ディツケンス作『クリスマス・カロル』舊字舊假名版

森田草平譯(岩波文庫 496、岩波書店、昭和四年四月二十日發行)


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は し が き

 ディキンズが最もイギリス的な作家としてイギリス人に愛されてゐた(ゐると云つてもよいだらう)のは、主として滑稽作家ヒユウモリストとしてであつた。彼は前時代の先輩の中でも殊にゴウルドスミスとスタアンに私淑してゐた、それだけ前者の甘美な家庭趣球、また後者の多感な人道主義は、彼の作品の本質的要素を成してゐるのであるが、更に兩者の中に溢れてゐた滑稽味ヒユウマは、彼に於はは一層勢よき漲りをなしてその作品のすべてに湛へてゐる。これが何より彼の天才の特色であつて、夙に「ピクウィク」に依つて名を成したのも、長くヴィクトリア朝第一の人氣者として聲價を保つたのも皆その滑稽味ヒユウマの爲である。滑稽味ヒユウマがディキンズの作晶の精神だとギッシングは云つた。ディキンズは非常にまじめな人道主義者であつたから、若しその滑稽味ヒユウマを缺いたとしたら、社會改善者としては相當に仕事をしたであらうが、小讀家としては失敗に終つただらうと云つたギッシングの説は當つてゐると思ふ。彼の描いた多くの性格の中で、眞實でないとか、またその他の意味で、十分でない者はあるとしても、滑稽的ヒユウモラスな性格で成功してない者は一つもない。「クリスマス・カロル」のスクルウジがその一例である。ディキンズの滑稽味ヒユウマにはきまつて感傷ペイソスが加味されるのが、またその特長である。彼の感傷ペイソスは「カロル」に依つて始眞個リスマス物(一八四三年-四六年)に於は最上に達して居るが、之は感傷ペイソスの側から云ふと、ややもすれば生生なまなましい

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實感に依つて打ち勝たれがちな危險を滑稽味ヒユウマのために調節されて居るわけであり、また滑稽味ヒユウマの方から云ふと、その誇張によつてとかく現實から離れようとする足場を感傷ペイソスで結び付けられてゐるとも見られ、互ひに持ち合つて效果を大きくする利益がある。此の感傷ペイソス滑稽味ヒユウマの調理の巧みさが殊にディキンズの同時代人を喜ばしたことに就ては、時代の風潮といふものも少からず助けたことを見遁してはならぬ。彼の書き出した三十年代は、その前に十九世紀初葉の刻薄冷淡とも形容すべき非人情的時代思潮の反動として、極端に同情的な人道主義的傾向の勃發した時代であつた。ディキンズはその潮流に乘つて忽ちイギリス文人の選手となつたのである。彼は貧しき者、弱き者の生活の中に入り込んで「下級の桂冠詩人」と謳はれた。それは貴族の社曾が實力を失ひ、富者の社曾が現はれようとする時であつた。さうして、働く下級者が擡頭しつつある時であつた。ディキンズは同時代の一人なる批評家ウォルタ・バジョトは、一八二五年から四五年へかけてのイギリスの新進階級を指導した此のラディカリズムの思想の中でも、特にディキンズのほセンティメンタル・ラディカリズムとでも云ふべき性質のものであつたと云つて居る。「カロル」ほ實にその傾向の間に於は書かれたものであつた。

 昭和四年二月、譯者森田草平君が順天堂病院で腹部を切開して筆を執られぬから、代りに此のはしがきを書く。英學者であり小説家である草平君が「カロル」の譯者として如何に適當であるかに就ては今更吹喋するに及ぶまい。

法政大學にて、野上豐一郎

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目 次


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第一章 マアレイの亡靈

 先づ第一に、マアレイは死んだ。それに就ては少しも疑ひがない。彼の埋葬の登録簿には、僧侶も、書記も、葬儀屋も、又喪主も署名した。スクルージがそれに署名した。そして、スクルージの名は、取引所に於ては、彼の署名しようとする如何なる物に對しても十分有效であつた。

 老マアレイは戸の鋲のやうに死に果てゝゐた。

 注意せよ。私は、私自身の知識からして、戸の鋲に關して特に死に果てたやうな要索を知つてゐると云ふつもりではない。私一個としては、寧ろ棺の鋲を取引に於ける最も死に果てた鐵物かなものと見做したいのであつた。けれども、我々の祖先の智慧は直喩にある。そして、私のやうな汚れた手でそれを掻き紊すべきではない。そんなことをしたら、此の國は滅びて仕舞ふ。だから諸君も、私が語氣を強めて、マアレイは戸の鋲の様に死に果てゝゐたと繰り返すのを許して下さいませう。

 スクルージは彼が死んだことを知つてゐたか。勿論知つてゐた。どうしてそれを知らずにゐることが出來よう。スクルージと彼とは何年とも分らない長い歳月の間組合人であつた。スクルー

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ジは彼が唯一の遺言執行人で、唯一の財産管理人で、唯一の財産讓受人で、唯一の殘餘受遺者で、唯一の友達で、又唯一の會葬者であつた。そして、そのスクルージですら、葬儀の當日卓越した商賣人であることを失ふほど、それ程この悲しい事件に際して氣落ちしてはゐなかつた。そして、萬に一つの間違ひもない取引でその日を荘嚴にした。

 マアレイの葬儀のことを云つたので、私は出發點に立ち戻る氣になつた。マアレイが死んでゐたことには、毛頭疑ひがない。此の事は明瞭に了解して置いて貰はなければならない。さろでないと、これから述べようとしてゐる物語から何の不思議なことも出て來る譯に行かない。あの芝居の始まる前に、ハムレツトの阿父さんは死んだのだといふことを充分に呑み込んでゐなければ、阿父さんが夜毎に、東風に乘じて、自分の城壁の上をふらふら逍遙ひ歩いたのは、誰か他の中年の紳士が文字通りにその弱い子息の心を脅かしてやるために、日が暮れてから微風の吹く所まあ--例へばセント・パウル寺院の墓場へでも--やみくもに出掛けるよりも、別段變つたことは一つもない。

 スクルージは老マアレイの名前を決して塗り消さなかつた。その後幾年もその倉庫の戸の上にそのまゝになつてゐた。即ちスクルージ・エンド・マアレイと云ふやうに。此の商會はスクルージ・エンド・マアレイで知られて居た。新たにこの商賣へ這入つて來た人はスクルージのことをスクルージと呼んだり、時にはマアレイと呼んだりした。が、彼は兩方の名に返事をした。彼に  

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はどちらでも同じ事であつたのだ。

 ああ、併し彼は強慾非道の男であつた。このスクルージは! 絞り取る、捻ぢ取る、掴む、引つ掻く、かじりつく、貪慾な我利々々爺であつた! どんな鋼でもそれからしてとんと豐富な火を打ち出したことのない火燧石のやうに硬く、鋭くて、祕密を好む、人づき合ひの嫌ひな、牡蠣のやうな孤獨の男であつた。彼の心の中の冷氣は彼の老いたる顔つきを凍らせ、その尖つた鼻を痺れさせ、その頬を皺くちやにして、歩きつきをぎこちなくした。又眼を血走らせ、薄い脣をどす蒼くした。その上彼の耳觸りの惡いしはがれ聲にも冷酷にあらはれてゐた。凍つた白霜は頭の上にも、眉毛にも、又針金のやうな顎にも降りつもつてゐた。彼は始終自分の低い温度を身に附けて持ち廻つてゐた。土用中にも彼の事務所を冷くした、聖降誕祭にも一度と雖もそれを打ち解けさせなかつた。

 外部の暑さも寒さもスクルージには殆ど何の影響も與へなかつた。いかな暖氣も彼をあたゝめることは出來ず、いかな寒空も彼を冷えさせることは出來なかつた。どんなに吹く風も彼よりは嚴しいものはなく、降る雪も彼程その目的に對して一心不亂なものはなく、どんなに土砂降りの雨も彼程懇願を受け容れないものはなかつた。險惡な天候もどの點で彼を凌駕すべきかを知らなかつた。最も強い雨や、雪や、霰や、霙でも、たゞ一つの點で彼に立ち優つてゐることを誇ることが出來るばかりであつた。それはこれ等のものは時々どんどんと降つて來た、然るにスクルー

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ジには綺麗に金子を拂ふと云ふことは金輪際なかつた。

 何人も嘗て往來で彼を呼び留めて、嬉しさうな顔つきをして、「スクルージさん、御機嫌は如何ですか。何日私の許へ會ひに來て下ざいます?」なぞと訊く者ばなかつた。乞食も彼に一文遣つて下さいと縋つたことがなく、子供達も今何時です? と彼に訊いたことがなかつた。男でも女でも、彼の生れてから未だ一度も、かうかういふ處へはどう行きますかと、スクルージに道筋を訊ねた者はなかつた。盲人の畜犬ですら、彼を知つてゐるらしく、彼がやつて來るのを見ると、その飼主を戸口の中や路地の奥へ引つ張り込んだものだ。そして、それから「丸つ切り眼のないものほまだしも惡の眼を持つてゐるよりもしですよ、盲人の旦那」とでも云ふやうに、その尾を振つたものだ。

 だが、何をそんな事スクルージが氣に懸けようぞ? それこそ彼の望む處であつた。人情なぞは皆遠くに退いてをれと警告しながら、人生の人ごみの道筋を押し分けて進んで行くことが、スクルージに取つては通人の所謂『大好物』であつた。

 或時--日もあらうに、聖降誕祭の前夜に--老スクルージは事務所に坐つていそがしさうにしてゐた。寒い、霜枯れた、噛むみつくやうな日であつた。おまけに霧も多かつた。彼ほ戸外の路地で人々がふうふう息を吐いたり、胸に手を叩きつけたり、煖くなるやうにと思つて敷石に足をぼたばた踏みつけたりしながら、あちらこちらと往來してゐるのを耳にした。町の時計ほ方々で

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今し方三時を打つたばかりだのに、もうすつかり暗くなつてゐた。--尤も終日明るくはなかつたのだ。--隣り近所の事務所の窓の中では、手にも觸れられさうな鳶色をした空氣の中に、赤い汚點の様に、臘燭がはたはたと搖れながら燃えてゐた。霧はどんな隙問からも、鍵穴からも流れ込んで來た。そして、この路地はごくごつ狹い方だのに、向う側の家竝はたゞぼんやり幻影の様に見えた程、戸外ほ霧が濃密であつた。どんよりした雲が垂れ下がつて來て、何から何まで蔽ひ隱して行くのを見ると、自然がつい近所に住んでゐて、素敵もない大きな烟の雲を吐き出してゐるんだと考へる人があるかも知れない。

 スクルージの事務所の戸は、大桶のやうな、向うの陰氣な小部屋で、澤山の手紙を寫してゐる書記を見張るために開け放しになつてゐた。スクルージはほんのちつとばかりの火を持つてゐた。が書記の火はもつともつとちょつぽりで、一片の石炭かと見える位であつた。でも、彼は、スクルージが石炭箱を始終自分の部屋に藏つて置いたので、それを繼ぎ足す譯に行かなかつた。書記が十能をもつて這入つて行くたんびに、屹度御主人様は、どうしても君と僕とは別れなくちやなるまいねと豫言したものだ。それが為に、書記は首に肖い襟卷を卷きつけて、臘燭で煖まらうとして見た。が、元々想像力の強い人間ではなかつたので、こんな骨折りをして見ても甲斐ほなかつた。

 「聖降誕祭でお目出たう、伯父さん!」と、一つの快活な聲が叫んだ。これはスクルージの甥

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の聲であつた。彼は大急ぎにスクルージの許へやつて來たので、スクルージはこの聲で始めて彼が來たことに氣が附いた位であつた。

 「何を、馬鹿々々しい!」とスクルージは言つた。

 彼は霧と霜の中を驅け出して來たので、身體が煖まつて、どつからどこまで眞赤になつてゐた。スクルージのこの甥がですよ。顔は赤く美しく、眼は輝いて、ほうほうと白い息を吐いてゐた。

 「聖降誕祭が馬鹿々々しいんですつて、伯父さん!」と、スクルージの甥は云つた。「眞逆さう云ふ積りぢやないでせうねえ?」

 「さういふ積りだよ」と、スクルージは云つた。「聖降誕祭お目出たうだつて! お前が目出たがる權利が何處にある? 目出たがる理由が何處にあるんだよ? 貧乏しきつてゐる癖に」。

 「さあ、それぢや」と甥は快活に言葉を返した。「貴方が陰氣臭くしていらつしやる權利がどこにあるんです? 機嫌を惡くしていらつしやる理由が何處にあるのですよ? 立派な金持の癖に」。

 スクルージは早速に巧い返事も出來かねたから、叉「何を!」と云つた。そして、その後から「馬鹿々々しい」と附け足した。

 「伯父さん、さうぷりぷりしなさんな」と、甥は云つた。

 「ぷりぷりせずにゐられるかい」と、伯父は云ひ返した、「こんな馬鹿考どもの世の中にゐては。  

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聖降誕祭お目出たうだつて! 聖降誕祭お目出たうがちやんちやら可笑しいわい! お前にとつちや聖降誕祭の時は一體何だ? 金子もないのに勘定書を拂ふ時ぢやないか。一つ餘計に年を取りながら、一つだつて餘計に金持にはなれない時ぢやないか。お前の帳面の決算をして、その中のどの口座を見ても丸一年の聞ずつと損にばかりなつてゐることを知る時ぢやないか。俺の思ふ通りにすることが出來れば」と、スクルージは憤然として云つた、「聖降誕祭お目出たうなどと云つて廻つてゐる鈍兒どぢどもは何奴も此奴も其奴のプデイングの中へ一緒に煮込んで、心臓にひひらぎの棒を突き通して、地面に埋めてやるんだよ。是非さうしてやるとも!」

 「伯父さん!」と甥は抗辯した。

 「甥よ!」と、伯父は嚴格に言葉を返した。「お前はお前の流儀で聖降誕祭を祝へ、俺はまた俺の流儀で祝はせて貰はうよ。」

 「祝ふんですつて!」と、スクルージの甥は相手の言葉を繰り返した。「だが、些つとも祝つてゐないぢやありませんか。」

 「では、俺にはそんな物打遣うつちやらかして置かせて貰はうよ」とスクルージは云つた。「聖降誕祭は大層お前の役に立つだらうよ! これ迄も大層お前の役に立つたからねえ!」

 「世の中には、私がそれから利益を掴まうとすれば掴めたんだが、敢てそれをしなかつた事柄が幾許もありますよ、私は敢て云ひますがね」と甥は答へた。「聖降誕祭もその一つですやうだ  

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が、私はいつも聖降誕祭が來ると、その神聖な名前や由來に對する崇敬の念から離れて、いや、聖降誕祭に附屬してゐるものが何にもせよ、その崇敬の念から切り離せるとしたらですよ、それから切り離しても、聖降誕祭の時期どいふものは結構な時期だと思つてゐるのですよ。親切な、人を宥してやる、慈悲心に富んだ、樂しい時期だと。男も女も一様に揃うて、閉ぢ切つてゐた心を自由に開いて、自分達より目下の者どもも實際は一緒に墓場へ旅行してゐる道伴侶づれで、決して他の旅路を指して出掛ける別の人種ではないと云ふやうに考へる、一年の長い暦の中でも、私の知つてゐる唯一の時期だと思つてゐるのですやうですから、ねえ伯父さん、この聖降誕祭といふものは私の衣嚢の中へ金貨や銀貨の切れつぱし一つだつて入れてくれたことがなくとも、私を益してくれた、又これから先も益してくれるものだと、私は信じてゐるんですやうで、私は云ふのです、神よ、聖降誕祭を祝福し給へ! と。」

 大桶の中にゐた書記は我にもなく拍手喝采した。が、すぐに絲.の不穩當なことに氣が附いて、火を突つついて、最後に殘つた有るか無いかの火種を永久に掻き消してしまつた。

 「もう一遍手を叩いて見ろ」とスクルージは云つた。「君は地位を棒に振ることに依つて、聖降誕祭を祝ふだらうよ。貴方は中々大した雄辯家でいらつしやるね、もし貴方」と、彼は甥の方へ振り向ひて附け足した。「貴方が議會へお出にならないのは不思議だよ。」

 「さう怒らないで下さい、伯父さん。いらつしやいよ、私どもの宅で一緒に食事をしませう  

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よ。」

 スクルージは、自分は相手が地獄に落ちたのを見たいものだと云つた、實際彼はさう云つた。彼はその言葉を始めから終ひ迄漏さず云つてしまつた。そして、(自分がお前の宅へ行くよりは)先づお前がさう云ふ怖ろしい目に遭つてゐるのを見たいものだと云つた。

 「だが、何故です?」スクルージの甥は叫んだ。「何故ですよ?」

 「お前は又何故結婚なぞしたのだ?」と、スクルージは訊いた。

 「あの女を愛したからでさ。」

 「愛したからだと!」と、世の中にお目出たい聖降誕祭よりも、もつと馬鹿々々しいものはこれ一つだと云ふばかりに、スクルージは唸つた。

   「では左様なら!」

 「いや、伯父さん、貴方は結婚しない前だつて一度も來て下すつたことはないぢやありませんか。何故今になつてそれを來て下さらない理由にするんですよ?」

 「左様なら」と、スクルージは云つた。

 「私は貴方に何もして貰はうと思つちやゐませんよ。何も貰はうと思つちやゐませんよ。どうして二人は仲好く出來ないのですかね。」

 「左様なら」と、スクルージは云つた。

 

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 「貴方がさう頑固なのを見ると、私は心から悲しくなりますよ。二人はこれ迄喧嘩をしたことは--私が相手になつてしたことは一度だつてありません。ですが、今度は聖降誕祭に敬意を表して、仲直りをして見ようと思つたのです。私は最後迄聖降誕祭の氣分を保つて行くつもりですやうですから、聖降誕祭お目出たう、伯父さん!」

 「左様なら」と、スクルージは云つた。

 「そして、新年お目出たう!」

 「左様なら」と、スクルージは云つた。彼の甥はかう云はれても、一語も突慳貪な言葉は返さないでその部屋を出て行つた。彼は表側の戸口の所で立ち停つて、書記に時節柄の挨拶をした。書記は冷えてゐたが、スクルージより温い心を持つてゐた。と云ふのは、彼も丁寧に挨拶を返したからである。

 「まだ一人居るわい」と、スクルージは彼の聲を聞き附けて呟いた。

 「一週間に十五志貰つて、女房と子供を養つてゐる書記の奴が、聖降誕祭お目出たうだなんて云つてゐやがる。俺は瘋癲病院へ退き込まうかな。」

 この狂人はスクルージの甥を送り出しながら、二人の他の男を導き入れた。彼等は見るから氣持の好い、恰服かつぷくのいゝ紳士であつた。そして、今や帽子を脱いで、スクルージの事務室に立つてゐた。彼等は手に帳簿と紙とを持つて、彼にお辭儀をした。

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 「こちらはスクルージとマアレイ商會で御座いますね?」と、その中の一人が手に持つた表に照し合わせながら訊ねた。「失禮ながら貴方はスクルージさんでいらつしやいますか、それともマアレイさんでいらつしやいますか。」

 「マアレイ君は死んでから七年になりますよ」と、スクルージは答へた。「七年前の恰度今夜亡くなつたのです。」

 「勿論マアレイさんの鷹揚な處は、生き殘られたお仲間に依つて代表されてゐるので御座いませうな」と、紳士は委任状を差出しながら云つた。

 確かにその通りであつた。と云ふのは、彼等二人は類似の精神であつたからである。鷹揚な處といふ氣味の惡い言葉を聞いてスクルージは顔を顰めた。そして、頭を振つて、委任状を返した。

 「一年中のこのお祝ひ季節に當たりまして、スクルージさん」と、紳士はペンを取り上げながら云つた。「目下非常に苦しんでゐる貧窮者どものために、多少なりとも衣食の資を拵へてやると云ふことは、平日よりも一層願はしいことで御座いますよ。何千といふ人間が衣食に窮してゐるのです、何十萬といふ人間が有り觸れた生活の慰樂に事を缺いてゐるので御座いますよ、貴方。」

 「監獄はないのですかね」と、スクルージは訊ねた。

 「監獄は幾許もありますよ」と、紳士は再びペンを下に置きながら云つた。  

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 「そして共立救貧院は?」とスクルージは疊みかけて訊いた。「あれは今でもやつてゐますか。」

 「やつて居ります、今でも」と、紳士は返答した。「やつてゐないと申上げられると好う御座いますがね。」

 「踏み車や救貧法も十分に活用されてゐますか。」

 「兩方とも盛に活動してゐますよ。」

 「おゝ! 私は又貴方が最初に云はれた言葉から見て、何かさう云ふ物の有益な運轉を阻害するやうな事が起つたのではないかと心配しましたよ」と、スクルージは云つた。「それを伺つてすつかり安心しました。」

 「さう云ふ物では迚もこの多數の人に對して基督教徒らしい心身の慰安を供給してやることが出來ないと云ふ所信の下に」と、その紳士は返辭をした。「私ども數人の者が貧民のために肉なり、飲料なり、燃料なりを買つてやる資金を募集せうと努力してゐるので御座います。私どもが此の際を選んだのは、それが特に、貧乏が痛感されてゐると共に、有福な方々が喜び樂しんでおいでの時だからで御座います。御寄附は幾許といたしませうか。」

 「皆無」と、スクルージは云つた。

 「匿名がお望みで?」

 「いや、私は打遣つといて貰ひたいのだ」と、スクルージは云つた。「何が望みだとお尋ねに  

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なるから、こう御返辭をしたのです、私は自分でも聖降誕祭だつて愉快にはしてゐない。ですもの、怠惰者を愉快にしてやる譯には行きません。私は今擧げたやうな造營物の維持を助けてゐる--それだけでも隨分かゝりますよ。暮しの立たない者は其處へ行くが可いのさ。」

