−進んだり退いたり、兩方の手を相手に懸けたまゝ、お叩頭をしたり、會釋をしたり、手を取り合つてその下をくゞつたり、男の腕の下を女がくゞつたり、そして、再びその位置に返つたりして、踊の全部をやり通

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した時、フエツジウイッグは「飛び上つた」、−−彼は足で瞬きをしたかと思はれた程巧者に飛び上つた。そして、蹌踉よろめきもせずに再び足で立つた。

 時計が十一時を打つた時、この内輪の舞踏會は解散した。フエツジウイッグ夫妻は入口の兩側に一人づゝ陣取つて、誰彼の差別なく男が出て行けば男、女が出て行けば女と云ふやうに、一人々々握手を交して、聖降誕祭の祝儀を述べた。二人の丁稚を除いて、總ての人が退散してしまつた時、彼等はその二人にも同じ様に挨拶した。で、かうして歡聲が消え去つてしまつた。そして、二人の少年は自分達の寝床に殘された。寝床は店の奥の帳場の下にあつた。

 この間中ずつと、スクルージは本性を失つた人のやうに振舞つてゐた。彼の心と魂とはその光景の中に入り込んで、自分の前身と一緒になつてゐた。彼は何も彼もその通りだと確信した、何も彼も想ひ出した、何も彼も享樂した。そして、何とも云はれない不思議な心の動亂を經驗した。彼の前身とデイックとの嬉しさうな顔が見えなくなつた時、始めて彼は幽靈のことを想ひ出した、幽靈が、その間ずつと頭上の光を非常にあかあかと燃え立たせながら、ぢつと自分を見詰めてゐるのに氣が附いた。

 「些細な事だね」と、幽靈は云つた、「あんな馬鹿な奴どもをあんなに有難がらせるのは。」

 「些細ですつて!」とスクルージは問ひ返した。

 精靈は二人の丁稚の云つてゐることに耳を傾けろと手眞似で合圖をした、二人は心底を吐露して

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フエツジウイッグを褒め立てゝゐるのであつた。で、彼がさうした時、幽靈は云つた。

 「だつてなあ! さうぢやないか。あの男はお前達人間の金子をほん・・の數磅費やしたばかりだ、高々三磅か四磅だらうね。それが、これ程讚められるだけの金額かね。」

 「そんな事ぢやありませんよ」と、スクルージは、相手の言葉に激せられて、彼の後身ではない、前身が饒舌しやべつてでもゐるやうに、我を忘れて饒舌つた。「精靈どの、そんな事を云つてゐるんぢやありませんよ。あの人は私どもを幸bノも又不幸にもする力を持つてゐます。私どもの務めを輕くも、又重荷にもする、樂しみにも、又苦しい勞役にもする力を持つてゐます。まああの人の力が言葉とか顔附きとかいふものに存してゐるにもせやうです、即ち〆めることも勘定することも出來ないやうな、極く些細な詰まらないものの中に存してゐるにもせやうです、それがどうしたと云ふのです? あの人の與える幸bヘ、それがために一身代を費やした程大したものなのですよ。」

 彼は精靈がちらと此方こちらを見たやうな氣がして、口を噤んだ。

 「どうしたのだ?」と、幽靈は訊ねた。

 「なに、別段何でもありませんよ」と、スクルージは云つた。

 「でも、何かあつたやうに思ふがね」と、幽靈は押して云つた。

 「いえ」と、スクルージは云つた。「いえ、私の番頭に今一寸一語ひとこと二語ふたこと云つてやることが出來たらとさう思つたので、それだけですよ。」

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 彼がこの希望を口に出した時に、彼の前身は洋燈の心を引つ込ませた。そして、スクルージと幽靈とは再び竝んで戸外に立つてゐた。

 「私の時間はだんだん短くなる」と、精靈は云つた。「さあ急いだ!」

 この言葉はスクルージに話し掛けられたのでもなければ、又彼の眼に見える誰に云はれたのでもなかつた。が、忽ちその效果を生じた。と云ふのは、スクルージは再び彼自身を見たのである。彼は今度は前よりも年を取つてゐた。壯年の盛りの男であつた。彼の顔には、まだ近年のやうな、嚴い硬ばつた人相は見えなかつたが、浮世の氣苦勞と貪慾の徴候は既にもう現はれ掛けてゐた。その眼には、一生懸命な、貪慾な、落ち着きのない動きがあつた。そして、それは彼の心に根を張つた慾情に就て語ると共に、だんだん成長するその木(慾情の木)の影がやがて落ちさうな場所を示してゐた。