 「多くの人が其處へ(行かうと思つても)行かれません。又多くの人は(そんな所へ行く位なら)いつそ死んだ方がしだと思つて居りませう。」

 「いつそ死んだ方がよけりや」と、スクルージは云つた、「さうした方が可い、そして、過剩の人口を減らす方が可う御座んすよ。それに--失禮ですが--さう云ふ事實は知りませんね。」

 「でも、御存知の筈ですが」と、紳士は云つた。

 「いや、そりや私の知つた事ぢやない」と、スクルージは答へた。「人間は自分の仕事さえ好く心得てりや、それで澤山のものです。他人の仕事に干渉するには及ばない。私なぞは自分の仕事で年中暇なしですよ。左様なら、お二人さん!」

 自分達の主旨を押して追求した處で、迚も無駄だと明白に看て取つたので、紳士達は引き下がつた。スクルージは急に自分が偉くなつたやうに感じながら、平生の彼よりはずつと氣輕な氣持で、再び仕事に取り掛つた。

 その間にも霧と闇とはいよいよ深くなつたので、人々は馬車馬の前に立つて、途中その馬を案内する御用を承はりたいと申し出でながら、ゆらゆら燃える松明を持つて歩き廻つた。年數を經

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た教會の塔は--その胴羅聲の古い鐘はいつも壁の中のゴシツク型の窓から何喰はぬ顔してスクルージを見下ろしてゐたものだが、その塔も見えなくなつた。そして、あの高い所にあるあの凍つた頭の中で齒ががちがち噛み合つてでもゐるやうに、後に顫へるやうな震聲を曳いて、雲の中で一時間目毎、十五分目毎の鐘を打つた。寒さは愈々嚴しくなつた。大通りでは、路地の隅で、二三の勞働者が瓦斯管の修繕をして居た。そして、火鉢の中に火を澤山燃して置いて、その周圍に襤褸を着た男達と子供達の一團が夢中になつて手を煖めたり、火焔の前に眼をぱちつかせたりしながら簇つてゐた。水道の栓はひとり打遣つて置かれたので、その溢れ出る水は急に凍つて、厭世的な氷になつてしまつた。柊の小枝や果實が窓の中の洋燈の熱にパチパチ彈けてゐる店々の明るさは、通りがゝりの人々の蒼い顔を眞赧にした。家禽屋だの食料品屋だのの商賣は素晴らしい戯談になつてしまつた。即ち取引とか賣買とかいふやうな面白くもない原則がこれと何かの關係があらうとは、到底信じられないやうな、華やかな観世物になつてしまつたのであつた。市長閣下は堂々とした官邸の城砦の中で、何十人といふ料理番と膳部係とに、市長家として恥づかしくないやうな、聖降誕祭の用意をするやうに吩咐けた。又前週の月曜日に酒に醉つて、血腥い眞似をしたと云ふ廉で市長から五志の罰金に處せられた詰らない仕立屋すら、痩せた女房と赤ん坊とが牛肉を買ひに驅け出して行つた間に、屋根裏の部屋で明日のプデイングを掻き廻してゐた。

 いよいよ霧は深く、寒さも加はつて來た。突き刺すやうな、身に徹えるたうな、噛みつくやう

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な寒さであつた。聖ダンスタンがいつもの武器を使ふ代りに、こんなお天氣で一と撫でして、惡魔の鼻をちよいと痺れさせてやつたら、その時こそ實際惡魔は大聲擧げて咆吼したことでもあらう。骨が犬に咬まれるやうに、飢ゑた寒さに咬みつかれ、もぐもぐ噛じられた、一つの尖つた若い鼻の持主がスクルージの鍵の穴から覗き込んで、聖降誕祭の頌歌を彼に振舞はうとした。が、

 

神は貴方がたを祝福したまはむ、愉快さうな紳士方よ、

 貴方がたを狼狽せしむる者は一としてなからむ!

と初めの文句を歌ひ出した刹那に、スクルージは非常に猛烈な勢ひで簿記棒を引掴んだ。それがために歌唄ひは仰天して、その鍵の穴を霧と、それよりももつと主人と性の合つた霜とに任せて置いたまゝ遁げ出した。

 たうたう事務所の閉ぢる時刻がやつて來た。厭々ながらスクルージはその腰掛から降りて、大桶の中に待ち構へてゐた書記に、默つてその事實の承認を與えた。書記は早速臘燭を消して帽子を被つた。

 「明日は丸一日慾しいんだらうね?」とスクルージは云つた。

 「御都合が宜しければ、貴方。」

 「都合は宜くないさ」と、スクルージは云つた。「又公平な事でもないさ。で、そのために半クラウンを差引かうと云ひ出したら、君は酷い目に遭つたと思ふだらう、屹度さうだらうな!」  

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 書記は微かに笑つた。

 「しかもだ」と、スクルージは云つた、「君の方ぢや仕事もしないのに一日の給料を拂はせられる俺を酷い目に遭はせたとは考へないのだ。」

 書記は一年にたつた一度のことだと云つた。

 「毎年十二月二十五日に人の懷中物をり取るにしちや、まづい言い譯だ」と、スクルージは大きな外套の顎迄ボタンを掛けながら云つた。「だが、どうしたつて丸一日休まずには置かないのだらう。明くる朝はその代りに一層早く出て來なさいよ。」

 書記はさうしませうと云ふことを約束した。スクルージはぶつぶつ云ひながら出て行つた。事務所は瞬く間に閉ぢられてしまつた。そして、書記は白い襟卷の長い兩端を腰の下でぶらぶらさせながら、(と云ふのは彼は外套を持つてゐなかつたからで。)聖降誕祭前夜のお祝ひに、子供達の列の端に附いて、コーンヒルの大通りの氷つた辷り易い道の上を幾度となく往復した。それから目隱し遊びをせうと思つて、全速力でカムデン・タウンの自宅へ驅け出して行つた。

 スクルージは行きつけの陰氣な居酒屋で、陰氣な食事を濟ました。そこにあつた新聞をすつかり讀んでしまつて、あとは退屈凌ぎに銀行の通帳をいぢくつてゐたが、やがて寝に歸つた。彼は嘗て死んだ仲間の所有であつた部屋に住つてゐた。それは中庭の突き當りの陰氣な一構への建物の中にある薄暗い一組の室であつた。この建物は、少年の頃に他の家々と一緒に隱れん坊の遊び

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をしながら、そこへ走り込んだまゝ、元の出口を忘れてしまつたものに違ひないと想像せずにはゐられなかつた程、此處にある必要のないものであつた。今はすつかり古びて、隨分物凄いものになつてゐた。何しろ他の室は皆事務所に貸してあつて、スクルージの外には誰も住んで居ないのだから。中庭は眞暗で、その石の一つ一つをも知つてゐる筈のスクルージですら、已むを得ず手探りで這入つて行つた位であつた。霧と霜とは、その家の眞黑な古い玄關の邉りにまごまごしてゐたが、恰度それは天氣の神がぢつと悲しげに考へ込みながら、閾の上に坐つてゐるのかと思はれる位であつた。

 處で、入口の戸敲きには、それは非常に大きなものであつたと云ふ外に、別段變つたことはなかつた。それは事實である。又スクルージは、其處に住つてゐる間、朝に晩にそれを見てゐたと云ふことも事實である。又スクルージは、倫敦市民の何人だれとも、市の行政團體、市參事會、組合員などを引つ包めても--引つ包めてもと云ふのは少し大膽だが、倫敦市中の何人だれとも同じやうに、所謂想像力なるものを餘り持つてゐなかつたと云ふことも事實その通りである。又スクルージは、この日の午後七年前に死んだ仲間のことを口にした切りで、それ以來少しもマアレイの上に思ひを致さなかつたと云ふことも心に留めて置いて貰ひたい。で、さうした上で、スクルージが、戸の錠前に鍵を押し込んでから、それが何時の間にどうして變つたと云ふこともないのに、その戸敲きを戸敲きと見ないで、マアレイの顔と見たと云ふことは、一體どうしたことであらう

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か、それを説明の出來る人があつたら、誰でもいゝから説明して貰ひたい。

 マアレイの顔。それは中庭にある他の物體のやうに、見透かせない闇の中にあるのではなく、眞暗な窖の中にある腐敗した海老のやうに、氣味の惡い光を身の周りに持つてゐた。それは怒つてもゐなければ、猛々しい顔でもない、その昔マアレイが物を見る時の容子そつくりの容子をして、即ちその幽靈然たる額に幽靈然たる眼鏡を掻き上げて、ぢつとスクルージを見遣つた。頭髪は息か熱した空氣でも吹きかけられてゐるやうに、變梃に動いてゐた。そして眼はぱつちり開いてゐたが、まるで動かなかつた。その眼とどす黑い顔の色とはその顔をぞつと怖毛おぢけの立つやうな氣味の惡いものにした。が、その顔の氣味惡さは顔とは全然無關係で、顔の表情の一部分といふよりも、寧ろその支配を超脱してゐるやうに思はれた。

 スクルージがこの現象を眼を凝らして見ると、それは又一つの戸敲きであつた。彼はどきりともしなかつた、又は彼の血は赤兒の時から恐ろしいと云ふやうな感じは知らないで通して來たが、今もその感じを意識しなかつたなぞと云へば、それは嘘だ。が、併し彼は一たび放した鍵に手を掛けて、頑強にそれを廻はした。それから中へ這入つて臘燭を點けた。

 彼は戸を閉める前に、一寸躊躇して手を控へた。そして、廊下の方へ出つ張つてゐるマアレイの辮髪を見て脅かされることだらうと、半ばそれを待ち設けてでもゐるやうに、先づその戸の背後を用心深く見廻はした。が、その戸の裏には、戸敲きを留めてあつた螺旋と女螺旋との外には

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何もなかつた。そこで彼は「ぷつ! ぷつ!」と云つた。そして、その戸をぴつしやり閉めてしまつた。

 その響は雷鳴のやうに家の中に響き渡つた。階上のどの室も、酒商の借りてゐる地下の窖の中のどの樽も、それぞれ特有の反響を立てゝ高鳴りをしたやうに思はれた。スクルージは反響なぞにおびえるやうな男ではなかつた。彼はしつかり戸締りをして、廊下を横切つて、階段を上つて行つた。しかも緩やかに。歩いてゐる間に臘燭の心を切りながら。

 讀者諸君は、六馬立ての馬車を驅つて古い階子段を驅け上がるとか、又は、新に議會を通過した法令の穴を潜つて馬車を驅るとか云ふやうなことを漠然と話してゐても宜しい。だが、私は誰でもあの階段の上に棺車を引き上げようと思へば上げられる、しかも壁の方に横木をやり、欄干の方へ扉を向けて、それを横にして引き上げることも出來る、しかもそれを容易くすることが出來るといふことを云ひたいのだ。さうするだけの廣さは十分にあつて、まだ餘地がある位であつた。それが恐らくスクルージの薄暗がりの中で自分の前を自動棺車が上つて行くのを見たやうに思つた原因でがなあらう。街上からは五六個の瓦斯燈の光が射しても、十分にこの入口を照らしはしなかつたらう。それだもの、スクルージの臘燭ではかなり暗かつたとは、誰にも想像がつかう。

 スクルージは、そんなことには少しも頓着しないで、上つて行つた。暗闇は廉いものだ。そし

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て、スクルージはそれが好きであつた。が、彼はその重い戸を閉める前に、何事もなかつたか檢めようとして、室々を通り拔けた。彼もさうして見たくなる位には、十分その顔の追憶を持つてゐたのだ。

 居間、寝室、物置。凡てが依然として元の通りになつてゐた。卓子の下にも、長椅子の下にも、誰もゐなかつた。煖爐には少しばかりの火が殘つてゐた。匙も皿も用意してあつた。粥(スクルージは鼻風を引いてゐた)の小鍋は爐房の棚の上にあつた。寝床の下にも、誰もゐなかつた。押入の中にも誰もゐなかつた。寝間着は胡散臭ひ恰好をして壁に懸かつてゐたが、その中にも誰もゐなかつた。物置も普段の通りであつた。古い煖爐の蓋と、古靴と、二個の魚籠と、三脚の洗面臺と、火掻き棒とがあるばかりであつた。

 すつかり安心して、彼は戸を閉めて、錠を下ろした。二重に錠を下ろした、それは彼の習慣ではなかつた。かうして先づ不意打ちを喰ふ恐れをなくして置いて、彼は頸飾を外した。寝間着を着て上靴を穿いて、寝帽を被つた。それから粥を啜らうとして煖爐の前に坐つた。

 實際それは極めてとろい火であつた。こんな嚴寒の晩には有れども無きが如きものであつた。で、餘儀なくその火の近くへ寄つて腰を下ろして、長い間その上に伸しかゝつてゐた。さうしなければ、こんな一握の焚物からは暖かいと云ふほん・・の僅かな感じでも引き出すことは出來なかつたのだ。煖爐はずつと以前に和蘭のある商人が拵へた古い物で、周圍には聖書の中の物語を繪模

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様にした、風變りな和蘭の瓦が敷き詰めてあつた。カインや、アベルや、パロの娘達や、シバの女王達、羽布團のやうな雲に乘つて空から降つてくる天の使者や、アブラハムや、ベルシヤザアや、牛酪皿に乘つて海に出て行かうとしてゐる使者達や、幾百と云ふ彼の心を惹く人物がそこに描かれてゐた。しかも七年前に死んだマアレイのあの顔が古への豫言者の鞭のやうに現れて來て、總ての人間を丸呑みにしてしまつた。若しこの滑つこい瓦が、いづれも最初は白無地に出來てゐて、その表に取りとまりのない彼の考への斷片から取つて、何かの繪を形成する力を持つてゐたとしたら、どの瓦にも老マアレイの頭が寫し出されたことであらう。

 「馬鹿な!」と、スクルージは云つた。そして、室の中をあちこちと歩いた。

 五六度往つたり來たりした後で、彼は又腰を下ろした。彼が椅子の背に頭を凭せかけた時、不圖一つの呼鈴に眼が着いた。それはこの室の中に懸つてゐて、今は忘れられた或目的のために、この建物の最上階にある一つの室と相通ずるやうになつてゐた、この頃は使はれない呼鈴であつた。で、見上げた途端に、この呼鈴がゆらゆら搖れ出したので、彼は非常に驚いた。いや、不思議な何とも云はれない恐怖の念に襲はれた。最初は、殆ど音も立てない程、極めて緩やかに搖れてゐた。が、直きに高く鳴り出した。そして、家の中のどの鈴も皆同じやうに鳴り出した。

 これが續いたのは半分か一分位のものであつたらう。が、それは一時間も續いたやうに思はれた。呼鈴は鳴り出したときと同じく、一齊に止んだ。その後に、階下のずつと下の方で、チャラン

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チャランと云ふ、恰度誰かが酒屋の窖の中にある酒樽の上を重い鎖でも引き摺つてゐるやうな音が續いた。その時スクルージは化物屋敷では幽靈が鎖を引き摺つてゐるものだと云はれたのを聞いたことがあるやうに追想した。

 窖の戸はぶんと唸りを立てゝ開いた。それから彼は前よりも高くなつたその物音を階下の床の上に聞いた。それから階子段を上つて來るのを、それから眞直に彼の室の戸口の方へやつて來るのを聞いた。

 「まだ馬鹿な眞似をしてやがる!」と、スクルージは云つた。「誰がそれを本氣に受けるものか。」

 とは云つたものゝ、一瞬の躊躇もなく、それが重い戸を通り拔けて室の中へ、しかも彼の眼の前まで這入り込んで來た時には、彼も顔色が變つた。それが這入つて來た瞬間に、消えかゝつてゐた(臘燭の)焔は恰度「私は彼を知つてゐる! マアレイの幽靈だ!」とでも叫ぶやうに、ぱつと跳ね上つて、又暗くなつた。

 同じ顔、紛れもない同じ顔であつた。辮髪を着けた、いつもの胴衣に、洋袴に、長靴を着けた、マアレイであつた。靴に附いたふさ・・(糸+遂)は、辮髪や、上衣の裾や、頭の髪と同じやうに逆立つてゐた。彼の曳き摺つて來た鎖は腰の周りに絡みついてゐた。それは長いもので、恰度尻尾のやうに、彼をぐるぐる捲いてゐた。それは(スクルージは精密にそれを観察して見た)、弗箱や、鍵や、海

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老錠や、臺帳や、證券や、鋼鐵で細工をした重い財嚢やで出來てゐた。彼の體躯は透き通つてゐた。そのために、スクルージは、彼を観察して、胴衣を透かして見遣りながら、上衣の背後に附いてゐる二つの釦子ぼたんを見ることが出來た位であつた。

 スクルージはマアレイがはらわたを持たないと云はれてゐたのを度々聞いたことがあつた。が、今迄は決してそれを本當にしてはゐなかつた。

 いや、今でもそれを本當にはしなかつた。彼は幽靈をしけじげと見遣つて、それが自分の前に立つてゐるのだとは承知してはゐたけれども、その死のやうに冷い眼の人をぞつとさせるやうな影響を感じてはゐたけれども、又頭から顎へかけて捲き附けてゐた褶んだ半帛の布目に氣が附いてはゐたけれども--こんな物を捲き附けてゐるのを彼は以前見たことがなかつた、--それでもまだ彼は本當に出來なくつて、我と我が感覺を疑はうとした。

 「どうしたね!」と、スクルージは例の通り皮肉に冷淡に云つた。「何ぞ私に用があるのかね。」

 「澤山あるよ。」--マアレイの聲だ、疑う處はない。

 「貴方は誰ですか?」

 「誰であつたかと訊いて貰ひたいね。」

 「ぢや、貴方は誰であつたか」と、スクルージは聲を高めて云つた。「幽靈にしては、いやに

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八釜しいね。」彼は「些細なことまで」と云はうとしたのだが、この方が一層この場にふさはしいと思つて取り代へた。(註、「幽靈にしては」と「些細なことまで」が原語では語呂の上の「しゃれ」になつてゐるのである。)

 「存生中は、私は貴方の仲間、ジエコブ・マアレイだつたよ。」

 「貴方は--貴方は腰を掛けられるかね」と、スクルージはどうかなと思ふやうに相手を見ながら訊ねた。

 「出來るよ。」

 「ぢや、お掛けなさい。」

 スクルージがこの問を發したのは、こんな透明な幽靈でも椅子なぞに掛けられるものかどうか、彼には分らなかつたからである。そして、それが出來ないといふ場合には、幽靈も面倒な辯解の必要を免れまいと感じたからである。處が、幽靈はそんな事には馴れ切つてゐるやうに、煖爐の向う側に腰を下ろした。

 「お前さんは私を信じないね」と、幽靈は云つた。

 「信じないさ」と、スクルージは云つた。

 「私の實在に就ては、お前さんの感覺以上にどんな證據があると思つてゐるのかね。」

 「私には分らないよ」と、スクルージは云つた。

 「ぢや、何だつて自分の感覺を疑うのか。」

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「だつて」と、スクルージは云つた、「些細な事が感覺には影響するものだからね。胃の工合が少し狂つても感覺を詐欺師にしてしまふよ。お前さんは消化し切れなかつた牛肉の一片かも知れない。芥子の一點か、乾酪の小片か、生煮えの薯の碎片位のものかも知れないよ。お前さんが何であらうと、お前さんには墓場よりも肉汁の氣の方が餘計にあるね。」

 スクルージはあまり戯談なぞ云ふ男ではなかつた。又この時は心中決して剽輕な氣持になつてもゐなかつた。實を云へば、彼はたゞ自分の心を紛らしたり、恐怖を鎭めたりする手段として、氣の利いた事でも云つて見ようとしたのであつた。それと云ふのも、その幽靈の聲が骨の髄まで彼を周章せしめたからであつた。

 一秒でも默つて、このぢつと据わつた、どんよりと光のない眼を見詰めて腰掛けてゐようものなら、それこそ自分の生命に關わりさうに、スクルージは感じた。それに、その幽靈が幽靈自身の地獄の風を身の周りに持つてゐると云ふことも、何か知ら非常に怖ろしい氣がした。スクルージは自分が直接その風を受けたのではなかつた。併しそれは明白に事實であつた。と云ふのは、この幽靈は全然身動きもしないで腰掛けてゐたけれども、その毛髪や、着物の裾や長靴のふさ・・(糸+遂)が、竈から昇る熱氣にでも吹かれてゐるやうに、始終動いてゐたからである。

 「この楊子は見えるだらうね?」と、スクルージは今擧げたやうな理由の下に、早速突撃に立ち戻りながら、又一つにはたゞの一秒間でもよいから、幽靈の石のやうな凝視をわきらしたい

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と望みながら訊いた。

 「見えるよ」と、幽靈が答へた。

 「楊子の方を見てゐないぢやないか」と、スクルージは云つた。

 「でも、見えるんだよ」と、幽靈は云つた。「見てゐなくてもね。」

 「なる程!」と、スクルージは答へた。「私はたゞこれを丸呑みにしさへすれば可いのだ。そして、一生の間自分で拵へた化物の一隊に始終いぢめられてりや世話はないや。馬鹿々々しい、本當に馬鹿々々しいやい!」

 これを聞くと、幽靈は怖ろしい叫び聲を擧げた。そして、物凄い、慄然ぞつとするやうな物音を立てゝ、その鎖を搖振ゆすぶつたので、スクルージは氣絶してはならないと、しつかりと椅子に獅噛み着いた。併し幽靈が室内でこんな物を卷いてゐるのはちと暖か過ぎるとでも云ふやうに頭からその繃帶を取り外したので、下顎がだらりと胸に重ね落ちた時には、彼の恐怖は前よりもどんなに大きかつたことであらう!

 スクルージはいきなり跪いて、顔の前に兩手を合せた。

 「お助け!」と彼は云つた。「恐ろしい幽靈様、どうして貴方は私をお苦しめになるのだ?」

 「世間の慾に眼の暮れた男よ」と、幽靈は答へた。「お前は私を信ずるかどうぢや?」

 「信じます」と、スクルージは云つた。「信じないでは居られませぬ。ですが、何故幽靈が出

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るのですか。又何だつて私の許へやつて來るのですか。」

 「誰しも人間といふものは」と、幽靈は返答した。「自分の中にある魂が世間の同胞の間へ出て行つて、あちこちと汎く旅行して廻らなければならないものだ。若しその魂が生きてゐるうちに出て歩かなければ、死んでからさうするやうに申し渡されてゐるのだ。世界中をうろつき歩いて、--ああ悲しいかな!--そして、この世に居たら共に與かることも出來たらうし、幸福に轉ずることも出來たらうが、今は自分の與かることの出來ない事柄を目撃するやうに、その魂は運命を定められてゐるのだよ。」

 幽靈は再び叫び聲を擧げた。そして、その鎖を搖振つて、その幻影のやうな兩手を絞つた。

 「貴方は縛られておいでですね」と、スクルージは顫へながら云つた。「どういう譯ですか。」

 「私が存命中に鍛へた鎖を身に着けてゐるのさ」と幽靈は答へた。「私は一輪づゝ、一ヤードづゝ、拵へて行つた。そして、自分の勝手で捲き附けたのだ。自分の勝手で身に着けたのだ。お前さんはこの鎖の型に見覺えがないかね。」

 スクルージは愈々益々慄へた。

 「それとも」と、幽靈は言葉をつゞけた、「お前さんは自分でも背負つてゐるその頑丈な捲環の重さと長さを知りたいかね。それは七年前の聖降誕祭の前晩にも、これに負けないくらゐ重くて長かつたよ。その後もお前さんは苦勞してそれを殖やして來たからね。今は素晴らしく重い鎖

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になつてゐるよ。」

 スクルージは、もしか自分もあんな五六十尋もあるやうな鐵の綱で取り卷かれてゐるのぢやないかと、周圍の床の上を見廻した。併し何も見ることは出來なかつた。

 「ジエコブ(註、これは猶太人に多い名であるさうな。スクルージの洗禮名エベネザアも同様)」と、彼は憐みを乞ふやうに云つた。「老ジエコブ・マアレイよ、もつと話しをしておくれ。氣の引き立つやうなことを云つておくれ、ジエコブよ。」

 「何も上げるものはないよ」と、幽靈は答へた。「そんなものは他の世界から來るのだ、エベネザア・スクルージよ。そして、他の使者がもつと質の違つた人間の許へ持つて行くのよ。それに又私は自分の云ひたいことを話す譯にも行かない。後もう・・ほんの少しの時間しか許されてゐないのだからね。私は休むことも停まつてゐることも出來ない。どこにもぐずぐずしてゐることも出來ない。私の魂は私どもの事務所より外へ出たことがなかつた。--よく聽いておいでよ--生きてゐる間、私の魂は私どもの帳場の狹い天地より一歩も出なかつた。そして、今や飽き飽きするやうな長たらしい旅程が私の前に横はつてゐるんだよ。」

 スクルージが考へ込む時には、いつでもズボンのポツケツトに兩手を突つ込むのが癖であつた。幽靈の云つたことをつくづく考へ運らしながら、今も彼はさうしてゐた。が、眼も擧げなければ、立ち上がりもしなかつた。

 「極くゆつくりとやつて來たのでせうね。」と、スクルージは謙遜で丁寧ではあつたが、事務的

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な口調で訊いた。

 「ゆつくりだ!」と、幽靈は相手の言葉を繰り返した。

 「死んで七年」と、スクルージは考へるやうに云つた。「その間始終歩き通しでせう?」

 「始終だとも」と、幽靈は云つた。「休息もなければ、安心もない。絶え間もなく後悔に苦しめられてゐるんだよ。」

 「では、餘程速く歩いてゐるのですか」と、スクルージは訊いた。

 「風の翼に乘つてよ」と、幽靈は答へた。

 「それぢや七年間には隨分澤山の道程みちのりが歩かれたでせう」と、スクルージは云つた。

 幽靈は、それを聞いて、もう一度叫び聲を擧げた。そして、區がそれを安眠妨害として告發しても差支へなからうと思はれるやうな、怖ろしい物音を眞夜中に立てゝ、鏈をガチヤガチヤと鳴らした。

 「おゝ! 縛られた、二重に足枷を嵌められた捕虜よ」と、幽靈は叫んだ、「不死の人々のこの世のためにせらるゝ不斷の努力の幾時代も、この世の受け得る善のまだ悉く展開し切らないうちに、永劫の常闇の中に葬られざるを得ないと云ふことを知らないとは。どんな境遇にあるにせよ、その小さな範圍内で、それぞれその性に合つた働きをしてゐる基督教徒の魂が、いづれも自分に與へられた人の為に盡す力の廣大なのに比べて、その一生の餘りに短きに過ぐるを嘆じて

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ゐると云ふことを知らないとは。一生の機會を誤用したことに對しては、いくら永い間後悔を續けてもそれを償ふに足りないと云ふことを知らないとは! しかも私はさう云ふ人間であつた! あゝ、私はさう云ふ人間であつたのだ!」

 「だが併し、お前さんはいつも立派な事務家でしたがね」と、スクルージは言い淀みながら云つた。彼は今や相手の言葉を我が身に當て嵌めて考へ出したのである。

 「事務だつて!」と、幽靈は又もや其の手を揉み合せながら叫んだ。「人類が私の事務だつたよ。社會の安寧が私の事務だつた。慈善と、惠みと、堪忍と、博愛と、凡てが私のすべき事務だつたよ。商賣上の取引なぞは、私の職務といふ廣大無邉な海洋中の水一滴に過ぎなかつたのだ。」幽靈は、これが有らゆる自分の無益な悲嘆の源泉であるぞと云はむばかりに、腕を一杯に伸ばしてその鎖を持ち上げた。そして、それを再び床の上にどさりと投げ出した。

 「一年のこの時節には」と幽靈は云つた、「私は一番苦しむのだ。何故私は同胞の群がつてゐる中を眼を伏せたまゝ通り拔けたらう! そして、東方の博士達を一貧家に導いたあのお有難い星を仰いで見なかつたらう! 世の中にあの星の光が私を導いてくれるやうな貧しい家は無かつたのか。」

 スクルージは、幽靈がこんな調子で話し續けて行くのを聞いて、非常に落膽した。そして、無性にがたがたと慄へ出した。

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「よく聞いてゐなよ!」と、幽靈は叫んだ。「私の時間はもう盡きかゝつてゐるのだからね。」

 「はい、聞いてゐますよ」と、スクルージは云つた。「ですが、どうかお手柔らかに願ひたい! 餘り言葉を飾らないで下さい。ジエコブ君、お願ひですよ。」

 「どう云ふ理由で私がかうしてお前さんの眼に見えるやうな恰好でお前さんの前に現はれるやうになつたかと云ふことは、私は語ることを許されてゐない。姿は見せなかつたが、私は幾日も幾日もお前さんの傍に坐つてゐたのだよ。」

 それは聞いて決して氣持の好い話ではなかつた。スクルージは慄へ上つた。そして、前額から汗を拭き取つた。

 「さうして坐つてゐるのも、私の難行苦行の中で決して易しい方ではないよ」と、幽靈は言葉を續けた。「私は今晩此處へ、お前さんにはまだ私のやうな運命を免れる機會も望みもあると云ふことを教へて上げるためにやつて來たのだ。つまり私の手で調べて上げた機會と望みがあるんだね、エベネザー君よ。」

 「お前さんはいつも私には親切な友達でしたよ」とスクルージは云つた。「どうも有難う!」

 「お前さんはお見舞ひを受けるよ」と、幽靈は言葉を次いだ、「三人の幽靈に。」スクルージの顔は恰度幽靈の顎が垂れ下がつたと同じ程度に垂れ下がつた。

 「それがお前さんの云つた機會と望みのことなんですか、ジエコブ君。」と、彼はおどおどし

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た聲で訊いた。

 「さうだ。」

 「私は--私はいつそ來て頂きたくないので」と、スクルージは云つた。

 「三人の幽靈の訪問を受けなけりや」と、幽靈は云つた、「到底私の踏んだ道を避けることは出來ないよ。明日一時の鐘が鳴つたら、第一の幽靈が來るからさう思つてゐなさい。」

 「皆一緒に來て頂いて、一時に濟ましてしまふ譯には行きませんかな、ジエコブ君」と、スクルージは相手の氣を引いて見た。

 「その明くる晩の同じ時刻には、第二の幽靈が來るからさう思つてゐなさい。又その次ぎの晩の十二時の最後の打ち音が鳴り止んだ時に、第三の幽靈が來るからさう思つてゐなさい。もうこの上私と會はうと思ひなさるな。そして、二人の間にあつたことを貴方自身のために記憶おぼえて置くやうに、好く氣を附けなさい!」

 この言葉を云ひ終つた時、幽靈は卓子の上から例の繃帶を取つて、以前と同じやうに、頭のまわりにそれを捲きつけた。その顎が繃帶で上下一緒に合わさつた時に、その齒の立てゐたガチリと云ふ音で、スクルージもそれと知つた。彼は思ひ切つて再び眼を擧げて見た。見ると、この超自然の訪客は腕一杯にぐるぐるとその鎖を捲き附けたまゝ直立不動の姿勢で彼と向ひ合つて立つてゐるのであつた。

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 幽靈はスクルージの前からだんだんと後退りして行つた。そして、それが一歩退く毎に、窓は自然に少しづゝ開いて、幽靈が窓に達した時には、すつかり開き切つてゐた。幽靈はスクルージに傍へ來いと手招きした、スクルージはその通りにした。二人が互に二歩の距たりに立つた時、マアレイの幽靈はその手を擧げて、これより傍へ近づかないやうに注意した。スクルージは立停まつた。これは相手の云ふことを聽いて立停まつたと云ふよりも、寧ろ吃驚して恐れて立ち停まつたのであつた。と云ふのは、幽靈が手を擧げた瞬間に、空中の雜然たる物音が、連絡のない悲嘆と後悔の響きが、何とも云はれない程悲しげな、自らを責めるやうな慟哭の聲が彼の耳に聞えて來たからである。幽靈は一寸耳を澄まして聽いてゐた後で、自分もその悲しげな哀歌に聲を合せた。そして、物寂しい暗夜の中へ泛ぶやうに出て行つた。

 スクルージは、自分の好奇心に前後を忘れて、窓の所まで隨いて行つた。彼は外を眺め遣つた。

 空中は、落着きのない急ぎ足で彼方此方をうろつき廻り、そして、歩きながらも呻吟してゐる妖怪變化で滿たされてゐた。そのどれもこれもがマアレイの幽靈と同じやうな鎖を身につけてゐた、中に二三の者は(これは有罪會社の輩かも知れない)一緒に繋がれてゐた。一として縛られてゐないのはなかつた。存命中スクルージに親しく知られて居たものも澤山あつた。彼は、白い胴服チヨツキを着て、踵に素晴らしく大きな鐵製の金庫を引きずつてゐる一人の年寄の幽靈とは生前隨分懇意にしてゐたのであつた。その幽靈は、下の入口の踏段の上に見えてゐる赤ん坊を連れた見す

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ぼらしい女を助けてやることが出來ないと云ふので、痛々しげに泣き喚いてゐた。彼等全體の不幸は、明かに、彼等が人事に携はつてそれを善くしようと望んでゐて、しかも永久にその力を失つたと云ふ所にあるのであつた。

 これ等の生物が霧の中に消え去つたのか、それとも霧の方で彼等を包んでしまつたのか、彼には何れとも分らなかつた。併し彼等も、その幽靈の聲々も共に消えてしまつた。そして、夜は彼が家に歩いて歸つた時と同じやうにひつそりとなつた。

 スクルージは窓を閉めた。そして、幽靈の這入つて來た戸を檢めた。それは彼が自分の手で錠を卸して置いた通りに、ちやんと二重に錠が卸してあつた。閂にも異状はなかつた。彼は「馬鹿々々しい!」と云はうとしたが、口に出し掛けたまゝ已めた。そして、自分の受けた感動からか、それとも晝間の勞れからか、それともあの世を一寸垣間見たためか、それとも幽靈の不景氣な會話のためか、それとも又時間の晩いためか知らないが、非常に休息の必要を感じてゐたので、着物も脱がないで、その儘寝床へ這入つて、すぐにぐつすりと寝込んだ仕舞つた。



第二章 第一の精靈

 スクルージが眼を覺ました時には、寝床から外を覗いて見ても、その室の不透明な壁と透明な

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窓との見分けが殆ど附かない位暗かつた。彼は鼬のやうにきよろきよろした眼で闇を貫いて見定めようと骨を折つてゐた。その時近所の教會の鐘が十五分鐘を四たび打つた。で、彼は時の鐘を聞かうと耳を澄ました。

 彼が非常に驚いたことには、重い鐘は六つから七つと續けて打つた、七つから八つと續けて打つた。そして、正確に十二まで續けて打つて、そこでぴたりと止んだ。十二時! 彼が床に就いた時には二時を過ぎてゐた。時計が狂つてゐるのだ。機械の中に氷柱が這入り込んだものに違ひない。十二時とは!

 彼はこの途轍もない時計を訂正しようと、自分の時打ち懷中時計の彈條ばねに手を觸れた。その急速な小さな鼓動は十二打つた。そして停まつた。

 「何だつて」と、スクルージは云つた、「まる一日寝通して、次の晩の夜更けまで眠つてゐたなんて、そんな事はある筈がない。だが、何か太陽に異變でも起つて、これがひるの十二時だと云ふ筈もあるまいて!」

 さうだとすれば大變なことなので、彼は寝床から這ひ出して、探り探り窓の所まで行つた。處が、何も見えないので、已むを得ず寝間着の袖で霜を拭い落した。で、ほん・・の少し許り見ることが出來た。彼がやつと見分けることの出來たのは、たゞまだ非常に霧が深く、耐らない程寒くて、大騒ぎをしながらあちらこちらと走り廻つてゐる人々の物音なぞは少しもなかつたと云ふことで

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あつた。若し夜が白晝を追い拂つて、この世界を占領したとすれば、さう云ふ物音は當然起つてゐた筈である。これは非常な安心であつた。何故なら、勘定すべき日といふものがなくなつたら、「この第一振出為替手形一覽後三日以内に、エベネザー・スクルージ若しくはその指定人に支拂うべし」云々は、單に合衆國の擔保に過ぎなくなつたらうと思はれるからである。

 スクルージは又寝床に這入つた。そして、それを考へた、考へた、繰り返し繰り返し考へたが、薩張り譯が分らなかつた。考へれば考へる程、愈々こんぐらかつてしまつた。考へまいとすればする程、益々考へざるを得なかつた。

 マアレイの幽靈は無性に彼を惱ました。彼はよくよく詮議した揚句、それは全然夢であつたと胸の中で定めるたんびに、心は、強い彈機ばねが放たれたやうに、再び元の位置に飛び返つて、「夢であつたか、それとも夢ではなかつたのか」と、始めから遣り直さるべきものとして同じ問題を持ち出した。

 鐘が更に十五分鐘を三たび鳴らすまで、スクルージはかうして横たはつてゐた。その時突然、鐘が一時を打つた時には、最初のお見舞ひを受けねばならぬことを幽靈の戒告して行つたことを想ひ出した。彼はその時間が過ぎてしまふまで、眼を覺ましたまゝ横になつてゐようと決心した。處で、彼がもはや眠られないことは天國に行かれないと同様であることを想へば、これは恐らく彼の力の及ぶ限りでは一番賢い決心であつたらう。

 

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 その十五分は非常に長くて、彼は一度ならず、我知らずうとうととして、時計の音を聞き漏らしたに違ひないと考へた位であつた。たうとうそれが彼の聞き耳を立てゐた耳へ不意に聞えて來た。

 「ヂン、ドン!」

 「十五分過ぎ!」とスクルージは數へながら云つた。

 「ヂン、ドン!」

 「三十分過ぎ!」

 「ヂン、ドン!」

 「もうあと十五分」と、スクルージは云つた。

 「ヂン、ドン!」

 「いよいよそれだ!」と、スクルージは占めたとばかりに云つた、「しかも何事もない!」

 彼は時の鐘が鳴らないうちにかく云つた。が、その鐘は今や深い、鈍い、空洞うつろな、陰鬱な一時を打つた。忽ち室中に光りが閃き渡つて、寝床の帷幄カーテンが引き捲くられた。

 彼の寝床の帷幄は、私は敢て斷言するが、一つの手でわきへ引き寄せられた。足下あしもとの帷幄でも、背後うしろの帷幄でもない、顔が向ひてゐた方の帷幄なのだ。彼の寝床の帷幄は側へ引き寄せられた。そして、スクルージは、飛び起きて半坐りになりながら、帷幄を引いたその人間ならぬ訪客と面と面を突き合せた。恰度私が今讀者諸君に接近してゐると同じやうに密接して。そして、私は精

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神的には諸君のつい・・手近に立つてゐるのである。

 それは不思議な物の姿であつた--子供のやうな。しかも子供に似てゐると云ふよりは老人に似てゐると云つた方が可いかも知れない。(老人と云つてもたゞの老人ではない)、一種の超自然的な媒介物を通じて見られるので、だんだん眼界から遠退いて行つて、子供の躯幹にまで縮小された観を呈してゐると云つたやうな、さう云ふ老人に似てゐるのである。で、その幽靈の頸のまはりや背中を下に垂れ下がつてゐた髪の毛は、年齢とし所為せゐでもあるやうに白くなつてゐた。しかもその顔には一筋の皺もなく、皮膚は瑞々みづみづした盛りの色澤つやを持つてゐた。腕は非常に長くて筋肉が張り切つてゐた。手も同様で、竝々ならぬ把握力を持つてゐるやうに見えた。極めて繊細に造られたその脚も足も、上肢と同じく露出むきだしであつた。幽靈は純白の長衣を身に着けてゐた。そして、その腰の周りには光澤のある帶を締めてゐたが、その光澤は實に美しいものであつた。幽靈は手に生々いきいきした綠色の柊の一枝を持つてゐた。その冬らしい表徴とは妙に矛盾した、夏の花でその着物を飾つてゐた。が、その幽靈の身のまはりで一番不思議なものと云へば、その頭の頂邉てつぺんからして明煌々たる光りが噴出してゐることであつた。その光りのために前に擧げたやうなものが總て見えたのである。そして、その光りこそ疑ひもなくその幽靈が、もつと不愉快な時々には、今はその腋の下に挾んで持つてゐる大きな消燈器ひけしを帽子の代りに使用してゐる理由であつた。

 とは云へ、スクルージがだんだん落ち着いてその幽靈を見遣つた時には、これですらそれの有

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する最も不思議な性質とは云へなかつた。と云ふのは、その帶の今こゝがぴかりと光つたかと思ふと、次には他の所がぴかりと輝いたり、また今明るかつたと思ふ所が次の瞬間にはもう暗くなつたりするに伴れて、同じやうに幽靈の姿それ自體も、今一本腕の化物になつたかと思ふと、今度は一本脚になり、又二十本脚になり、又頭のない二本脚になり、又胴體のない頭だけになると云ふやうに、その瞭然はつきりした部分が始終搖れ動いてゐた。で、それ等の消えて行く部分は濃い暗闇の中に溶け込んでしまつて、その中に在つては輪廓一つ見えなかつたものだ。そして、それを不思議だと思つてゐるうちに、幽靈は再び元の姿になるのであつた、元のやうに瞭然はつきりとして鮮明な元の姿に。

 「貴方があのお出での前觸れのあつた精靈でいらつしやいますか」と、スクルージは訊ねた。

 「左様!」

 その聲は靜かで優しかつた。彼の側にこれ程近く寄つてゐるのではなく、ずつと觸れてでもゐるやうに、變梃に低かつた。

 「何誰どなたで、又どういふ方でいらつしやいますか」と、スクルージは問ひ詰めた。

 「私は過去の聖降誕祭の幽靈だよ。」

 「ずつと古い過去のですか」と、スクルージはその侏儒のやうな身丈せい恰好かつこうに眼を留めながら訊いた。

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「いや、お前さんの過去だよ。」

  たとい誰かが訊ねたとしても、恐らくスクルージはその理由を語ることが出來なかつたらう。が、彼はどう云ふものか、その精靈に帽子を被せて見たいものだと云ふ特別な望みを抱いた。で、それを被るやうに相手に賴んだ。

 「何!」と幽靈は叫んだ、「お前さんはもう俗世界の手で、私の與える光明を消さうと思ふのか。俗衆の我慾がこの帽子を拵へて、長の年月の間にずつと私を強ひて無理に額眉深にそれを被らせて來たものだ。お前さんもその一人だが、それだけでもう澤山ぢやないかね。」

 スクルージは、決して腹を立てさせるつもりではなかつた、又自分の一生の中何時いつの時代にも故意に精靈を侮辱した覺えなぞはないと、恭々うやうやしげに辯解した。それから彼は思ひ切つて、何用あつて此處へはやつて來たのかと訊ねた。

 「お前さんの安寧のためにだよ」と、幽靈は云つた。

 スクルージはそれは大變に有難う御座いますと禮を述べた。併し一晩邪魔されずに休息した方が、それにはもつと利き目があつたらうと考へずにはゐられなかつた。精靈は彼がさう考へてゐるのを見て取つたに違ひない。と云ふのは、すぐにかう云つたからである。

 「ぢやお前さんの濟度のためだよ。さあいゝか!」

 こう云ひながら、幽靈はその頑丈な手を差し伸べて、彼の腕をそつと掴まへた。

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「さあ立て! 一緒に歩くんだよ。」

 天氣と時刻とが徒歩の目的に適してゐないと云つた處で、寝床が温かで、寒暖計はずつと氷點以下に降つてゐると抗辯した處で、自分は僅かに上靴と寝間着と夜帽しか着けてゐないのだと抗言あらがつて見た處で、又當時自分は風邪を引いてゐると爭つた處で、そんな事はスクルージに取つては何の役にも立たなかつたらう。婦人の手のやうに優しくはあつたが、その把握には抵抗すべからざるものがあつた。彼は立ち上がつた。が、精靈が窓の方へ歩み寄るのを見て、彼はその上衣に縋り着いて哀願した。