 彼は獨りではなくて、喪服を着けた美しい娘の側に腰を掛けてゐた。その娘の眼には涙が宿つて、過去の聖降誕祭の幽靈から發する光の中にきらついてゐた。

 「それは何でもないことですわ」と、彼女は靜かに云つた。「貴方に取つちや本當に何でもないことですわ。他の可愛いものが私に取つて代つたのですもの。これから先それが、若し私が傍に居たらして上げようとしてゐた通りに、貴方を勵ましたり慰めたりしてくれることが出來れば、私がどうのかうのと云つて嘆く理由はありませんわね。」

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「どんな可愛いものがお前に取つて代つたのかね」と、彼はそれに答へて訊いた。

 「金色のもの。」

 「これが世間の公平な取扱ひだよ」と、彼は云つた。「貧乏ほど世間が辛く當たるものは他にない。それでゐて金子を作らうとする者ほど世間から手嚴しくやつ附けられるものも他にないよ。」

 「貴方はあまり世間と云ふものを怖がり過ぎますよ」と、彼女は優しく答へた。「貴方の他の希望は、さう云ふ世間のさもしい非難を受ける恐れのない身にならうと云ふ希望の中に、悉く皆呑み込まれてしまつたんですね。私は貴方のもつと高尚な向上心が一つづゝ凋落して行つて、到頭終ひに利得と云ふ一番主要な情熱が貴方の心を占領してしまふのを見て來ましたよ。さうぢやありませんか。」

 「それがどうしたと云ふのだ?」と、彼は云ひ返した。「假に私がそれだけ悧巧になつたとして、それがどうだと云ふのだ! お前に對しては變つてゐないのだよ。」

 彼女は頭を振つた。

 「變つてゐるとでも云ふのかね。」

 「私達二人の約束はもう古いものです。二人とも貧乏で、しかも二人が辛抱して稼いで、何日か二人の世間的運命を開拓する日の來る迄は、それに滿足してゐた時分に、その約束は出來たも

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のですよ。貴方は變りました。その約束をした時分は、貴方は全然別の人でしたよ。」

 「私は子供だつたのだ」と、彼はじれつたさうに云つた。

 「貴方自身のお心持に聞いて御覽になつても、以前の貴方が今の貴方でないことはお分りになりますわ」と、彼女はそれに應えて云つた。「私は元の儘です。二人の心が一つであつた時に前途の幸b約束してくれたものも、心が離れ離れになつた今では、不幸を一杯に背負はされてゐます。私はこれ迄幾度又どんなに膽に徹へる程この事を考へて來たか、それはもう云ひますまい。私もこの事に就ては考へに考へて來ました。そして、その結果貴方との縁を切つて上げることが出來ると云ふだけで、もう十分で御座います。」

 「私がこれ迄一度でも破約を求めたことでもあるのか。」

 「口ではね。いゝえ、そりやありませんわ。」

 「ぢや、何で求めたのだ?」

 「變つた性質で、變つた心持で、全然違つた生活の雰圍氣で、その大きな目的として全然違つた希望でです。貴方の眼から見て私の愛情をいくらかでも價値あるもの、値打ちのあるものにしてゐた一切のものでです。この約束が二人の間に嘗てなかつたとしたら」と、少女は穩やかに、併しじつくりと相手を見遣りながら云つた、「貴方は今私を探し出して、私の手を求めようとなさいますか。あゝ、そんな事は迚もない!」

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 彼はこの推測の至當なのに、我にもあらず、屈服するやうに見えた。が、強いてその感情を抑へながら云つた。「お前はそんな風に思つては居ないのだよ。」

 「私も出來ることなら、そんな風に考へたくはないんですわ」と、彼女は答へた。「それはもう~様が御存じです! 私がかう云つたやうな眞相を知つた時には、(同時に)それがどんなに強く、且抵抗すべからざるものであるか、あるに違ひないかと云ふことを知つてゐるんですよ。まあ今日にしろ、明日にしろ、又昨日にしても、貴方が假りに自由の身におなんなすつたとして、持參金のない娘を貴方がお選びになるなぞと云ふことが、私に信じられませうか−−その女と差向ひで話しをなさる時ですら、何も彼も慾得づくで測つて見ようと云ふ貴方がさ。それとも、一時の氣紛れから貴方がその唯一の嚮導の主義に背いてその女をお選びになつたとした處で、後では屹度後悔したり悔んだりなさるに違ひないのを、私が知らないでせうか。私はちやんと知つてゐます。そして、貴方との縁を切つて上げます−−それはもう心から喜んで、昔の貴方に對する愛のためにね。」