 「私は生身の人間で御座います」と、スクルージは異議を申立てゐた、「ですから落ちてしまひますよ。」

 「そこへ一寸私の手を當てさせろ」と幽靈はスクルージの胸に手を載せながら云つた。「さうすれば、お前さんはこんな事位でない、もつと危險な場合にも支へて貰はれるんだよ。」

 かう云つてゐるうちに、彼等は壁を突き拔けて、左右に畠の廣々とした田舎道に立つた。倫敦の町はすつかり消えてなくなつた。その痕跡すら見られなかつた。暗闇も霧もそれと共に消えてしまつた。それは地上に雪の積つてゐる、晴れた、冷い、冬の日であつた。

 「これは驚いた!」と、スクルージは自分の周圍を見廻して、兩手を固く握り合せながら云つた。「私は此處で生れたのだ。子供の時には此處で育つたのだ!」

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 精靈は穩かに彼を見詰めてゐた。精靈が優しく觸つたのは、輕くてほん・・の瞬間的のものではあつたが、この老人の觸覺には尚まざまざと殘つてゐるやうに思はれた。彼は空中に漂うてゐる様々な香氣に氣が附いた。そして、その香りの一つ一つが、長い長い間忘れられてゐた、様々な考へや希望や、喜びや、心配と結び着いてゐた。

 「お前さんの脣は慄へてゐるね」と、幽靈は云つた。「それにお前さんの頬の上のそれは何だね。」

 スクルージは平生に似合はず聲を吃らせながら、これは面瘡にきびだと呟いた。そして、何處へなりと連れて行つて下さいと幽靈に賴んだ。

 「お前さん此の道を覺えてゐるかね?」と、精靈は訊ねた。

 「覺えてゐますとも!」と、スクルージは勢ひ込んで叫んだ、「目隱をしても歩けますよ。」

 「あんなに長い年月それを忘れてゐたと云ふのは、どうも不思議だね!」と、幽靈は云うた。「さあ行かうよ。」

 二人はその往還に沿うて歩いて行つた。スクルージには、目に當る程の門も、柱も、木も一々見覺えがあつた。かうして歩いて行くうちに、遙か彼方に橋だの、教會だの、曲りくねつた河だののある小さな田舎町が見え出した。折柄二三頭の毛むくぢやらの小馬が、その背に男の子達を乘せて、二人の方へ驅けて來るのが見えた。その子供達は、百姓の手に馭された田舎馬車や荷馬車

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に乘つかつてゐる他の子供達に聲を掛けてゐた。これ等の子供達は皆上機嫌で、互にきやつきやつと聲を立てゝ喚び合つた。で、仕舞には淸々すがすがしい冬の空氣までそれを聞いて笑ひ出した程、廣い田野が一面に嬉しげな音樂で滿たされた位であつた。

 「これはたゞ昔あつたものの影に過ぎないのだ」と、幽靈は云つた。「だから彼等には私達のことは分らないよ。」

 陽氣な旅人どもは近づいて來た。で、彼等が近づいた時、スクルージは一々彼等を見覺えてゐて、その名前を擧げた。どうして彼は彼等に會つたのをあんなに法外に悅んだのか。彼等が通り過ぎてしまつた時、何だつて彼の冷やかな眼に涙が燦めいたのか、彼の心臓は躍り上つたのか。各自の家路に向つて歸るとて、十字路や間道で別れるに際して、彼等がお互ひに聖降誕祭お目出たうと言ひ交はすのを聞いた時、何だつて彼の胸に嬉しさが込み上げて來たか。一體スクルージに取つて聖降誕祭が何だ? 聖降誕祭お目出たうがちやんちやら可笑しいやい! 今迄聖降誕祭が何か役に立つたことがあるかい。

 「學校はまだすつかり退けてはゐないよ」と、幽靈は云つた。「友達に置いてけぼりにされた、獨りぼつちの子がまだ其處に殘つてゐるよ。」

 スクルージはその子を知つてゐると云つた。そして、彼は啜り泣きを始めた。

 彼等はよく覺えてゐる小路を取つて、大通りを離れた。すると、間もなく屋根の上に風信機を

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頂いた小さな圓頂閣のある、そして、その圓頂閣に鐘の下がつてゐる、どす赤い煉瓦の館へ近づいて行つた。それは大きな家であつたが、又零落した家でもあつた。廣々とした臺所も殆ど使はれないで、その塵は濕つて苔蒸してゐた、窓も毀れてゐた、門も立ち腐れになつてゐた。鷄はくつくつと鳴いて、厩舎の中を威張りくさつて歩いてゐた。馬車入れ小舎にも物置小舎にも草が一面に蔓つてゐた。室内も同じやうに昔の堂々たる面影を留めてはゐなかつた。陰氣な見附けの廊下に這入つて、幾つも開け放しになつた室の戸口から覗いて見ると、どの室にも碌な家具は置いてなく、冷え切つて、洞然としてゐた。空氣は土臭ひ匂ひがして、場所は寒々として何もなかつた、それがあまりに朝夙く起きて見たが、喰ふ物も何もないのと、何處か似通う處があつた。

 彼等は、幽靈とスクルージとは、見附けの廊下を横切つて、その家の背後にある戸口の所まで行つた。その戸口は二人の押すがまゝに開いて、彼等の前に長い、何にもない、陰氣な室を展げて見せた。木地のまゝの樅板の腰掛と机とが幾筋にも竝んでゐるのが、一層それをがらんがらんにして見せた。その一つに腰掛けて、一人の寂しさうな少年が微温火とろびの前で本を讀んでいた。で、スクルージは一つの腰掛に腰を下ろして、長く忘れてゐたありし昔の憐れな我が身を見て泣いた。

 家の中に潜んでゐる反響も、天井裏の二十日鼠がちゆうちゆう鳴いて取組み合ひをするのも、背後の小暗い庭にある半分氷の溶けた樋口の滴りも、元氣のない白楊の葉の落ち盡した枝の中に聞える溜息も、がら空きの倉庫の扉の時々忘れたやうにばたばたするのも、いや、煖爐の中で火の

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撥ねる音も、一としてスクルージの胸に落ちて涙ぐませるやうな影響を與へないものはなかつた、又彼の涙を一層惜し氣もなく流させないものはなかつた。

 精靈は彼の腕に手を掛けて、讀書に夢中になつてゐる若い頃の彼の姿を指さして見せた。不意に外國の衣裳を身に着けた、見る眼には吃驚する程ありありと且はつきりとした一人の男が、帶に斧を挾んで、薪を積んだ一疋の驢馬の手綱を取りながら、その窓の外側に立つた。

 「何だつて、アリ・ババぢやないか!」と、スクルージは我を忘れて叫んだ。「正直なアリ・ババの老爺さんだよ。さうだ、さうだ、私は知つてゐる! ある聖降誕祭の時節に、彼處にゐるあの獨りぼつちの子がたつた一人此處に置いてけぼりにされてゐた時、始めてあの老爺さんが恰度あゝ云ふ風をしてやつて來たのだ。可哀さうな子だな! それからあのヴアレンタインも」と、スクルージは云つた、「それからあの亂暴な弟のオルソンも。あれあれあすこへ皆で行くわ! 眠つてゐるうちに股引を穿いたまゝ、ダマスカスの門前に捨てゝ置かれたのは、何とか云ふ名前の男だつたな! 貴方にはあれが見えませんか。それから魔鬼のために逆様に立たせて置かれた帝王サルタンの馬丁は。ああ、あすこに頭を下にして立つてゐる! 好い氣味だな。僕はそれが嬉しい! 彼奴が又何の權利があつて姫君の婿にならうなぞとしたのだ!」

 スクルージが笑ふやうな泣くやうな突拍子もない聲で、こんな事に自分の眞面目な所をすつかり曝け出してゐるのを聞いたり、彼の如何にも嬉しさうな興奮した顔を見たりしようものなら、

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本當に倫敦市の商賣仲間は吃驚したことであらう。

 「あすこに鸚鵡がゐる!」と、スクルージは叫んだ。「草色の體躯に黄色い尻尾、頭の頂邉てつぺんから萵苣ちさのやうなものをやして。あすこに鸚鵡がゐるよ。可哀さうなロビン・クルーソーと、彼が小船で島を一周りして歸つて來た時、その鸚鵡は喚びかけた。『可哀さうなロビン・クルーソー、何處へ行つて來たの、ロビン・クルーソー?』クルーソーは夢を見てゐたのだと思つたが、さうぢやなかつた。鸚鵡だつた、御存じの通りに。あすこに金曜日フライデーが行く。小さな入江を目がけて命からがら驅け出して行く、しつかり! おーい! しつかり!」

 それから彼は、平生の性質とは丸で似も附かない急激な氣の變りやうで以て、昔の自分を憐れみながら、「可哀さうな子だな!」と云つた。そして、再び泣いた。

 「あゝ、あゝして遣りたかつたな」と、スクルージは袖口で眼を拭いてから、衣嚢に手を突込んで四邉を見廻はしながら呟いた。「だが。もう間に合はないよ。」

 「一體どうしたと云ふんだね?」と、精靈は訊ねた

 「何でもないんです」と、スクルージは云つた。「何でもないんです。昨宵私の家の入口で聖降誕祭の頌歌を歌つてゐた子供がありましたがね。何か遣れば可かつたとこう思つたんですよ、それだけの事です。」

 幽靈は意味ありげに微笑した。そして、「さあ、もつと他の聖降誕祭を見ようぢやないか」と

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云ひながら、その手を振つた。

 かう云ふ言葉と共に、昔のスクルージ自身の姿はずつと大きくなつた。そして、その部屋は幾分暗く、且一層汚くなつた。羽目板は縮み上つて、窓には龜裂が入つた。天井からは漆喰の破片かけらが落ちて來て、その代りに下地の木片が見えるやうになつた。併しどうしてかう云ふ事になつたかと云ふことは、讀者に分らないと同様に、スクルージにも分つてゐなかつた、たゞそれが眞個まつたくその通りであつたと云ふことは、何事も嘗てその通りに起つたのだと云ふことは、他の子供達が皆樂しい聖降誕祭の休日をするとて家へ歸つて行つたのに、此處でも又彼ひとり殘つてゐたと云ふことだけは、彼にも分つてゐた。

 彼は今や讀書してゐなかつた、落膽がつかりしたやうに往つたり來たりしてゐた。スクルージは幽靈の方を見遣つた。そして、悲しげに頭を振りながら、心配さうに戸口の方をぢろりと見遣つた。

 その戸が開いた。そして、その少年よりもずつと年下の小娘が箭を射るやうに飛び込んで來た。そして、彼の首のまわりに兩腕を捲き附けて、幾度も幾度も相手に接吻しながら、「兄さん、兄さん」と喚び掛けた。

 「ねえ兄さん、私兄さんのお迎ひに來たのよ」と、その小つぽけな手を叩いたり、身體を二つに折つて笑つたりしながら、その子は云つた。「一緒に自宅うちへ行くのよ、自宅へ! 自宅へ!」

 「自宅へだつて? フアンよ」と、少年は問い返した。

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「さうよ!」と、その子ははしやぎ切つて云つた。「歸りつ切りに自宅へ、永久に自宅へよ。阿父さんも是迄よりはずつと善くして下さるので、本當にもう自宅は天國のやうよ! この間の晩寝ようと思つたら、それはそれは優しく物を言つて下すつたから、私も氣が強くなつて、もう一度兄さんが自宅へ歸つて來てもいゝかつて訊いて見たのよ。すると、阿父さんは、あゝ、歸つて來るんだともだつて。そして、兄さんのお迎ひに來るやうに私を馬車へ乘せて下さつたのやうで、兄さんもいよいよ大人になるのね!」と、子供は眼を大きく見開きながら云つた、「そして、もう二度とは此處へ歸つて來ないのやうでも、その前に私達は聖降誕祭中一緒に居るのね。そして、世界中で一番面白い聖降誕祭をするのね。」

 「お前はもうすつかり大人だね、フアン!」と、少年は叫んだ。

 彼女は手を打つて笑つた。そして、彼の頭に觸らうとしたが、あまり小さかつたので、又笑つて爪先で立ち上りながら、やつと彼を抱擁した。それから彼女はいかにも子供らしく一生懸命に彼を戸口の方へ引つ張つて行つた。で、彼は得たり賢しと彼女に隨つて出て行つた。

 誰かが玄關で「スクルージさんの鞄を下ろして來い、そら!」と怖しい聲で呶鳴つた。そして、その廣間のうちに校長自身が現れた。校長は見るも怖ろしいやうな謙讓の態度で少年スクルージを睨め附けた。そして、彼と握手をすることに依つてすつかり彼を慄え上がらせてしまつた。それから彼は少年とその妹とを、それこそ本當に嘗てこの世に存在した最も古井戸らしい古井戸と

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云つても可いやうな寒々しい最上の客間へ連れ込んだ。其處には壁に地圖が掛けてあり、窓には天體儀と地球儀とが置いてあつたが、兩方とも寒さで臘のやうになつてゐた。此處で校長は變梃に輕い葡萄酒の容器と、變梃に重い菓子の一塊片ひとかけらとを持ち出して、若い人々にそれ等の御馳走を一人分づゝ分けて遣つた。と同時に馭者のところへも『何物か』の一杯を瘠せこけた下男に持たせてやつた。處が、馭者は、それは有難う御座いますが、この前戴いたのと同じ口のお酒でしたら、もう戴かない方が結構でと答へたものだ。少年スクルージの革鞄はその時分にはもう馬車の頂邉に括り着けられてゐたので、子供達はたゞもう心から悅んで校長に暇を告げた。そして、それに乘り込んで、菜園の中の曲路を笑ひさゞめきながら驅り去つた。廻轉の疾い車輪は、常磐木の黑ずんだ葉から水烟のやうに霜だの雪だのを蹴散らして行つた。

 「いつも脾弱ひよわな、一と吹きの風にも萎んでしまひさうな兒だつた」と、幽靈は云つた、「だが、心は大きな兒だよ!」

 「左様でした」と、スクルージは叫んだ、「仰しやる通りです。私はそれを否認しようとは思ひません、精靈どの。いやもう決して!」

 「彼女は一人前になつて死んだ」と、幽靈は云つた、「そして、子供達もあつたと思ふがね。」

 「一人です」と、スクルージは答へた。

 「いかにも、」と、幽靈は云つた。「お前さんの甥だ!」

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 スクルージは心中不安げに見えた。そして、簡單に「さうです」と答へた。

 彼等はその瞬間學校を後にして出て來たばかりなのに、今はある都會の賑やかな大通りに立つてゐた。其處には影法師のやうな往來の人が頻りに往つたり來たりしてゐた。其處には又影法師のやうな荷車や馬車が道を爭つて、あらゆる實際の都市の喧騒と雜閙とがあつた。店の飾り附けで、此處も亦聖降誕祭の季節であることは、明白に分つてゐた。但し夕方であつて、街路には燈火が點いてゐた。

 幽靈は或商店の入口に立ち停まつた。そして、スクルージにそれを知つてゐるかと訊ねた。

 「知つてゐるかですつて!」と、スクルージは答へた。「私は此處で丁稚奉公をして居たことがあるんですよ。」

 彼等は中に這入つて行つた。ウエルス人の鬘(註、老人の被る毛絲で編んだ帽子のこと)を被つた老紳士が、今二吋も自分の身丈せいが高からうものなら、屹度天井に頭を打ち附けたらうと思はれるやうな、丈の高い書机の向うに腰かけてゐるのを一目見ると、スクルージは非常に興奮して叫んだ。

 「まあ、これは老フエツジウイッグぢやないか! あゝ! フエツジウイッグが又生き返つた!」

 老フエツジウイッグは鐵筆を下に置いて、時計を見上げた。その時計は七時を指してゐた。彼は兩手を擦つた。たぶたぶした胴服チヨツキをきちんと直した。靴の先から頭の頂邉まで、身體中搖振つ

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て笑つた。そして、氣持の好ささうな、滑らかな、巾のある、肥つた、愉快さうな聲で呼び立てゐた

 「おい、ほら! エベネザア! デイック!」

 今や立派な若者になつてゐたスクルージの前身は、仲間の丁稚と一緒に、てきぱきと這入つて來た。

 「デイック・ウイルキンスです、確に!」と、スクルージは幽靈に向つて云つた。「成る程さうだ。彼處に居るわい。彼奴は私に大層懷いてゐたつけ、可哀さうに! やれ、やれ!」

 「おい、子供達よ」と、フエツジウイッグは云つた。「今夜はもう仕事なぞしないのだ。聖降誕祭だやうでック! 聖降誕祭だよ、エベネザア! さあ雨戸を閉めてしまへ」と、老フエツジウイッグは兩手を一つぴしやりと鳴らしながら叫んだ、「とつとと仕舞ふんだぞ!」

 讀者はこれ等二人の若者がどんなにそれを遣つ附けたかを話しても信じないであらう。二人は戸板を持つて往來へ突進した--一、二、三--その戸板を嵌めべき所へ嵌めた--四、五、六--戸板を嵌めて目釘で留めた--七、八、九--そして、讀者が十二迄數へ切らないうちに、競馬の馬のやうに息を切らしながら、家の中へ戻つて來た。

 「さあ來た!」と、老フエツジウイッグは吃驚するほど輕快に高い書机から跳ね降りながら叫んだ。「片附けろよ、子供達、此處に澤山の空地を作るんだよ。さあ來た、デイック! 元氣

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を出せ、エベネザア!」

 片附けろだつて! 何しろ老フエツジウイッグが見張つてゐるんだから、彼等が片附けようとしないものもなければ、片附けようとして片附ける事の出來ないものもなかつた。一分間で出來てしまつた。動かすことの出來るものは、恰度永久に公的生活から解雇されたやうに、悉く包んで片附けられてしまつた。床は掃いて水を打たれた、洋燈は心を剪られた、薪は煖爐の上に積み上げられた。かうして問屋の店は、冬の夜に誰しもかくあれかしと望むやうな、小ぢんまりした、温い、乾いた明るい舞踏室と變つた。

 一人の提琴手が手に樂譜帳を持つて這入つて來た。そして、あの高い書机の所へ上つて、それを奏樂所にした。そして、胃病患者が五十人も集つたやうに、げえげえ云ふ音を立てゝ調子を合せた。フエツジウイッグ夫人即ちでぶでぶ肥つた愛嬌の好い女が這入つて來た。三人のにこにこした可愛らしいフエツジウイッグの娘が這入つて來た。その三人に心を惱まされてゐる六人の若者が續いて這入つて來た。この店に使はれてゐる若い男や女も悉く這入つて來た。女中はその從弟の麺麭燒きの職工と一緒に這入つて來た。料理番の女はその兄さんの特別の親友だと云ふ牛乳配達と一緒に這入つて來た。道の向う側から來たと云ふ、主人からろくすつぽ喰べさせて貰はないらしい小僧も、一軒置いて隣家の、これも女主人に耳を引つ張られたと云ふことが後で分かつた女中の背後に隱れるやうにしながら這入つて來た。一人又一人と、追ひ追ひに衆皆みんなが這入つて來

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た。中には極り惡さうに這入つて來る者もあれば、威張つて這入つて來る者もあつた。すんなりと這入つて來る者もあれば、不器用に這入つて來る者もあつた。押して這入つて來る者もあれば、引張つて這入つて來る者もあつた。兎に角どうなりかうなりして悉く皆這入つて來た。忽ち彼等は二十組に分れた。室を半分廻つて、又他の道を戻つて來る、室の眞中を降りて行くかと思へば又上つて來る、仲の好い組合せの幾段階を作つてぐるぐると廻つて行く。前の先頭の組はいつも間違つた所でぐるりと曲つて行く。新たな先頭の組もそこへ到着するや否や、再び横へ逸れて行く。終ひには先頭の組ばかりになつて、彼等を助ける筈の殿の組が一つも後に續かないと云ふ始末だ。こんな結果になつた時、老フエツジウイッグは舞踏を止めさせるやうに兩手を叩きながら、大きな聲で「上出來!」と叫んだ。すると、提琴手は、特にそのために用意された、黑麥酒の大洋盃の中へ眞赧になつた顔を突込んだ。が、その盃から顔を出すと、休んでなぞ居られるものかと云はんばかりに、まだ踊子が一人も出てないのも構はず、直ぐさま又やり始めたものだ。恰度もう一人の提琴手が疲れ果てゝ戸板に載せて家へ連れ歸られたので、自分はその提琴手をすつかり負かしてしまふか、さもなければ自分が斃れるまでやり拔こうと決心した眞新しい人間でもあるやうに。

 その上にまだ舞踏があつた、又罰金遊びもあつた。そして、更に又舞踏があつた。それから菓子が出た、調合葡萄酒が出た、それから大きな一片の冷えた燒肉が出た、それから大きな一片の冷えた煮物が出た。それから肉饅頭が出た、又麥酒が澤山に出た。が、當夜第一の喚び物は燒肉

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や煮物の出た後で、提琴手が(巧者な奴ですよ、まあ聽いて下さい!--讀者や私なぞがかうしろあゝしろと命ずる迄もなく、ちやんと自分のやるべきことを心得てゐると云ふ手合ですよ!)「サー・ロージヤー・ド・カヴアリー」(註、古風な田舎踊の名、當時非常に流行したものらしく、メレデイスの「エゴイスト」の中にも出て來る)を彈き始めた時に出たのであつた。その時老フエツジウイッグはフエツジウイッグ夫人と手を携へて踊りに立ち出でた。しかも、二人に取つては誂え向きの隨分骨の折れる難曲に對して、先頭の組を勤めようと云ふのだ。二十三四組の踊手が後に續いた。いづれも隅には置けない手合ばかりだ。踊らうとばかりしてゐて、歩くなぞと云ふことは夢にも考へてゐない人達なのだ。

 が、彼等の人數が二倍あつても--おゝ、四倍あつても--老フエツジウイッグは立派に彼等の對手になれたらう、フエツジウイッグ夫人にしてもその通りだ。彼女はと云へば、相手といふ言葉のどういふ意味から云つても、彼の相手たるに應はしかつた。これでもまだ讚め足りないなら、もつと好い言葉を教へて貰ひたい、私はそれを使つて見せよう。フエツジウイッグのふくらはぎからは本當に火花が出るやうに思はれた。そのふくらはぎは踊のあらゆる部分に於て月のやうに光つてゐた。或一定の時に於て、次の瞬間にそのふくらはぎがどうなるか豫言せよと云はれても、何人にも出來なかつたに相違ない。老フエツジウイッグ夫婦が踊の全部をやり通した時--進んだり退いたり、兩方の手を相手に懸けたまゝ、お叩頭をしたり、會釋をしたり、手を取り合つてその下をくゞつたり、男の腕の下を女がくゞつたり、そして、再びその位置に返つたりして、踊の全部をやり通

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した時、フエツジウイッグは「飛び上つた」、--彼は足で瞬きをしたかと思はれた程巧者に飛び上つた。そして、蹌踉よろめきもせずに再び足で立つた。

 時計が十一時を打つた時、この内輪の舞踏會は解散した。フエツジウイッグ夫妻は入口の兩側に一人づゝ陣取つて、誰彼の差別なく男が出て行けば男、女が出て行けば女と云ふやうに、一人々々握手を交して、聖降誕祭の祝儀を述べた。二人の丁稚を除いて、總ての人が退散してしまつた時、彼等はその二人にも同じ様に挨拶した。で、かうして歡聲が消え去つてしまつた。そして、二人の少年は自分達の寝床に殘された。寝床は店の奥の帳場の下にあつた。

 この間中ずつと、スクルージは本性を失つた人のやうに振舞つてゐた。彼の心と魂とはその光景の中に入り込んで、自分の前身と一緒になつてゐた。彼は何も彼もその通りだと確信した、何も彼も想ひ出した、何も彼も享樂した。そして、何とも云はれない不思議な心の動亂を經驗した。彼の前身とデイックとの嬉しさうな顔が見えなくなつた時、始めて彼は幽靈のことを想ひ出した、幽靈が、その間ずつと頭上の光を非常にあかあかと燃え立たせながら、ぢつと自分を見詰めてゐるのに氣が附いた。

 「些細な事だね」と、幽靈は云つた、「あんな馬鹿な奴どもをあんなに有難がらせるのは。」

 「些細ですつて!」とスクルージは問ひ返した。

 精靈は二人の丁稚の云つてゐることに耳を傾けろと手眞似で合圖をした、二人は心底を吐露して

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フエツジウイッグを褒め立てゝゐるのであつた。で、彼がさうした時、幽靈は云つた。

 「だつてなあ! さうぢやないか。あの男はお前達人間の金子をほん・・の數磅費やしたばかりだ、高々三磅か四磅だらうね。それが、これ程讚められるだけの金額かね。」

 「そんな事ぢやありませんよ」と、スクルージは、相手の言葉に激せられて、彼の後身ではない、前身が饒舌しやべつてでもゐるやうに、我を忘れて饒舌つた。「精靈どの、そんな事を云つてゐるんぢやありませんよ。あの人は私どもを幸福にも又不幸にもする力を持つてゐます。私どもの務めを輕くも、又重荷にもする、樂しみにも、又苦しい勞役にもする力を持つてゐます。まああの人の力が言葉とか顔附きとかいふものに存してゐるにもせやうです、即ち〆めることも勘定することも出來ないやうな、極く些細な詰まらないものの中に存してゐるにもせやうです、それがどうしたと云ふのです? あの人の與える幸福は、それがために一身代を費やした程大したものなのですよ。」

 彼は精靈がちらと此方こちらを見たやうな氣がして、口を噤んだ。

 「どうしたのだ?」と、幽靈は訊ねた。

 「なに、別段何でもありませんよ」と、スクルージは云つた。

 「でも、何かあつたやうに思ふがね」と、幽靈は押して云つた。

 「いえ」と、スクルージは云つた。「いえ、私の番頭に今一寸一語ひとこと二語ふたこと云つてやることが出來たらとさう思つたので、それだけですよ。」

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 彼がこの希望を口に出した時に、彼の前身は洋燈の心を引つ込ませた。そして、スクルージと幽靈とは再び竝んで戸外に立つてゐた。

 「私の時間はだんだん短くなる」と、精靈は云つた。「さあ急いだ!」

 この言葉はスクルージに話し掛けられたのでもなければ、又彼の眼に見える誰に云はれたのでもなかつた。が、忽ちその效果を生じた。と云ふのは、スクルージは再び彼自身を見たのである。彼は今度は前よりも年を取つてゐた。壯年の盛りの男であつた。彼の顔には、まだ近年のやうな、嚴い硬ばつた人相は見えなかつたが、浮世の氣苦勞と貪慾の徴候は既にもう現はれ掛けてゐた。その眼には、一生懸命な、貪慾な、落ち着きのない動きがあつた。そして、それは彼の心に根を張つた慾情に就て語ると共に、だんだん成長するその木(慾情の木)の影がやがて落ちさうな場所を示してゐた。

 彼は獨りではなくて、喪服を着けた美しい娘の側に腰を掛けてゐた。その娘の眼には涙が宿つて、過去の聖降誕祭の幽靈から發する光の中にきらついてゐた。

 「それは何でもないことですわ」と、彼女は靜かに云つた。「貴方に取つちや本當に何でもないことですわ。他の可愛いものが私に取つて代つたのですもの。これから先それが、若し私が傍に居たらして上げようとしてゐた通りに、貴方を勵ましたり慰めたりしてくれることが出來れば、私がどうのかうのと云つて嘆く理由はありませんわね。」

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「どんな可愛いものがお前に取つて代つたのかね」と、彼はそれに答へて訊いた。

 「金色のもの。」

 「これが世間の公平な取扱ひだよ」と、彼は云つた。「貧乏ほど世間が辛く當たるものは他にない。それでゐて金子を作らうとする者ほど世間から手嚴しくやつ附けられるものも他にないよ。」

 「貴方はあまり世間と云ふものを怖がり過ぎますよ」と、彼女は優しく答へた。「貴方の他の希望は、さう云ふ世間のさもしい非難を受ける恐れのない身にならうと云ふ希望の中に、悉く皆呑み込まれてしまつたんですね。私は貴方のもつと高尚な向上心が一つづゝ凋落して行つて、到頭終ひに利得と云ふ一番主要な情熱が貴方の心を占領してしまふのを見て來ましたよ。さうぢやありませんか。」

 「それがどうしたと云ふのだ?」と、彼は云ひ返した。「假に私がそれだけ悧巧になつたとして、それがどうだと云ふのだ! お前に對しては變つてゐないのだよ。」

 彼女は頭を振つた。

 「變つてゐるとでも云ふのかね。」

 「私達二人の約束はもう古いものです。二人とも貧乏で、しかも二人が辛抱して稼いで、何日か二人の世間的運命を開拓する日の來る迄は、それに滿足してゐた時分に、その約束は出來たも

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のですよ。貴方は變りました。その約束をした時分は、貴方は全然別の人でしたよ。」

 「私は子供だつたのだ」と、彼はじれつたさうに云つた。

 「貴方自身のお心持に聞いて御覽になつても、以前の貴方が今の貴方でないことはお分りになりますわ」と、彼女はそれに應えて云つた。「私は元の儘です。二人の心が一つであつた時に前途の幸福を約束してくれたものも、心が離れ離れになつた今では、不幸を一杯に背負はされてゐます。私はこれ迄幾度又どんなに膽に徹へる程この事を考へて來たか、それはもう云ひますまい。私もこの事に就ては考へに考へて來ました。そして、その結果貴方との縁を切つて上げることが出來ると云ふだけで、もう十分で御座います。」

 「私がこれ迄一度でも破約を求めたことでもあるのか。」

 「口ではね。いゝえ、そりやありませんわ。」

 「ぢや、何で求めたのだ?」

 「變つた性質で、變つた心持で、全然違つた生活の雰圍氣で、その大きな目的として全然違つた希望でです。貴方の眼から見て私の愛情をいくらかでも價値あるもの、値打ちのあるものにしてゐた一切のものでです。この約束が二人の間に嘗てなかつたとしたら」と、少女は穩やかに、併しじつくりと相手を見遣りながら云つた、「貴方は今私を探し出して、私の手を求めようとなさいますか。あゝ、そんな事は迚もない!」

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 彼はこの推測の至當なのに、我にもあらず、屈服するやうに見えた。が、強いてその感情を抑へながら云つた。「お前はそんな風に思つては居ないのだよ。」

 「私も出來ることなら、そんな風に考へたくはないんですわ」と、彼女は答へた。「それはもう神様が御存じです! 私がかう云つたやうな眞相を知つた時には、(同時に)それがどんなに強く、且抵抗すべからざるものであるか、あるに違ひないかと云ふことを知つてゐるんですよ。まあ今日にしろ、明日にしろ、又昨日にしても、貴方が假りに自由の身におなんなすつたとして、持參金のない娘を貴方がお選びになるなぞと云ふことが、私に信じられませうか--その女と差向ひで話しをなさる時ですら、何も彼も慾得づくで測つて見ようと云ふ貴方がさ。それとも、一時の氣紛れから貴方がその唯一の嚮導の主義に背いてその女をお選びになつたとした處で、後では屹度後悔したり悔んだりなさるに違ひないのを、私が知らないでせうか。私はちやんと知つてゐます。そして、貴方との縁を切つて上げます--それはもう心から喜んで、昔の貴方に對する愛のためにね。」

 彼は何か云はうとした。が、彼女は相手に顔をそむけたまゝ再び言葉を續けた。

 「貴方にもこれは多少の苦痛かも知れない--これ迄の事を思ふと、何だか本當にさうあつて欲しいやうな氣もしますがね。併しそれもほん・・の僅かの間ですよ。僅かの間經てば、貴方はぢきにそんな想ひ出は、一文にもならない夢として、喜んで抛棄しておしまひになるでせうよ。まあ

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あんな夢から覺めて好かつたと云ふやうに思つてね。どうかまあ貴方のお選びになつた生活で幸福に暮して下さいませ!」

 彼女は男の前を去つた。かうして、二人は別れてしまつた。

 「精靈どの!」とスクルージは云つた、「もう見せて下さいますな! 自宅うちへ連れて行つて下さいませ。どうして貴方は私を苦しめるのが面白いのですか。」

 「もう一つ幻影まぼろしを見せて上げるのだ!」と、幽靈は叫んだ。

 「もう澤山です!」と、スクルージは叫んだ。「もう澤山です。もう見たくありません。もう見せないで下さい!」

 が、毫も容赦のない幽靈は兩腕の中に彼を羽翼締はがひじめにして、無理矢理に次に起つたことを観察させた。

 それは別の光景でもあれば別の場所でもあつた。大層廣くもなく、綺麗でもないが、住心地よく出來た部屋であつた。冬の煖爐の傍に一人の美しい若い娘が腰掛けてゐた。その娘は、自分の娘の向ひ側に、今では身綺麗な内儀になつて腰掛けてゐる彼女を見る迄は、スクルージも同一人だと信じ切つてゐた位に、前の場面に出て來たあの少女とよく似てゐた。部屋の中の物音は申分のない騒々しさであつた。と云ふのは、心に落着きのないスクルージには數え切れない程大勢の子供がゐたからであつた。あの有名な詩中(註、ウォーヅウォースの「彌生に書かれたる」と題する短詩)の羊の群とは違つて、四十人

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の子供が一人のやうに振舞ふのではなく、各一人の子供が四十人のやうに活動するのだから溜まらない。從つてその結果は信じられない程の賑やかさであつた。が、誰もそれを氣にするやうには見えない。それ處か、母親と娘とはきやつきやつと笑ひながら、それを見て非常に喜んでゐた。そして、娘の方は間もなくその遊戯に加はつたが、忽ち若い山賊どもに、それはそれは殘酷に剥ぎ取られてしまつた。私もあの山賊の一人になることが出來たら、どんな物でも呉れてやるね、屹度呉れてやるよ。とは云へ、私なら決してあんな亂暴はしないね、斷じて斷じて。世界中の富を呉れると云つても、あの綺麗に編んだ毛をむしやくしやにしたり、ぐんぐん引き解いたりはしない積りだね。それからあの貴重な小さい靴だが、神も照覽あれ! たとひ自分の生命を救ふためだと云つても、私はそれを無理に引つくるやうなことはしないね。冗談にも彼等、大膽な若い雛つ子連がやつたやうに彼女の腰に抱き着くなんてことは、私には到底出來ないことだ。そんな事をすれば、私はその罰として腰の周りに私の腕が根を生やしてしまつて、もう再び眞直に延びないものと豫期しなければならない。然も、實際を白状すると、私は堪らなく彼女の脣に觸れたかつたのだ。その脣を開かせるために、彼女に言葉を懸けて見たかつたのだ。その伏眼がちの眼と睫毛を見詰めながら、しかも顔を赧らめさせずに置きたかつたのだ。髪の毛を解いて寛く波打たせて見たかつたのだ。その一吋でも價に積もれない程貴重な記念品になるその髪の毛を。一口に云へば、私は、まあ白状するがね、このもつとも重大な子供の特權を有しながら、しかもその

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特權の價値を知つてゐる程の大人でありたかつたのだ。

 處が、今や入口の扉を叩く音が聞えた。すると、忽ち突貫がそれに續いて起つて、彼女はにこにこ笑ひながら、滅茶々々に着物を引き剥がれたまゝ、顔を火照らした騒々しい群れの眞中に挾まれて、やつと父親の出迎ひに間に合ふやうに、入口の方へ引き摺られて行つた。父親は、聖降誕祭の玩具や贈物を背負つた男を伴れて戻つて來たのである。次には叫喚と殺到、そして、何の防禦用意もない擔夫に向つて一齊に突撃が試みられた! それから椅子を梯子にして、その男の體躯に這い上りながら、衣嚢かくしに手を突き込んだり、茶色の紙包みを引奪ひつたくつたり、襟飾りに獅噛み着いたり、頸の周りに抱き着いたり、背中をぽんぽん叩いたり、抑へ切れぬ愛情で足を蹴つたりが續く! 包みが擴げられる度に、驚嘆と喜悅の叫聲でそれが迎へられた。赤ん坊が人形のフライ鍋を口に入れようとしてゐる處を捕へただの、木皿に糊づけになつてゐた玩具の七面鳥を呑み込んぢやつたらしい、どうもそれに違ひないのだと云ふやうな、怖ろしい披露! 處が、これは空騒ぎに過ぎなかつたと分つて、やれやれと云ふ大安心! 喜悅と感謝と有頂天! それがどれもこれも皆等しく筆紙に盡くし難い。で、その内にはだんだん子供達とその感動とが客間を出て、長い間かゝつて一段づゝ、階子段をやつと家の最上階まで上つて行つて、そこで寝床に這入ると、その儘鎭まつたとさへ云へば、澤山である。

 そして、今やこの家の主人公が、さも甘つたれるやうに娘を自分の方へ凭れ掛けさせながら、

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その娘やその母親と一緒に自分の爐邉に腰を卸した時、スクルージは前よりも一層注意して見守つてゐた。そして、恰度この娘と同じやうに優雅で行末の望みも多い娘が、自分を父と呼んで、己れの一生の窶れ果てゐた冬の時代に春の時候を齎してくれたかも知れないと想ひ遣つた時、彼の視覺は本當にぼんやりとうるんで來た。

 「ベルや」と、良人は微笑して妻の方へ振り向きながら云つた。「今日の午後、お前の昔馴染に出會つたよ。」

 「誰ですか。」

 「てて御覽。」

 「そんな事中てゐられるものですか。いえなに、もう分りましたよ」と、良人が笑つた時に自分も一緒になつて笑ひながら、彼女は一息に附け加えた。「スクルージさんでせう。」

 「そのスクルージさんだよ。私はあの人の事務所の窓の前を通つたのだ。處で、その窓が閉め切つてなくつて、室の中に臘燭が點火してあつたものだから、どうもあの人を見ない譯に行かなかつたのさ。あの人の組合員は病氣で死にさうだと云ふ話を聞いたがね。その室にあの人は一人で腰掛けてゐたよ--世界中に全くの一人ぼつちで、私は屹度さうだと思ふね。」

 「精靈どの!」と、スクルージは途切れ途切れの聲で云つた。「どうか他の所へ連れて行つて下さい。」

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「これ等のものがこれ迄あつた事柄の影法師だとは、私からお前さんに云つて置いたぢやないか」と、幽靈は云つた。「あれがあの通りだからと云つて、私を咎めては不可ないよ。」

 「何處かへ連れて行つて下さい!」と、スクルージは叫んだ。「私にはもう見て居られません!」

 彼は幽靈の方へ振り向ひた。そして、幽靈が、それ迄彼に見せたいろんな人の顔が妙な工合にちらちらとそこに現はれてゐるやうな顔をして、ぢつと自分を見詰めてゐるのを見て、何處までも幽靈と揉み合つた。

 「貴方も何處かへ行つて下さい! 私を連れ歸つて下さい。もう二度と私の所へ出て下さるな!」

 この爭闘の間に--幽靈の方では少しも目に見えるやうな抵抗はしないのに、敵手がいくら努力してもびくとも動じないと云ふやうな、これが爭闘と稱ばれ得るものなれば--スクルージは幽靈の頭の光が高く煌々と燃え立つてゐるのを見た。そして、幽靈の自分の上に及ぼす勢力とその光とを朧げながら結び着けて、その消化器の帽を引つ奪つて、いきなり飛びかゝつてそれを幽靈の頭の上に壓し附けた。

 精靈はその下にへちやへちやと倒れた。その結果、精靈はその全身を消化器の中に包まれてしまつた。が、スクルージは全身の力を籠めてそれを抑え附けてゐたけれども、なほその下から地面

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の上に一面の洪水となつて流れ出すその光を隱すことが出來なかつた。

 彼は自分の身が疲れ果てゝ、迚も我慢し切れない睡魔に壓倒されてゐるのを意識してゐた。それだけなら可いが、なほその上に自分の寝室の中に寝てゐることも意識してゐた。彼はその帽子に最後の一とひねりを呉れた。それと同時に彼の手が緩んだ。そして、やうやう寝床の中へ蹌け込むか込まないうちに、ぐつすり寝込んでしまつた。



第三章 第二の精靈

 素敵すてきもない大きな鼾を掻いてゐる最中に不圖眼を覺まして、頭を明瞭はつきりさせようと床の上に起き直りながら、スクルージは別段報告されんでも鐘が又一時を打つ處であるのを悟つた。ジエコブ・マアレイの媒介に依つて派遣された第二の使者と會議を開かうと云ふ特別の目的のためには、隨分際どい時に正氣に返つたものだと、彼は心の中で思つた。が、今度の幽靈はどの帷幄を引き寄せて這入つて來るだらうかと、それが氣になり出すと、どうも氣味惡い寒さを背中に覺えたので、彼は自分の手でそれ等の窓掛を殘らずわきへ片寄せた。それから又横になつて、鋭い眼を寝臺の周圍に放ちながら、ぢつと見張つてゐた。と云ふのは、彼も今度は精靈が出現するその瞬間に、こちらから戰ひを挑んでやらうと思つたからで、不意を打たれて、戰々おどおどするやうになつては耐ら

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ないと思つたからである。

 如才がないと云ふことと、常にぼんやりしてゐないと云ふことを自慢にしてゐる、磊落なこせつかない・・・・・たちの紳士と云ふものは、『か』と云ふやうな子供の遊戯から殺人罪に到るまで何でも覺悟してゐると云ふやうなことを云つて、冒險に對する自分の能力の範圍の廣大なことを表現するものである。成る程、この兩極端の間には、隨分廣大で包括的な問題の範圍がある。スクルージのためにこれ程大膽不敵な眞似は敢てしないでも、私は、彼が不思議な出現物の可なり廣い範圍に對して覺悟をしてゐたことを、赤ん坊と犀との間なら何が出て來てもそんなに彼を驚かせなかつたらうと云ふことを信じて貰ひたいと、諸君に向つて要求することを意とするものではない。

 處で、スクルージはまづ何物に對しても心構へはしてゐたやうなものゝ、無に對しては少しも覺悟が出來てゐなかつた。從つて、鐘が一時を打つて、何の姿も現はれなかつた時には、恐ろしい戰慄の發作に襲はれた。五分、十分、十五分と經つても、何一つ出て來ない。その間彼は寝臺の上に、燃え立つやうな赤い光の眞只中まつたゞなかに横になつてゐた。その光は、時計が一時を告げた時に、その寝臺の上を流れ出したものである。そして、それがたゞの光であつて、しかもそれが何を意味してゐるか、何をどうしようとしてゐるのか、薩張り見當を附けることが出來なかつたので、スクルージに取つては十二の妖怪が出たよりも一層驚駭すべきものであつた。時としては又その

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瞬間に自分が、それと知るだけの慰藉さへも持たないで、自然燃燒の興味ある實例に陥つてゐるのぢやあるまいかと、怖ろしくもあつた。が、最後に彼も考へ出した--それは讀者や著者の私なら最初に考へ附いたことなのだ。と云ふのはかういう難局に當つてはどう云ふ風にせねばならぬかと云ふことを知つて、又屹度それを實行するであらう處のものは、常に難局の中にある者ではない。當事者以外の者であるからである。--で、私は云ふ、最後に彼もこの怪しい光の本體と祕密とは隣室にあるのぢやないか、更に好くその跡を辿つて見ると、どうもその光は其處から射して來るやうだからと云ふことを考へ附いた。この考へがすつかり頭の中を占領すると、彼はそつと起き上がつて、上靴すりつぱを穿いたまゝ戸口の方へ足を引き摺りながら歩み寄つた。