 彼は何か云はうとした。が、彼女は相手に顔をそむけたまゝ再び言葉を續けた。

 「貴方にもこれは多少の苦痛かも知れない−−これ迄の事を思ふと、何だか本當にさうあつて欲しいやうな氣もしますがね。併しそれもほん・・の僅かの間ですよ。僅かの間經てば、貴方はぢきにそんな想ひ出は、一文にもならない夢として、喜んで抛棄しておしまひになるでせうよ。まあ

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あんな夢から覺めて好かつたと云ふやうに思つてね。どうかまあ貴方のお選びになつた生活で幸bノ暮して下さいませ!」

 彼女は男の前を去つた。かうして、二人は別れてしまつた。

 「精靈どの!」とスクルージは云つた、「もう見せて下さいますな! 自宅うちへ連れて行つて下さいませ。どうして貴方は私を苦しめるのが面白いのですか。」

 「もう一つ幻影まぼろしを見せて上げるのだ!」と、幽靈は叫んだ。

 「もう澤山です!」と、スクルージは叫んだ。「もう澤山です。もう見たくありません。もう見せないで下さい!」

 が、毫も容赦のない幽靈は兩腕の中に彼を羽翼締はがひじめにして、無理矢理に次に起つたことを観察させた。

 それは別の光景でもあれば別の場所でもあつた。大層廣くもなく、綺麗でもないが、住心地よく出來た部屋であつた。冬の煖爐の傍に一人の美しい若い娘が腰掛けてゐた。その娘は、自分の娘の向ひ側に、今では身綺麗な内儀になつて腰掛けてゐる彼女を見る迄は、スクルージも同一人だと信じ切つてゐた位に、前の場面に出て來たあの少女とよく似てゐた。部屋の中の物音は申分のない騒々しさであつた。と云ふのは、心に落着きのないスクルージには數え切れない程大勢の子供がゐたからであつた。あの有名な詩中(註、ウォーヅウォースの「彌生に書かれたる」と題する短詩)の羊の群とは違つて、四十人

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の子供が一人のやうに振舞ふのではなく、各一人の子供が四十人のやうに活動するのだから溜まらない。從つてその結果は信じられない程の賑やかさであつた。が、誰もそれを氣にするやうには見えない。それ處か、母親と娘とはきやつきやつと笑ひながら、それを見て非常に喜んでゐた。そして、娘の方は間もなくその遊戯に加はつたが、忽ち若い山賊どもに、それはそれは殘酷に剥ぎ取られてしまつた。私もあの山賊の一人になることが出來たら、どんな物でも呉れてやるね、屹度呉れてやるよ。とは云へ、私なら決してあんな亂暴はしないね、斷じて斷じて。世界中の富を呉れると云つても、あの綺麗に編んだ毛をむしやくしやにしたり、ぐんぐん引き解いたりはしない積りだね。それからあの貴重な小さい靴だが、~も照覽あれ! たとひ自分の生命を救ふためだと云つても、私はそれを無理に引つくるやうなことはしないね。冗談にも彼等、大膽な若い雛つ子連がやつたやうに彼女の腰に抱き着くなんてことは、私には到底出來ないことだ。そんな事をすれば、私はその罰として腰の周りに私の腕が根を生やしてしまつて、もう再び眞直に延びないものと豫期しなければならない。然も、實際を白状すると、私は堪らなく彼女の脣に觸れたかつたのだ。その脣を開かせるために、彼女に言葉を懸けて見たかつたのだ。その伏眼がちの眼と睫毛を見詰めながら、しかも顔を赧らめさせずに置きたかつたのだ。髪の毛を解いて寛く波打たせて見たかつたのだ。その一吋でも價に積もれない程貴重な記念品になるその髪の毛を。一口に云へば、私は、まあ白状するがね、このもつとも重大な子供の特權を有しながら、しかもその