 スクルージの手が錠にかゝつたその刹那、耳慣れぬ聲が彼の名を喚んで、彼に中へ這入れと命じた。彼はそれに從つた。

 それは自分の部屋であつた。それに毛頭疑ひはない。處が、それが驚くべき變化を來してゐた。四方の壁にも天井にも生々した綠葉が垂れ下がつて、純然たる森のやうに見えた。その到る處に、きらきらとした赤い果實このみが露のやうに燦めいてゐた。ひひらぎや寄生木や蔦のぱりぱりする葉が光を照り返して、さながら無數の小形の鏡が散らかしてあるやうに見えた。スクルージの時代にも、マアレイの時代にも、又幾十年と云ふ過ぎ去つた冬季の間にも、この化石したやうな冴えない煖爐がついぞ經驗したことのないやうな、それはそれは盛んな火焔が煙突の中へぼうぼうと音を立て

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て燃え上つてゐた。七面鳥、鵞鳥、獵禽、家禽、野猪肉、獸肉の大腿、仔豚、膓詰の長い卷物、刻肉饅頭ミンスパイ李入り菓子プラムプツデイング、牡蠣の樽、赤く燒けてゐる胡桃、櫻色の頬をしてゐる林檎、露氣の多い蜜柑、甘くて頬の落ちさうな梨子、非常に大きなツウエルブズ・ケーク、ポンス酒の泡立つてゐる大盃などが各自の美味おいしさうな湯氣を部屋中に漲らして、一種の玉座を形造るやうに、床の上に積み上げられてゐた。この長椅子の上に、見るも愉快な、陽氣な巨人がゆつたりと構へて坐つてゐた。彼はその形に於て豐饒の角に似ないでもない一本の燃え立つ松明を持つてゐたが、スクルージが扉のうしろから覗くやうにして這入つて來た時、その光を彼に振り掛けようとして、高くそれを差し上げた。

 「お這入り!」と、幽靈は叫んだ。「お這入り! そして、もつと好くわしを御覽よ、おい!」

 スクルージはおづおづ這入つて、この幽靈の前に頭を垂れた。彼は今や以前のやうな強情なスクルージではなかつた。で、精靈の眼は朗らかな親切らしい眼ではあつたけれども、彼は眼を上げてその眼にぶつかることを好まなかつた。

 「わしは現在の降誕祭クリスマスの幽靈ぢや」と、精靈は云つた。「わしを御覽よ。」

 スクルージはう恭々しげな態度でさうした。精靈は、白い毛皮で縁取つた、濃い綠色の簡單な長衣、若しくは外套のやうなものを身にまとうてゐた。この着物は體躯からだの上にふはりと掛けてあるばかりで、その廣やかな胸は丸出しになつてゐた。その有様は、さもそんな人工的なものを用ひ

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て包んだり護つたりするには及ばないと威張つてゐるやうであつた。上衣の深い襞の下から見えてゐるその足も、矢張り裸出むきだしであつた。又その頭には、此處彼處にぴかぴか光る氷柱つらゝの下がつてゐる柊の花冠の外に、何一つ冠つてはゐなかつた。その暗褐色の捲毛は長く且ゆるやかに垂れてゐた。恰度そのにこやかな顔、きらきらしてゐる眼、開いた手、元氣の好い聲、打ちくつろいだ態度、快げな容子と同じやうにゆるやかに。又その腰の周りには古風な刀の鞘を捲いてゐた。が、その中に中味はなかつた。而もその古い鞘は銹びてぼろぼろになつてゐた。

 「お前さんは是迄わしのやうな者を見たことがないんだね!」と、精靈は叫んだ。

 「決して御座いません」と、スクルージはそれに返辭をした。

 「わしの一家の若い連中と一緒に歩いたことがなかつたかね。若い連中と云つても、(俺はその中で一番若いんだから)この近年に生まれたわしの兄さん達のことを云つてるんだよ」と、幽靈は言葉を續けた。

 「そんな事があつたやうには覺えませんが」と、スクルージは云つた。「どうも殘念ながら一緒に歩いたことはなかつたやうで御座います。御兄弟が澤山おありですか、精靈殿?」

 「千八百人からあるね」と、幽靈は云つた。

 「恐ろしく澤山の家族ですね、喰はせて行くにも」とスクルージは口の中で呟いた。

 現在の聖降誕祭の幽靈は立ち上がつた。

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「精靈殿」と、スクルージは素直に云つた、「何處へなりともお氣の向ひた所へ連れて行つて下さいませ。昨晩は仕様事なしに隨いて行きましたが、現に今私の心にしみじみ感じてゐる教訓を學びました。今晩も、何か私に教えて下さりますのなら、どうかそれに依つて利する處のあるやうにして下さいませ。」

 「わしの上衣に觸つて御覽!」

 スクルージは云はれた通りにした。そして、しつかりそれを握つた。

 柊も、寄生樹も、赤い果實も、蔦も、七面鳥も、鵞鳥も、獵禽も、家禽も、野猪肉も、獸肉も、豚も、膓詰も、牡蠣も、パイも、プッディングも、果物も、ポンス酒も、瞬く間に悉く消え失せてしまつた。同様に部屋も煖爐も、赤々と燃え立つ焔も、夜の時間も消えてしまつて、二人は聖降誕祭の朝を都の往來に立つてゐた。街上では(寒氣が嚴しかつたので)人々は各自の住家すまひの前の舗石の上や、屋根の上から雪をこそげ落しながら、暴々しい、併し快活な、氣持ちの惡くない一種の音樂を奏してゐた。屋根の上から下の往來へばたばたと雪が落ちて來て、人工の小さな吹雪となつて散亂するのを見るのは、男の子に取つては物狂ほしい喜びであつた。

 屋根の上のなめらかな白い雪の蒲團と、地面の上の稍よごれた雪とに對照して、家の正面は可なり黑く、窓は一層黑く見えた。地上の雪の降り積つた表皮うはかはは、荷馬車や荷車の重たい車輪に鋤き返されて、深い皺を作つてゐた。その皺は、幾筋にも大通りの岐かれてゐる辻では、幾百度となく喰

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い違つた上を又喰ひ違つて、厚い黄色の泥濘や凍り附いた水の中に、どれがどうと見分けの附かない、縺れ合つた深い溝になつてゐた。空はどんよりして、極く短い街々ですら、半ばは溶け、半ばは凍つた薄汚い霧で先が見えなくなつてゐた。そして、その霧の中の重い方の分子は煤けた原子の驟雨となつて、恰も大英國中の煙突が悉く一致して火を點けて、思ふ存分心の行くまゝに烟を吐き出してでもゐるやうに降つて來た。この時候にも、又この都の中にも、大して陽氣なものは一つとしてなかつた。それでゐて、眞夏の澄み渡つた空氣だの照り輝く太陽だのがいくら骨を折つて發散しようとしても迚も覺束ないやうな陽氣な空氣が戸外に棚引いてゐた。

 と云ふのは、屋根の上でどしどし雪を掻き落してゐた人々が、屋根上の欄干から互ひに呼び合つたり、時々は道化た雪玉--これは幾多の戯談口よりも遙に性質たちの好い飛道具である--を投げ合つたり、それが旨く中つたと云つて、からからと笑つたり、又中らなかつたと云つて、同じやうにからからと笑つたりしながら、陽氣に浮かれ切つてゐたからである。鳥屋の店はまだ半分開いてゐた、果實屋の店は今日を晴れと華美を競うて照り輝いてゐた。そこには大きな、圓い、布袋腹の栗籠が幾つもあつて、陽氣な老紳士の胴衣のやうな恰好をしながら、戸口の所にぐつたりと凭れてゐるのもあれば、中氣に罹つたやうに膨れ過ぎて往來へごろごろ轉がり出してゐるのもあつた。そこには又赤々と褐色の顔をして、廣い帶を締めた西班牙種の玉葱があつて、西班牙の坊さんのやうに勢ひよく肥え太つてぴかつきながら、娘つ子が通りかゝる度に、淫奔で狡猾さ

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うな眼附きで棚の上からそつ・・と目配せしたり、吊り上げてある寄生樹を眞面目腐つた顔で見遣つたりしてゐた。(註、聖降誕祭では婦人が寄生樹の下を通ると、それに接吻してもいゝさうな。)そこには又梨子だの、林檎だのが色盛りの三色塔のやうに高く盛り上げられてゐた。そこには又葡萄の房が、店主の仁慈なさけで、通りすがりの人が無料で口に露氣を催すやうにと、人目に立つ鉤にぶら・・下げられてゐた。そこには又はしばみの實が苔が附いて褐色をして、山と積み上げられてゐた。そして、その香氣で、森の中の古い小徑や、枯れた落葉の中を踝まで没しながら足を引き摺り引き摺り愉快に歩き廻つたことを想ひ出させてゐた。そこには又肉が厚く色の黑ずんだノーフオーク産の林檎があつて、蜜柑や檸檬の黄色を引き立たせたり、その露氣の多い肉の締つた所で、早く紙袋に包んでお持ち歸りになつて、食後に召上れと切に懇願したり嘆願したりしてゐた。これ等の精選した果物の間には、金魚銀魚が鉢に入れて出してあつたが、そんな無神經な血の運りの惡い動物でも、世の中には何事か起つてゐると云ふことを感知してゐるやうに見えた。そして一尾殘らずゆつくりした情熱のない昂奮の下に彼等の小さな世界をぐるぐると喘ぎながら廻つてゐた。

 食料品屋! おゝ食料品屋! 恐らくは一二枚の雨戸を外して、自餘あとは大概締めてあつた。だが、その隙間からだけでも、こんな光景がずらりと見えるんだ! それは單に秤皿が帳場の上まで降りて來て愉快な音を立てゝゐるばかりではなかつた。又撚絲がそれを捲いてある軸からぐるぐると活發に離れて來るばかりではなかつた。又罐が手品を使つてゐるやうにからからと音を

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立てゝあちこち轉がつてゐるばかりではなかつた。又茶と珈琲の交じつた香氣が鼻に取つて誠に有難かつたり、乾葡萄が澤山あつて而も極上等に、巴旦杏が素敵に眞白で、肉桂の棒が長く且眞直で、その他の香料も非常に香ばしく、砂糖漬けの果物が、極めて冷淡な傍観者でも氣が遠くなつて、續いて苛々して來る程に、溶かした砂糖で固めたりまぶしたりされてゐるばかりでもなかつた。又それは無花果がじくじくとして和らかであつたばかりでも、又仏蘭西梅が盛に飾り立てた箱の中から程の好い酸味を持つて顔を赧めながら覗いてゐるばかりでも、又は何でも彼でも喰べるに好く、又聖降誕祭の装ひを凝らしてゐるばかりでもなかつた。それよりも寧ろお客が皆この日の嬉しい期待に氣が急いで夢中になつてゐるのであつた、そのために入口で互ひに突き當つて轉がつたり、柳の枝製の籠を亂暴に押し潰したり、帳場の上に買物を忘れて歸つたり、又それを取りに驅け戻つて來たりして、同じやうな間違ひを幾度となく極上の機嫌で繰返してゐるのであつた。同時に食料品屋の主人も店の者も、前垂を背中で締め着けてゐる磨き上げた心臓型の留め金は、一般の方々に見て頂くために、又お望みなら聖降誕祭の鴉どもに啄いて貰ふために、表側に懸けた彼等自身の心臓で御座いと云はぬばかりに開放的に且生々と働いてゐた。

 が、間もなく方々の尖塔(の鐘)は教會や禮拝堂に善男善女を呼び集めた。彼等は、晴れ着を着飾つて街一杯に群がりながら、さもさも愉快さうな顔を揃へて、ぞろぞろと出掛けて來た。すると、同時に數多の横町、小徑、名もない角々から、無數の人々が自分達の御馳走を麺麭屋の店

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へ搬びながら出て來た。これ等の貧しい人々の樂しさうな光景は、痛く精靈の御意に適つたと見えて、彼は麺麭屋の入口に、スクルージを自分の傍に惹き附けながら立つてゐた。そして、彼等が御馳走を持つて通る毎に蓋を取つて、松明からその御馳走の上に香料を振りかけてやつた。その松明が又普通の松明ではなかつた、と云ふのは、一度か二度御馳走を搬んで來た人達が互に押し合いへし・・合いして喧嘩を始めた時、彼はその松明から彼等の上に二三滴の水を振りかけてやつた。すると、彼等は忽ち元通りの好い機嫌になつたものだ。彼等はまた、何しろ聖降誕祭の日に喧嘩するなんて恥かしいこつたと云つたものだ。その通りだとも! 眞個まつたく、その通りだとも!

 その内に鐘の音は止んだ。そして、麺麭屋の店も閉ぢられた。併し何處の麺麭屋でもその竈の上の雪溶けの濡れた所には、それ等の御馳走やその料理の進行に伴ふのどかな影がほんのりと表はれてゐた。つまり其處では、どうやらその石まで料理されてゐるやうに、舗道が湯氣を立てゝゐたのである。

 「貴方が松明から振り掛けなさいますものには、何か特別の香味でも附いてゐますのですか」と、スクルージは訊ねた。

 「あるね。俺自身の香味だよ。」

 「それが今日のどんな御馳走にでもよくふので御座いますか」と、スクルージは訊ねた。

 「親切に出される御馳走なら、どんな御馳走にも適ふのぢや、貧しい御馳走には特に適ふんだ

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ね。」

 「何故貧しい御馳走に特に適ふので御座いますか。」

 「さう云ふ御馳走は別けてもそれが入用ぢやからね。」

 「精靈殿!」と、スクルージは一寸考へた後で云つた、「私どもの周圍のいろいろな世界のありとあらゆる存在の中で、(他の者なら兎に角)貴方がこれ等の人々の無邪氣な享樂の機會を奪はうとしてゐられると云ふことは、私にはどうも不思議でなりませんよ。」

 「わしが?」と、精靈は叫んだ。

 「七日目毎に貴方は彼等が御馳走を喫べる便宜を奪つておしまひになるんですよ。彼等が兎に角御馳走を喰べられるのはこの日位なものだと云はれてゐるその日にですね」と、スクルージは云つた。「さうぢやありませんかい。」

 「わしがだ!」と、精靈は叫んだ。

 「貴方は七日目毎にかう云ふ場所を閉めさせようとしておいでになるのでせう?」と、スクルージは云つた。「だから、同じ事になるんですよ。」

 「わしがさうしようと思つてるんだつて?」と、精靈は大きな聲で云つた。

 「間違つてゐたら御免下さい。ですが、貴方のお名前で、少なくとも貴方のお身内のお名前で、さう云ふ事をして居りますのです」と、スクルージは云つた。

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「お前方のこの世の中にはね」と、精靈は答へた、「わし達を知つてゐるやうな顔をしながら、情慾、驕慢、惡意、憎惡、嫉妬、頑迷、我利の行ひを俺達の名でやつてゐる者があるんだよ。しかも其奴等は、嘗て生きてゐたことがないやうに、俺達や、俺達の朋友親戚には一面識もない奴等なんだよ。これはよく記憶おぼえて置いて、彼奴等のしたことに就ては、彼奴等を責めるやうにして、俺達を咎めて貰ひたくないものだね。」

 スクルージはさうすると約束した。それから彼等は前と同じやうに姿を現はさないで、町の郊外へ入り込んで行つた。精靈が、その巨大な體躯にも係らず、どんな場所にもらくらくとその身を適應させることが出來たと云ふことは、又彼が低い屋根の下でも、どんな高荘な廣間ででも振舞ふことが可能であつたと同じやうに優雅しとやかに、その上いかにも神變不思議の生物らしく立つてゐたと云ふことは、彼の顯著な特質であつた。(そして、その特質をスクルージは既に麺麭屋の店で氣が附いてゐたのである。)

 精靈が眞直にスクルージの書記の家へ出掛けて行つたのは、恐らくこの精靈が彼のこの力を見せびらかすことに於て感ずる快樂のためか、それでなくば彼の持つて生れた親切にして慈悲深い、誠實なる性質と、總ての貧しき者に對する同情のためかであつた。何となれば、彼は實際出懸けて行つた、そして自分の着物につかまつてゐるスクルージを一緒に連れて行つた。それから戸口の敷居の上でにつこり笑つて、彼の松明から例の雫を振り掛けながら、ボブ・クラチツト(註、ボブはロバート

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の愛稱である。)の住居を祝福してやらうと立ち止まつた。考へても見よ! ボブは一週間に彼自身僅かに十五ボブ(註、一ボブは一シリングの俗稱である。)を得るばかりであつた。--彼は土曜日毎に自分の名前の僅かに十五枚を手に入れるばかりであつた。--而も現在の基督降誕祭の精靈は彼の四間よまの家を祝福してくれたのであつた。

 その時クラチツト夫人即ちクラチツトの細君は二度も裏返しをした着物で、粗末ながらにすつかり身繕ひをして、しかし廉くて、六ペンスにしては好く見えるリボンで華やかに飾り立てゝ出て來た。そして彼女は、これも亦リボンで飾り立てゝゐる二番目娘のベリンダ・クラチツトに手傳はせて、食卓布をひろげた。一方では、子息のピータア・クラチツトが馬鈴薯の鍋の中に肉叉を突込んだ。そして、恐ろしく大きな襯衣シャツ(この日の祝儀として、ボブが彼の子息にして嗣子なるピーターに授與したる私有財産)の襟の兩端を自分の口中に啣へながら、我ながらいかにも華々しくめかし込んだのに嬉しくなつて、流行兒の集まる公園に出懸けて自分の下着を見せたくて堪らなかつた。さて、二人の一層小さいクラチツト達、即ち男の兒と女の兒とは、麺麭屋の戸外で鵞鳥の匂ひを嗅いだが、それが自分達のだと分つたと云つて、きやあきやあ叫びながら躍り込んで來た。そして、これ等の小クラチツト達はサルビヤだの葱だのと贅澤な考へに耽りながら、食卓の周圍を躍り廻つて、ピータア・クラチツト君を口を極めて褒めそやした。その間に彼は(襯衣の襟が咽喉を締めさうになつてゐたが、別段自慢もしないで)のろのろした馬鈴薯が漸く煮え

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くり返りながら、取り出して皮を剥いてくれと、大きな音を立てゝ鍋の蓋を叩き出すまで、火を吹き熾してゐた。

 「それはさうと、お前達の大切だいじの阿父さんはどうしたんだらうね?」と、クラチツト夫人は云つた。「それからお前達の弟のちび・・のティムもだよ! それからマーサも去年の基督降誕祭には約三十分も前に歸つて來てゐたのにねえ。」

 「マーサが來ましたよ、阿母さん!」と云ひながら、一人の娘がそこに現はれた。

 「マーサが來ましたよ、阿母さん!」と、二人の小クラチツトどもは叫んだ。「萬歳! こんな鵞鳥があるよ、マーサ!」

 「まあ、どうしたと云ふんだね、マーサや、隨分遲かつたねえ!」と云ひながら、クラチツト夫人は幾度も彼女に接吻したり、彼是と世話を燒きたがつて、相手のシォールだの帽子だのを代つて取つて遣つたりした。

 「昨夜ゆうべのうちに仕上げなければならない仕事が澤山あつたのよ」と、娘は答へた、「そして、今朝は又お掃除をしなければならなかつたのでねえ、阿母さん!」

 「あゝあゝ、來たからにはもう何も云ふことはないんだよ」と、クラチツト夫人は云つた。「煖爐の前に腰をお掛けよ。そして、先づお煖まりな。本當に好かつたねえ。」

 「いけない、いけない、阿父さんが歸つていらつしやる處だ」と、何處へでもでしやばり・・・・・たが

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る二人の小さいクラチツトどもは呶鳴つた。「お隱れよ、マーサ、お隱れよ。」

 マーサは云はれるまゝに隱れた。阿父さんの小ボブは襟卷を、ふさを除いて少くとも三尺はだらりと下げて、時節柄見好いやうに繼ぎを當てたり、ブラシを掛けたりした、擦り切れた服を身に着けてゐた。そして、ちび・・のティムを肩車に載せて這入つて來た。可哀さうなちび・・のティムよ、彼は小さな撞木杖を突いて、鐵の枠で兩脚を支へてゐた。

 「えゝ、マーサは何處に居るのか」と、ボブ・クラチツトは四邉あたりを見廻しながら叫んだ。

 「まだ來ませんよ」と、クラチツト夫人は云つた。

 「まだ來ない!」と、ボブは今迄元氣であつたのが急に落膽がつかりして云つた。實際、彼は教會から歸る途すがら、ずつとティムの種馬になつて、ぴよんぴよん跳ねながら歸つて來たのであつた。「基督降誕祭だと云ふのにまだ來ないつて!」

 マーサは、たとひ冗談にもせよ、父親が失望してゐるのを見たくなかつた。で、まだ早いのに押入れの戸の蔭から出て來た。そして、彼の兩腕の中に走り寄つた。その間二人の小クラチツトどもはちび・・のティムをぐいぐい引つ張つて、鍋の中でぐつぐつ煮えてゐる肉饅頭の歌を聞かせてやらうと臺所へ連れて行つた。

 「で、ティムはどんな風でした?」とクラチツト夫人は、先づボブが輕々しく人の云ふことを本氣にするのを冷かし、ボブは又思ふ存分娘を抱き締めた後で、こう訊ねた。

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「黄金のやうに上等だつた」と、ボブは云つた。「もつと善かつたよ。あんなに永く一人で腰掛けてゐたもので、どうやらかう考へ込んでしまつたんだね。そして、誰も今迄聞いたこともないやうな不思議な事を考へてゐるんだよ。歸り途で、私にかう云ふんだ、教會の中で衆皆みんなが自分を見てくれゝば可いと思つた。何故なら自分は跛者だし、聖降誕祭の日に、誰が跛者の乞食を歩かせたり、盲人を見えるやうにして下さつたかと云ふことを想ひ出したら、あの人達も好い氣持だらうからとかう云ふんだよ。」