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特權の價値を知つてゐる程の大人でありたかつたのだ。

 處が、今や入口の扉を叩く音が聞えた。すると、忽ち突貫がそれに續いて起つて、彼女はにこにこ笑ひながら、滅茶々々に着物を引き剥がれたまゝ、顔を火照らした騒々しい群れの眞中に挾まれて、やつと父親の出迎ひに間に合ふやうに、入口の方へ引き摺られて行つた。父親は、聖降誕祭の玩具や贈物を背負つた男を伴れて戻つて來たのである。次には叫喚と殺到、そして、何の防禦用意もない擔夫に向つて一齊に突撃が試みられた! それから椅子を梯子にして、その男の體躯に這い上りながら、衣嚢かくしに手を突き込んだり、茶色の紙包みを引奪ひつたくつたり、襟飾りに獅噛み着いたり、頸の周りに抱き着いたり、背中をぽんぽん叩いたり、抑へ切れぬ愛情で足を蹴つたりが續く! 包みが擴げられる度に、驚嘆と喜スの叫聲でそれが迎へられた。赤ん坊が人形のフライ鍋を口に入れようとしてゐる處を捕へただの、木皿に糊づけになつてゐた玩具の七面鳥を呑み込んぢやつたらしい、どうもそれに違ひないのだと云ふやうな、怖ろしい披露! 處が、これは空騒ぎに過ぎなかつたと分つて、やれやれと云ふ大安心! 喜スと感謝と有頂天! それがどれもこれも皆等しく筆紙に盡くし難い。で、その内にはだんだん子供達とその感動とが客間を出て、長い間かゝつて一段づゝ、階子段をやつと家の最上階まで上つて行つて、そこで寝床に這入ると、その儘鎭まつたとさへ云へば、澤山である。

 そして、今やこの家の主人公が、さも甘つたれるやうに娘を自分の方へ凭れ掛けさせながら、

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その娘やその母親と一緒に自分の爐邉に腰を卸した時、スクルージは前よりも一層注意して見守つてゐた。そして、恰度この娘と同じやうに優雅で行末の望みも多い娘が、自分を父と呼んで、己れの一生の窶れ果てゐた冬の時代に春の時候を齎してくれたかも知れないと想ひ遣つた時、彼の視覺は本當にぼんやりとうるんで來た。

 「ベルや」と、良人は微笑して妻の方へ振り向きながら云つた。「今日の午後、お前の昔馴染に出會つたよ。」

 「誰ですか。」

 「てて御覽。」

 「そんな事中てゐられるものですか。いえなに、もう分りましたよ」と、良人が笑つた時に自分も一緒になつて笑ひながら、彼女は一息に附け加えた。「スクルージさんでせう。」

 「そのスクルージさんだよ。私はあの人の事務所の窓の前を通つたのだ。處で、その窓が閉め切つてなくつて、室の中に臘燭が點火してあつたものだから、どうもあの人を見ない譯に行かなかつたのさ。あの人の組合員は病氣で死にさうだと云ふ話を聞いたがね。その室にあの人は一人で腰掛けてゐたよ−−世界中に全くの一人ぼつちで、私は屹度さうだと思ふね。」

 「精靈どの!」と、スクルージは途切れ途切れの聲で云つた。「どうか他の所へ連れて行つて下さい。」

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「これ等のものがこれ迄あつた事柄の影法師だとは、私からお前さんに云つて置いたぢやないか」と、幽靈は云つた。「あれがあの通りだからと云つて、私を咎めては不可ないよ。」

 「何處かへ連れて行つて下さい!」と、スクルージは叫んだ。「私にはもう見て居られません!」

 彼は幽靈の方へ振り向ひた。そして、幽靈が、それ迄彼に見せたいろんな人の顔が妙な工合にちらちらとそこに現はれてゐるやうな顔をして、ぢつと自分を見詰めてゐるのを見て、何處までも幽靈と揉み合つた。

 「貴方も何處かへ行つて下さい! 私を連れ歸つて下さい。もう二度と私の所へ出て下さるな!」

 この爭闘の間に−−幽靈の方では少しも目に見えるやうな抵抗はしないのに、敵手がいくら努力してもびくとも動じないと云ふやうな、これが爭闘と稱ばれ得るものなれば−−スクルージは幽靈の頭の光が高く煌々と燃え立つてゐるのを見た。そして、幽靈の自分の上に及ぼす勢力とその光とを朧げながら結び着けて、その消化器の帽を引つ奪つて、いきなり飛びかゝつてそれを幽靈の頭の上に壓し附けた。

 精靈はその下にへちやへちやと倒れた。その結果、精靈はその全身を消化器の中に包まれてしまつた。が、スクルージは全身の力を籠めてそれを抑え附けてゐたけれども、なほその下から地面

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の上に一面の洪水となつて流れ出すその光を隱すことが出來なかつた。

 彼は自分の身が疲れ果てゝ、迚も我慢し切れない睡魔に壓倒されてゐるのを意識してゐた。それだけなら可いが、なほその上に自分の寝室の中に寝てゐることも意識してゐた。彼はその帽子に最後の一とひねりを呉れた。それと同時に彼の手が緩んだ。そして、やうやう寝床の中へ蹌け込むか込まないうちに、ぐつすり寝込んでしまつた。



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