 皆にこの話をした時、ボブの聲は顫へてゐた。そして、ちび・・のティムも段々しつかりして達者になつて來たと云つた時には、一層それが顫へてゐた。

 せはしない・・・・・、小さな撞木杖の音が床の上に聞えた。そして、次の言葉がまだ云ひ出されないうちに、ちび・・のティムは彼の兄や姉に護られて、もう煖爐の傍の自分の床几に戻つて來た。その間ボブは袖口をまくり上げて--氣の毒な者よ、あんな袖口がこの上までよごれやうがあるか何ぞのやうに--ジン酒と檸檬で鉢の中に一種の熱い混合物まぜものを拵へた。そして、それをぐるぐる掻き廻してから、とろ・・火で煮るために爐側の棚の上に載せた。ピーター君と二人のちよこまか・・・・・した小クラチツトどもは鵞鳥を取りに出掛けたが、間もなくそれを持つて仰々しい行列を作つて歸つて來た。

 あらゆる鳥の中で鵞鳥を最も稀有なものと、諸君が思はれたかも知れないやうな騒ぎが續いて

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起つた。羽の生えた怪物、それに比べては、黑い白鳥も異とするに足りない--で、實際この家では鵞鳥がまづそれと同じやうなものであつた。クラチツト夫人は肉汁(前以て小さな鍋に用意して置いた)をシューシュー煮立たせた。ピータア君は殆ど信じられないやうな力で馬鈴薯を突き潰した。ベリンダ嬢はアツプル・ソースに甘味をつけた。マーサは(湯から出し立ての)熱い皿を拭いた。ボブはちび・・のティムを食卓の小さな片隅へ連れて行つて、自分の傍に腰掛けさした。二人の小クラチツトどもは衆皆みんなのために椅子を竝べた。衆皆みんなと云ふ中には勿論自分達の事も忘れはしなかつた。そして、自分の席に就て見張りをしながら、自分達のよそつて貰ふ順番が來ないうちに早く鵞鳥が欲しいなぞと我鳴り立てゝはならないと思つて、口の中一杯に匙を押込んでゐた。到頭お皿が竝べられた。食前のお祈りも濟んだ。それからクラチツト夫人が大庖丁を手に取つて、ゆるゆるとそれを一遍竝み見渡しながら、鵞鳥の胸に突き刺さうと身構へた時、一座は息を殺してぱたりと靜かになつた。が、それを突き刺した時には、そして、永い間待ち焦れてゐた詰め物がどつと迸り出た時には、食卓の周圍から喜悅の呟き聲が一齊に擧がつた。そして、ちび・・のティムでさへ二人の小クラチツトどもに勵まされて、自分の小刀の柄で食卓を叩いたり、弱々しい聲で萬歳! と叫んだりした。

 こんな鵞鳥は決して有りつこがなかつた。ボブはこんな鵞鳥がこれ迄料理されたとは思はれないなぞと云つた。その軟かさと云ひ、香氣と云ひ、大きさと云ひ、廉價なことと云ひ、皆一同の

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嘆稱の題目であつた。アツプル・ソースと潰した馬鈴薯とで補へば、家中殘らずで喰べるに十分の御馳走であつた。眞個まつたくクラチツト夫人が、(皿の上に殘つた小さな骨の破片をつくづく見遣りながら、)さも嬉しさうに云つた通り、彼等はたうとうそれを喰べ切れなかつたのだ! それでも各自は滿腹した、別けても小さい者達は眼の上までサルビヤや葱に漬かつてゐた。處が、今度はベリンダ嬢が皿を取り換へたので、クラチツト夫人は肉饅頭を取り上げて持つて來ようと、獨りでその部屋を出て行つた--肉饅頭を取り出す處を他の者に見られることなぞ迚も我慢が出來なかつた程、彼女は神經質になつてゐたのである。

 假りにそれが十分火が通つてゐなかつたとしたら! 取り出す際に、それが壊れでもしたら! 假りに又一同の者が鵞鳥に夢中になつてゐた間に、何人かが裏庭の塀を乘り踰えて、それを盗んで行つたとしたら--想像しただけで、二人の小クラチツトどもが蒼白になつてしまつたやうな假定である。あらゆる種類の恐怖が想像された。

 やッ! 素晴らしい湯氣だ! 肉饅頭は鍋から取り出された。洗濯日のやうな臭ひがする! それは布片であつた。互に隣り合せた料理屋とカステラ屋の又その隣りに洗濯屋がくつついてゐるやうな臭ひだ! それが肉饅頭であつた! 一分と經たないうちに、クラチツト夫人は這入つて來た--眞赧になつて、が、得意氣ににこにこ笑ひながら--火の點いた四半パイントの半分のブランデイでぽつぽと燃え立つてゐる、そして、その頂邉には聖降誕祭の柊を突き刺して飾り

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立てた、斑入ふいりの砲彈のやうに、いかにも硬く且しつかりした肉饅頭を持つて這入つて來た。

 おゝ、素敵な肉饅頭だ! ボブ・クラチツトは、しかも落着き拂つて、自分はそれを結婚以來クラチツト夫人が遣り遂げた成功の最も大なるものと思ふ旨を述べた。クラチツト夫人は、心の重荷が降りた今では、自分は實は粉の分量に就て懸念を抱いてゐたことを打ち明けようと思ふとも云つた。各自それに就て何とか彼とか云つた。が、何人もそれが大人數の家庭に取つては、どう見ても小さな肉饅頭であるなぞと云ふものもなければ、さう考へるものもなかつた。そんな事を云はうものなら、それこそ頭から異端である。クラチツトの家の者で、そんな事を暗示して顔を赧らめないやうな者は一人だつてなかつたらう。

 たうとう御馳走がすつかり濟んだ、食卓布は綺麗に片附けられた。煖爐も掃除されて、火が焚きつけられた。壺の調合物は味見をしたところ、申分なしとあつて、林檎と蜜柑が食卓の上に、十能に一杯の栗が火の上に載せられた。それからクラチツトの家族一同は、ボブ・クラチツトの所謂團欒(圓周)、實は半圓のことであるが、それを成して、煖爐の周圍に集つた。そして、ボブ・クラチツトの肱の傍には家中の硝子器と云ふ硝子器が飾り立てられた--即ち水飲みのコツプ二個と、柄のないカスタード用コツプ一個と。

 これ等の容器は、それでも、黄金の大盃と同様に壺から熱い物をなみなみと受け入れた。ボブは晴れ晴れしい顔附きでそれを注いでしまつた。その間火の上にかゝつた栗はジウジウ汁を出し

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たり、パチパチ音を立てゝ割れた。それからボブは發議した。--

 「さあ皆や、一同に聖降誕祭お目出たう。神様よ、私どもを祝福して下さいませ。」

 家族の者一同はそれに和した。

 「神様よ、私ども一同を祝福したまはむことを」と、皆の一番後からちび・・のティムが云つた。

 彼は阿父さんの傍にくつついて自分の小さい床几に腰掛けてゐた。ボブは彼の痩せこけた小さい手を自分の手に握つてゐた。恰もこの子が可愛くて、しつかり自分の傍に引き附けて置きたい、誰か自分の手許から引き離しやしないかと氣遣つてでもゐるやうに。

 「精靈殿!」と、スクルージは今迄に覺えのない興味を感じながら云つた。「ちび・・のティムは生きて行かれるでせうか。」

 「私にはあの貧しい爐邉に空いた席と、主のない撞木杖が大切に保存されてあるのが見えるよ。これ等の幻影が未來の手で一變されないで、このまゝ殘つてゐるものとすれば、あの子は死ぬだらうね。」

 「いえ、いゝえ」と、スクルージは云つた。「おゝ、いえ、親切な精靈殿よ、あの子は助かると云つて下さい。」

 「あゝ云ふ幻影が未來の手で變へられないで、その儘殘つてゐるとすれば、俺の種族の者達はこれから先何人だれも」と、精靈は答へた、「あの子を此處に見出さないだらうよ。で、それがどう

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したと云ふのだい? あの兒が死にさうなら、いつそ死んだ方がいゝ。そして、過剰な人口を減らした方が好い。」

 スクルージは精靈が自分の言葉を引用したのを聞いて、頭を垂れた。そして、後悔と悲嘆の情に壓倒された。

 「人間よ」と、精靈は云つた、「お前の心が石なら仕方ないが、少しでも人間らしい心を持つてゐるなら、過剰とは何か、又何處にその過剰があるかを自分で見極めないうちは、あんな好くない口癖は愼んだが可いぞ。どんな人間が生くべきで、どんな人間が死ぬべきか、それをお前が決定しようと云ふのかい。天の眼から見れば、この貧しい男の伜のやうな子供が何百萬人あつても、それよりもまだお前の方が一層下らない、一層生きる値打ちのない者かも知れないのだぞ! おゝ神よ、草葉の上の蟲けらのやうな奴が、塵芥の中に蠢いてゐる饑餓に迫つた兄弟どもの間に生命が多過ぎるなぞとほざくのを聞かうとは!」

 スクルージは精靈の非難の前に頭を垂れた。そして、顫へながら地面の上に眼を落とした。が、自分の名が呼ばれるのを聞くと、急いでその眼を擧げた。

 「スクルージさん!」と、ボブは云つた。「今日の御馳走の寄附者であるスクルージさんよ、私はあなたのために祝盃を上げます。」

 「御馳走の寄附者ですつて、本當にねえ」と、クラチツト夫人は眞赧になりながら叫んだ。

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「本當に此邉へでもあの人がやつて來て見るがいゝ、思ひさま毒づいて御馳走してやるんだのにねえ! あの人のことだから、それでも美味しがつて存分喰べることでせうよ。」

 「ねえ、お前」と、ボブは云つた。「子供達が居るぢやないか! それに聖降誕祭だよ。」

 「慥かに聖降誕祭に違ひありませんわね」と、彼女は云つた。「スクルージさんのやうな、憎らしい、けちん坊で、殘酷で、情を知らない人のために祝盃を上げてやるんですから。貴方だつてさう云ふ人だとは知つてゐるぢやありませんか、ロバート。いゝえ、何人だつて貴方程よくそれを知つてゐる者はありませんわ、可哀相に。」

 「ねえ、お前」と、ボブは穩かに返辭をした。「基督降誕祭だよ。」

 「私も貴方のために、又今日の好い日のためにあの人の健康を祝ひませうよ」とクラチツト夫人は云つた。「あの人のためぢやないんですよ。彼に壽命長かれ! 聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う、あの人は嘸愉快で幸福でせうよ、屹度ねえ。」

 子供達は彼女に倣つて祝盃を擧げた。彼等のやつたことに眞實が籠つてゐなかつたのは、これが始めてであつた。ちび・・のティムも一番後から祝盃を擧げた。が、彼は少しもそれに氣を留めてゐなかつた。スクルージは實際この一家の食人鬼であつた。彼の名前が口にされてからと云ふもの、一座の上に暗い陰影が投げられた。そして、それはまる五分間も消えずに殘つてゐた。

 その影が消えてしまふと、彼等はスクルージと云ふ毒蟲の片が附いたと云ふ單なる安心からし

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て、前よりは十倍も元氣にはしやいだ。ボブ・クラチツトはピータア君のために一つの働き口の心當りがあることや、それが獲られたら、毎週五志半入ることなどを一同の者に話して聞かせた。二人の少年クラチツトどもはピータアが實業家になるんだと云つて散々に笑つた。そして、ピータア自身は、その眩惑させるやうな収入を受取つたら、一つ何に投資してやらうかと考へ込んででもゐるやうに、カラーの間から煖爐の火を考へ深く見詰めてゐた。それから婦人小間物商のつまらない奉公人であつたマーサは、自分がどんな種類の仕事をしなければならないかとか、一氣に何時間働かなければならないかとか、明日は休日で一日自宅に居るから、明日の朝はゆつくり骨休めをするために朝寝坊をするつもりだとか云ふことを話した。又、彼女はこの間一人の伯爵夫人と一人の華族様とを見たが、その貴公子は「恰度ピータア位の身丈せい恰好かつかうであつた」とも話した。ピータアはそれを聞くと、たとひ讀者がその場に居合せたとしても、もう彼の頭を見ることは出來なかつた程、自分のカラーを高く引張り上げたものだ。その間栗と壺とは絶えずぐるぐると廻はされてゐた。やがて一同はちび・・のティムが雪の中を旅して歩く迷兒まひごのことを歌つた歌を唄ふのを聞いた。彼は悲しげな小さい聲を持つてゐた。そして、それを大層上手に唄つた。

 これには別段取り立てゝ云ふ程のことは何もなかつた。彼等は固より立派な家族ではなかつた。彼等は身綺麗にもしてゐなかつた。彼等の靴は水が入らぬどころではなかつた。彼等の衣服は乏しかつた。ピータアは質屋の内部を知つてゐたかも知れない、どうも知つてゐるらしかつた。け

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れども、彼等は幸福であつた、感謝の念に滿ちてゐた、お互に仲が好かつた、そして今日に滿足してゐた。で、彼等の姿がぼんやりと淡くなつて、しかも別れ際に精靈が例の松明から振り掛けてやつた煌々たる滴りの中に一層晴れやかに見えた時、スクルージは眼を放たず一同の者を見てゐた、特にちび・・のティムを最後まで見てゐた。

 その時分にはもう段々暗くなつて、雪が可なりひどく降つて來た。で、スクルージと精靈とが街上を歩いてゐた時、臺所や、客間や、その他あらゆる種類の室々で音を立てゝ燃え盛つてゐる煖爐の輝かしさと云つたら凄じかつた。此方では、チラチラする焔が、煖爐の前で十分に燒かれてゐる熱い御馳走の皿や、寒氣と暗黑とを閉め出すために、一たびは開いても直ぐに又引き下ろされようとしてゐる深紅色の窓掛と一緒になつて、小ぢんまりした愉快な晩餐の用意を表はしてゐた。彼方では、家中の子供達が自分達の結婚した姉だの、兄だの、從兄だの、伯父だの、叔母だのを出迎へて、自分こそ一番先に挨拶をしようと雪の中に走り出してゐた。又彼方には、皆頭巾を被つて毛皮の長靴を履いた一群の美しい娘さんが、一度にべちやくちや饒舌りながら、輕々と足を運んで、近所の家に出かけて行つた。そこへ彼等がぽつと上氣しながら這入つて來るのを見た獨身者は災禍わざはひなるかな--手管のある妖女どもよ、彼等はそれを知つてゐるのである。

 處で、讀者にして若しかく親しい集會に出掛けて行く人數から判斷したとすれば、どの家も仲間を待ち設けたり、煙突の半分迄も石炭の火を積み上げたりしてはゐないで、折角お客様が其處

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へ着いても、一人も自宅にゐて出迎へてくれる者はないだらうと思はれるかも知れない。どの家にも祝福あれや! いかに精靈は欣喜雀躍したことぞ! いかにその胸幅をき出しにして、大きな掌をひろげたことぞ! そして、手のとゞく限りあらゆる物の上に、その晴れやかで無害な快樂をその慈悲深い手で振り撒きながら、ふはふはと登つて行つたことぞ! 燈火の斑點で黄昏時の薄暗い街にポツポツ點を打ちながら驅けて行く點燈夫ですら、今宵を何處かで過すために好い着物に代へてゐたが、その點燈夫ですら精靈が通りかゝつた時には聲を立てゝ笑つたものだ--聖降誕祭の外に自分の伴侶があらうとは夢にも知らなかつたけれども。

 處で、今や精靈から一言の警告もなかつたのに、突然二人は冬枯れた物寂しい沼地の上に立つた。そこには巨人の埋葬地ででもあつたかのやうに、荒い石の怖ろしく大きな塊がそちこちに轉つてゐた。水は心のまゝに何處へでも流れ擴がつてゐた。いや、結氷が水を幽閉して置かなかつたら、屹度さうしてゐたであらう。苔とはりえにしだ・・・・・・と、粗い毒々しい雜草の外には何も生えてゐなかつた。西の方に低く夕陽が一筋火のやうに眞赤な線を殘して消えてしまつた。それが一瞬間荒漠たる四邉の風物の上に、陰惨な眼のやうにあかあかとぎらついてゐたが、だんだん低く、低くその眼を顰めながら、やがて眞暗な夜の濃い暗闇の中に見えなくなつてしまつた。

 「此處はどう云ふ所で御座いますか」と、スクルージは訊ねた。

 「鑛夫どもの住んでいるところだよ、彼等は地の底で働いてゐるのだ」と、精靈は返辭をした。

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「だが、彼等は俺を知つてゐるよ、御覽!」

 一軒の小屋の窓から燈火が射してゐた。そして、それを目懸けて二人は足早に進んで行つた。泥土や石の壁を突き拔けて、眞赤な火の周りに集つてゐる愉快さうな一團の人々を見附けた。非常に年を取つた爺と媼とが、その子供達や、孫達や、それから又その下の曾孫達と一緒に、祭日の晴着に美々しく飾り立てゝゐた。その爺は不毛の荒地を哮り狂ふ風の音にとかく消壓けおされがちな聲で、一同の者に聖降誕祭の歌を唄つてやつてゐた。それは彼が少年時代の極く古い歌であつた。一同の者は時々聲を和して歌つた。彼等が聲を高めると、爺さんも屹度元氣が出て聲を高めた。が、彼等が止めてしまふと、爺さんの元氣も屹度銷沈してしまつた。

 精靈は此處に停滯してはゐなかつた、スクルージをして彼の着衣に捕まらせた、そして、沼地の上を通過しながら、さて何處へ急いだか。海へではないか。さうだ、海へ。スクルージは振り返つて、自分達の背後に陸の突端を、怖ろしげな岩石が連つてゐるのを見て慄然とした。水は自分の擦り減らした恐ろしい洞窟の中に逆捲き怒號して狂奔して、この地面を下から覆さうと烈しく押し寄せてゐたが、その水の轟々たる響には彼の耳も聾ひてしまつた。

 海岸から幾浬か離れて、一年中荒れ通しに波に衝かれ揉まれてゐる物凄い暗礁の上に、ぽつつりと寂しげな燈臺が建てられてゐた。海藻の大きな堆積がその土臺石に絡まり着いて、海鳥は--海藻が水から生れたやうに、風から生れたかとも想はれるやうな--彼等がその上を掬ふやう

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にして飛んでゐる波と同じやうに、その燈臺の周圍を舞ひ上つたり、舞ひ下つたりしてゐた。

 が、こんな所でさへ、燈光の番をしてゐた二人の男が火を焚いてゐた、それが厚い石の壁に造られた風窓から物凄い海の上に一條の輝かしい光線を射出した。向ひ合せに坐つてゐた荒削りの食卓越しに、ごつごつした手を握り合せながら、彼等は火酒の盃に醉つて、お互いに聖降誕祭の祝辭を述べ合つたものだ。そして、彼等の一人、しかも年長者の方が--古い船の船首についてゐる人形が傷められ瘢痕づけられてゐるやうに、風雨のために顔中傷められ瘢痕づけられた年長者の方が、それ自身本來暴風雨はやてのやうな、頑丈な歌を唄い出した。

 再び精靈は眞黑な、絶えず持ち上げてゐる海の上を走り續けた--何處までも、何處までも--彼がスクルージに云つた處に據れば、どの海岸からも遙かに離れてゐるので、たうとう兎ある一艘の船の上に降りた。二人は舵車を手にした舵手や船首に立つてゐる見張り人や、當直をしてゐる士官達の傍に立つた。各自それぞれの配置に就てゐる彼等の姿は、いづれも暗く幽靈のやうに見えた。併しその中の誰も彼もが聖降誕祭の歌を口吟んだり、聖降誕祭らしいことを考へたり、又は低聲でありし昔の降誕祭の話を--それには早く家郷へ歸りたいと云ふ希望が自然と含まれてゐるが、その希望を加へて話したりしてゐた。そして、その船に乘つてゐる者は、起きてゐようが眠つてゐようが、善い人であらうが惡い人であらうが、誰も彼もこの日は一年中のどんな日よりも、より・・親切な言葉を他人に掛けてゐた。そして、或程度まで今日の祝ひを共に樂しん

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でゐた。そして、誰も彼も自分の心に懸けてゐる遠方の人達を想ひ遣ると共に、又その遠方の人達も自分のことを想ひ出して喜んでゐることをよく承知してゐた。

 風の呻きに耳を傾けたり、又はその深さは死の様に深遠な祕密である處の未だ知られない奈落の上に擴がつてゐる寂しい暗い闇を貫いて、何處迄も進んで行くと云ふことは、何と云ふ嚴肅なる事柄であるかと考へたりして、かうして氣を取られてゐる間に、一つの心からなる笑ひ聲を聞くと云ふことは、スクルージに取つて大きな驚愕に相違なかつた。しかも、それが自分の甥の笑ひ聲だと知ることは、そして、一つの晴れやかな、乾いた、明るい部屋の中に、自分の傍に微笑しながら立つてゐる精靈と一緒に自分自身を發見すると云ふことは、スクルージに取つて一層大いなる驚愕であつた。で、その精靈はいかにも相手が氣に適つたと云ふやうな機嫌の好さで以て、その同じ甥をぢつと眺めてゐるのであつた。

 「は! は!」と、スクルージの甥は笑つた。「は、は、は!」

 若し讀者諸君にしてこのスクルージの甥よりはもつと笑ひに於て惠まれてゐる男を知るやうな機會があつたら、そんな機會はありさうにもないが、(萬々一あつたとしたら、)私の云ひ得ることはたゞこれだけである、(曰く)私も亦その男を知りたいものだと。私にその男を紹介して下さい、私はどうかしてその人と知己になりませうよ。

 疾病や悲哀に感染がある一方に、世の中には笑ひや上機嫌ほど不可抗力的に傳染するものがな

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いと云ふことは、物事の公明にして公平なる且貴き調節である。スクルージの甥がかうして脇腹を抑へたり、頭をぐるぐる廻したり、途方もないしかつらに顔を痙攣ひきつらせたりしながら笑ひこけてゐると、スクルージの姪に當るその妻も亦彼と同様にきやつきやつ・・・・・・と心から笑つてゐた。それから一座の友達どもも決してけは取らないで、どつと閧の聲を上げて笑ひ崩れた。

 「はッ、はッ、はッ、は、は、は!」

 「あの人は聖降誕祭なんて馬鹿らしいと云ひましたよ、本當にさ」と、スクルージの甥は云つた。「あの人は又さう信じてゐるんですね。」

 「一層好くないことだわ、フレツド」と、スクルージの姪は腹立たしさうに云つた。かう云ふ婦人達は愛すべきかな、彼等は何でも中途半端にして置くと云ふことはない。毎でも大眞面目である。

 彼女は非常に美しかつた。圖拔けて美しかつた。笑靨のある、吃驚したやうな、素敵な顔をして接吻されるために造られたかと思はれるやうな--確にその通りでもあるのだが--豐かな小さい口をしてゐた。頤の邉りには、あらゆる種類の小さな可愛らしい斑點があつて、それが笑うと一緒に溶けてしまつたものだ。それからどんな可憐な少女の頭にも見られないやうな、極めて晴れやかな一對の眼を持つてゐた。引括めて云へば、彼女は氣を揉ませるなとでも云ひたいやうな女であつた。併し世話女房式な、おゝ、何處迄も世話女房式な女であつた。

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へん・・なお爺さんですよ」と、スクルージの甥は云つた。「それが本當の所でさ。そして、もつと愉快で面白い人である筈なんだが、さうは行かないんですね。ですが、あの人の惡い事には又自然ひとりでにそれだけの報いがあるでせうから、何も私が彼是あの人を惡く云ふことはありませんよ。」

 「あの方はたいへんなお金持なのでせう、ねえフレツド」と、スクルージの姪は云ひ出して見た。「少なくとも、貴方は始終私にさう仰しやいますわ。」

 「それがどうしたと云ふの?」と、スクルージの甥は云つた。「あの人の財産はあの人に取つて何の役にも立たないのだ。あの人はそれで何等の善い事もしない。それで自分の居まわりを氣持ちよくもしない。いや、あの人はそれで行く行く僕達を好くして遣らうと--はッ、は、は! さう考へるだけの滿足も持たないんだからね。」

 「私もうあの人には我慢出來ませんわ」と、スクルージの姪は云つた。スクルージの姪の姉妹も、その他の婦人達も皆同意見であると云つた。

 「いや、僕は我慢出來るよ」と、スクルージの甥は云つた。「僕はあの人が氣の毒なのだ。僕は怒らうと思つても、あの人には怒れないんだよ。あの人の可厭いやむら・・氣で誰が苦しむんだい? 何時でもあの人自身ぢやないか。たとへばさ、あの人は僕達が嫌ひだと云ふやうなことを思ひ附く。するともう、此處へ來て一緒に飯も喫べてくれようとはしない。で、その結果はどうだと云

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ふのだい? 大層な御馳走を喫べ損つたと云ふ譯でもないがね。」

 「實際、あの方は大層結構な御馳走を喰べ損つたんだと思ひますわ」と、スクルージの姪は相手を遮つた。他の人達も皆さうだと云つた。そして、彼等は今御馳走を喰べたばかりで、食卓の上に茶菓を載せたまゝ、洋燈を傍にして煖爐の周圍に集まつてゐたのであるから、十分審査官の資格を具へたものと認定されなければならなかつた。

 「成程! さう云はれゝば僕も嬉しいね」と、スクルージの甥は云つた。「だつて、僕は近頃の若い主婦達に餘り大した信用を置いてゐないのだからね。トッパー君、君はどう思ふね?」

 トッパーはスクルージの姪の姉妹達の一人に明らかに眼を着けてゐた。と云ふのは、獨身者は悲惨みじめな仲間外れで、さう云ふ問題に對して意見を吐く權利がないと返辭したからであつた。これを聞いて、スクルージの姪の姉妹--薔薇を挿した方ぢやなくて、レースの半襟を掛けた肥つた方が--顔を眞赧にした。

 「さあ、先を仰しやいよ、フレツド」と、スクルージの姪は兩手を敲きながら云つた。「この人は云ひ出した事を決してお終ひまで云つたことがない。本當に可笑しな人よ!」

 スクルージの甥は又夢中になつて笑ひこけた。そして、その感染を防ぐことは不可能であつたので--肥つた方の妹などは香氣のある醋酸でそれを防ごうと一生懸命にやつて見たけれども--座にある者どもは一齊に彼のお手本に倣つた。

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「僕はたゞかう云はうと思つたのさ」と、スクルージの甥は云つた。「あの人が僕達を嫌つて、僕達と一緒に愉快に遊ばない結果はね、僕が考へる處では、ちつともあの人の不利益にはならない快適な時間を失つたことになると云ふのですよ。確かにあの人は、あの黴臭ひ古事務所や、塵埃だらけの部屋の中に自分一人で考へ込んでゐたんぢや、迚も見附けられないやうな愉快な相手を失つてゐますね。あの人がかうが好くまいが、僕は毎年かう云ふ機會をあの人に與へる積りですよ。だつて僕はあの人が氣の毒で耐らないんですからね。あの人は死ぬまで聖降誕祭を罵つてゐるかも知れない。が、それに就てもつと好く考へ直さない譯にや行かないでせうよ--僕はあの人に挑戰する--僕が上機嫌で、來る年も來る年も、『伯父さん、御機嫌は如何ですか』と訪ねて行くのを見たらね。いや、あの憐れな書記に五十磅でも遺して置くやうな心持にして遣れたら、それだけでも何分かの事はあつた譯だからね。それに、僕は昨日あの人の心を顛動させて遣つたやうに思ふんだよ。」

 彼がスクルージの心を顛倒させたなぞと云ふのが可笑しいと云つて、今度は一同が笑ひ番になつた。が、彼は心の底から氣立ての好い人で、兎に角彼等が笑ひさへすれば何を笑はうと餘り氣に懸けてゐなかつたので、自分も一緒になつて笑つて一同の哄笑を勵ますやうにした。そして、愉快さうに瓶を廻はした。

 お茶が濟んでから、一同は二三の音樂をやつた。と云ふのは、彼等は音樂好きの一家であつた

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から。そして、グリーやキヤツチを唄つた時には、仲々皆手に入つたものであつた。殊にトッパーは巧妙な唄い手らしく最低音で唸つて退けたものだが、それを唄ひながら、格別前額に太い筋も立てなければ顔中眞赧になりもしなかつた。スクルージの姪は竪琴を上手に彈いた。そして、いろいろな曲を彈いた中に、一寸した小曲(ほん・・の詰らないもの、二分間で覺えてさつさと口笛で吹かれさうなもの)を彈いたが、これはスクルージが過去の聖降誕祭の精靈に依つて憶い出させて貰つた通りに、寄宿學校からスクルージを連れに歸つたあの女の子が好くやつてゐたものであつた。この一節が鳴り渡つたとき、その精靈が嘗て彼に示して呉れた凡ての事柄が殘らず彼の心に浮んで來た。彼の心はだんだん和いで來た。そして、數年前に幾度かこの曲を聽くことが出來たら、彼はジエコブ・マアレイを埋葬した寺男の鍬に賴らずして、自分自身の手で自分の幸福のために人の世の親切を培ひ得たかも知れなかつたと考へるやうになつた。

 が、彼等も專ら音樂ばかりして、その夜を過ごしはしなかつた。暫時すると、彼等は罰金遊びを始めた。と云ふのは、時には子供になるのも好い事であるからである。そして、それには、その偉大なる創立者自身が子供である處からして、聖降誕祭の時が一番好い。まあ、お待ちなさい。まづ第一には目隱し遊びがあつた。勿論あつた。私はトッパーがその靴に眼を持つてゐたと信じないと同様に眞個まつたく盲目めくらであるとは信じない。私の意見では、彼とスクルージの甥との間にはもう話は濟んでゐるらしい。そして、現在の聖降誕祭の精靈もそれを知つてゐるのである。彼がレ

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ースの半襟を掛けた肥つた方の妹を追ひ廻はした様子といふものは、誰も知らないと思つて人を馬鹿にしたものであつた。火箸や十能に突き當たつたり、椅子を引つくり返したり、洋琴に打つ突かつたり、窓帷幄に包まつて自分ながら呼吸が出來なくなつたりして、彼女の行く所へは何處へでも隨いて行つた。彼はいつでもその肥つた娘が何處に居るかを知つてゐた。彼は他の者は一人も捕へようとしなかつた。若し諸君がわざと彼に突き當りでもしようものなら(彼等の中には實際やつたものもあつた)、彼も一旦は諸君を捕まへようと骨折つてゐるやうな素振りをして見せたことであらうが、--それは諸君の理性を侮辱するものであらう、--直ぐに又その肥つた娘の方へ逸れて行つてしまつたものだ。彼女はそりや公平でないと幾度も呶鳴つた。實際それは公平でなかつた。が、到頭彼は彼女を捕まへた。そして、彼女が絹の着物をさらさらと鳴らせたり、彼を遣り過ごさうとばたばた藻掻いたりしたにも係らず、彼は逃げ場のない片隅へ彼女を追い込めてしまつた。それから後の彼の所行といふものは全く不埒千萬なものであつた。と云ふのは、彼が自分に相手の誰であるかが分からないと云ふやうな振りをしたのは、彼女の頭飾りに觸つて見なけりや分らない、いや、そればかりでなく、彼女の指に嵌めた指環だの頸の周りにつけた鎖だのを抑へて見て、やつと彼女であることを確かめる必要があるやうな振りをしたのは、卑劣とも何とも言語道斷沙汰の限りであつた。他の鬼が代つてその役に當つてゐたとき、二人は帷幄の背後で大層親密にひそひそと話しをしてゐたが、彼女はその事に對する自分の意見を聞かせた

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に違ひない。

 スクルージの姪はこの目隱し遊びの仲間には入らないで、居心地のよい片隅に大きな椅子と足臺とで樂々と休息してゐた。その片隅では精靈とスクルージとが彼女の背後に近く立つてゐた。が、彼女は罰金遊びには加はつた。そして、アルファベット二十六文字殘らずを使つて自分の愛の文章を見事に組み立てた。同じやうに又『どんなに、何時、何處で』の遊びでも彼女は偉大な力を見せた。そして、彼女の姉妹達もトッパーに云はしたら、隨分敏捷な女どもには違ひないが、その敏速な女どもを散々に負かして退けた。それを又スクルージの甥は内心喜んで見てゐたものだ。若い者年老つた者、合せて二十人位はそこに居たらうが、彼等は皆殘らずそれをやつた。そして、スクルージも亦それをやつた。と云ふのは、彼も今(自分の前に)行はれてゐることの興味に引かれて、自分の聲が彼等の耳に何等の響も持たないことをすつかり忘れて、時々大きな聲で自分の推定を口にした。そして、それが又中々好く中つたものだ。何故ならば、めど・・切れがしないと保險附きのホワイトチヤペル製の一番よく尖つた針でも、ぼんやり・・・・だと自分で思ひ込んでゐるスクルージ程鋭くはないのだから。

 かう云ふ氣分で彼がゐたのは、精靈には大層氣に適つたらしい。で、彼はお客が歸つてしまふ迄こゝに居させて貰ひたいと子供のやうにせがみ出した程、精靈は御機嫌の好い體で彼を見詰めてゐた。が、それは罷りならぬと精靈は云つた。

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「今度は新しい遊戯で御座います」と、スクルージは云つた。「半時間、精靈殿、たつた半時間!」

 それは Yes and No と云ふ遊戯であつた。その遊戯ではスクルージの甥が何か考へる役になつて、他の者達は、彼が彼等の質問に、それぞれその場合に應じて、Yes とか No とか返辭をするだけで、それが何であるかを云ひ當てることになつた。彼がその衝に當つて浴びせられた、てきぱきした質問の銃火は、彼からして一つの動物に就て考へてゐることをおびき出した。それは生きてゐる動物であつた、何方かと云へば不快いやな動物、獰猛な動物であつた、時々は唸つたり咽喉を鳴らしたりする、又時には話しもする、倫敦に住んでゐて、街も歩くが、見世物にはされてゐない、又誰かに引廻はされてゐる譯でもない、野獸苑の中に住んで居るのでもないのだ、又市場で殺されるやうなことは決してない、馬でも、驢馬でも、牝牛でも、牡牛でも、虎でも、犬でも、豚でも、猫でも、熊でもないのだ。新らしい質問が掛けられる度に、この甥は新にどつと笑ひ崩れた、長椅子から立ち上つてゆかをドンドン踏み鳴らさずに居られない程に、何とも云ひようがない程擽られて面白がつた。が、たうとう例の肥つた娘が同じやうに笑ひ崩れながら呶鳴つた。--

 「私分かりましたわ! 何だかもう知つてゐますよ、フレツド! 知つてゐますよ。」

 「ぢや何だね?」と、フレツドは叫んだ。

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「貴方の伯父さんのね、スクル----ジさん!」

 確かにその通りであつた。一同はあつ・・と感嘆これを久しうした。でも、中には「熊か」と訊いた時には、「然り」と答へられべきものであつた。「否」と否定の返辭をされては、折角その方へ氣が向き掛けてゐたとしても、スクルージ氏から他の方へ考へを轉向させるに十分であつたからねと抗議した者もあるにはあつた。

 「あの人は隨分僕達を愉快にしてくれましたね、本當によ」とフレツドは云つた。「それであの人の健康を祝つて上げないぢや不都合だよ。恰度今手許に藥味を入れた葡萄酒が一瓶あるからね。さあ、始めるよ、『スクルージ伯父さん!』」

 「宜しい! スクルージの伯父さん!」と、彼等は叫んだ。

 「あの老人がどんな人であらうが、あの人にも聖降誕祭お目出度う、新年お目出度う!」と、スクルージの甥は云つた。「あの人は僕からこれを受けようとはしないだらうが、それでもまあ差し上げませうよ、スクルージの伯父さん!」

 スクルージ伯父は人には知らないまゝで氣も心も浮々と輕くなつた。で、若し精靈が時間を與へてくれさへしたら、今の返禮として自分に氣の附かない一座のために乾盃して、誰にも聞えない言葉で彼等に感謝したことであらう。が、その全場面は、彼の甥が口にした最後の一語がまだ切れない間に掻き消されてしまつた。そして、彼と精靈とは又もや旅行の途に上つた。

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 彼等は多くを見、遠く行つた。そして、いろいろな家を訪問したが、いつも幸福な結果に終つた。精靈が病床の傍に立つと、病人は元氣になつた。異國に行けば、人々は故郷の近くにあつた。悶え苦しんでゐる人の傍に行くと、彼等は将來のより・・大きな希望を仰いで辛抱強くなつた。貧困の傍に立つと、それが富裕になつた。施療院でも、病院でも、牢獄でも、あらゆる不幸の隱棲かくれがに於て、そこでは虚榮に滿ちた人が自分の小さな果敢ない權勢を恃んで、しつかり戸を閉めて、精靈を閉め出してしまふやうなことがないからして、彼はその祝福を授けて、スクルージにその教訓を垂れたのであつた。

 これが只の一夜であつたとすれば、隨分長い夜であつた。が、スクルージはこれに就て疑ひを抱いてゐた。と云ふのは、聖降誕祭の祭日全部が自分達二人で過ごして來た時間内に壓縮されてしまつたやうに見えたからである。又不思議なことには、スクルージはその外見が依然として變らないでゐるのに、精靈は段々年を取つた、眼に見えて年を取つて行つた。スクルージはこの變化に氣が附いてゐたが、決して口に出しては云はなかつた。が、到頭子供達のために開いた十二夜會(註、聖降誕祭から十二日目の夜お別れとして行ふもの)を出た時に、二人は野外に立つてゐたので、彼は精靈を見遣りながら、その毛髪が眞白になつてゐるのに氣が附いた。

 「精靈の壽命はそんなに短いものですか?」と、スクルージは訊ねた。

 「この世に於るわしの生命は極くみじかいものさ」と、精靈は答へた。「今晩お仕舞いになる

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んだよ。」

 「今晩ですつて!」と、スクルージは叫んだ。

 「今晩の眞夜中頃だよ。お聽き! その時がもう近づいてゐるよ。」

 鐘の音はその瞬間に十一時四十五分を報じてゐた。

 「こんな事をお訊ねして、若し惡かつたら何卒勘辯して下さい」と、スクルージは精靈の着物を一心に見詰めながら云つた。「それにしても、何か變梃な、貴方のお身の一部とは思はれないやうなものが、裾から飛び出してゐるやうで御座いますね。あれは足ですが、それとも爪ですか。」

 「そりや爪かも知れないね、これでもその上に肉があるからね。」と云ふのが精靈の悲しげな返辭であつた。「これを御覽よ。」

 精靈はその着物の襞の間から、二人の子供を取り出した。哀れな、賤しげな、怖ろしい、ぞつとするやうな、悲惨みじめな者どもであつた。二人は精靈の足許に跪いて、その着物の外側に縋り着いた。

 「おい、こらッ、これを見よ! この下を見て御覽!」

 彼等は男の兒と女の兒とであつた。黄色く、瘠せこけて、ぼろぼろの服装をした、顔を蹙めた、慾が深さうな、しかも自屈謙遜して平這へたばつてゐる。のんびりした若々しさが彼等の顔をはち切れ

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るやうに肥らせて、活き活きした色でそれを染めるべきところに、老齢のそれのやうな、古ぼけた皺だらけの手がそれをつねつた・・・ひねつた・・・・りして、ずたずたに引裂いてゐた。天使が玉座に即いても可いところに、惡魔が潜んで、見る者を脅し附けながら白眼にらんでゐた。不可思議なる創造のあらゆる神祕を通じて、人類の如何なる變化も、いかなる堕落も、いかなる逆轉も、それが如何なる程度のものであつても、この半分も恐ろしい不氣味な妖怪を有しなかつた。

 スクルージはぞつとして後退あとずさりした。こんな風にして子供を見せられたので、彼は綺麗なお子さん達ですと云はうとしたが、言葉の方で、そんな大それた嘘の仲間入りをするよりはと、自分で自分を喰い留めてしまつた。

 「精靈殿、これは貴方のお子さん方ですか。」スクルージはそれ以上云ふことが出來なかつた。

 「これは人間の子供達だよ」と、精靈は二人を見下ろしながら云つた。「彼等は自分達の父親を訴へながら、俺に縋り着いてゐるのだ。この男兒は無智である。この女兒は缺乏である。彼等二人ながらに氣を附けよ、彼等の階級の凡ての者を警戒せよ。が、特にこの男の子に用心するがいゝ、この子の額には、若しまだその書いたものが消されずにあるとすれば、『滅亡』とありあり書いてあるからね。それを否定して見るがいゝ!」と、精靈は片手を町の方へ伸ばしながら叫んだ。「そして、それを教へてくれる者を謗るがいゝ。それでなければ、お前の道化た目的のためにそれを承認するがいゝ。そして、そしてそれを一層惡いものにするがいゝ! そして、その結果を

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待つてゐるがいゝ!」

 「彼等は避難所も資力も持たないのですか」と、スクルージは叫んだ。

 「監獄はないのかね」と、精靈は彼自身の云つた言葉を繰返しながら、これを最後に彼の方へ振り向いて云つた。「共同授産場はないのかな。」

 鐘は十二時を打つた。

 スクルージは周圍を見廻はしながら精靈を捜したが、見當らなかつた。最後の鐘の音が鳴り止んだ時、彼は老ジエコブ・マアレイの豫言を想ひ出した。そして、眼を擧げながら地面に沿つて霧のやうに彼の方へやつて來る、着物を着流して、頭巾を被つた嚴かな幻影を見た。



第四章 最後の精靈

 幽靈は徐々に、嚴かに、默々として近づいて來た。それが彼の傍に近く來た時、スクルージは地に膝を突いた。何故ならば、精靈は自分の動いてゐるその空氣中へ陰鬱と神祕とを振り撒いてゐるやうに思はれたからである。

 精靈は眞黑な衣に包まれてゐた。その頭も、顔も、姿もそれに隱されて、前へ差し伸べた片方の手を除いては、何にも眼に見えるものとてなかつた、この手がなかつたら、夜からその姿を見

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別けることも、それを包圍してゐる暗黑からそれを區別することも困難であつたらう。

 彼はそれが自分の傍へ來た時、その精靈の背が高く堂々としてゐることを感じた。そして、さう云ふ不可思議なものがそこに居ると云ふことのために、自分の心が一種嚴肅な畏怖の念に充されたのを感じた。それ以上は彼も知らなかつた。と云ふのは、精靈は口も利かなければ、身動きもしなかつたから。

 「私はこれから來る聖降誕祭の精靈殿のお前に居りますので?」と、スクルージは云つた。

 精靈は返辭はしないで、その手で前の方を指した。

 「貴方はこれ迄は起らなかつたが、これから先に起らうとしてゐる事柄の幻影を私に見せようとしていらつしやるので御座いますね」と、スクルージは言葉を續けた。「さうで御座いますか、精靈殿?」

 精靈が頭をかしげでもしたやうに、その衣の上の方の部分はその襞の中に一瞬間収縮した。これが彼の受けた唯一の返辭であつた。

 スクルージもこの頃はもう大分幽靈のお相手に馴れてゐたとは云へ、この押し默つた形像に對しては脚がぶるぶる顫へた程恐ろしかつた。そして、いざこれから精靈の後に隨いて出て行かうと身構へした時には、どうやら眞直まつすぐに立つてさへゐられないことを發見した。精靈も彼のこの様子に氣が附いて、少し待つて落ち着かせて遣らうとでもするやうに、一寸立ち停まつた。

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 が、スクルージはこれがために益々具合が惡くなつた。自分の方では極力眼を見張つて見ても、幽靈の片方の手と一團の大きな黑衣の塊の外に何物をも見ることが出來ないのに、あの薄黑い經帷子の背後では、幽靈の眼が自分をぢつと見詰めてゐるのだと思ふと、漠然とした、何とも知れない恐怖で身體中がぞつとした。

 「未來の精靈殿!」と、彼は叫んだ。「私は今迄お目に懸かつた幽靈の中で貴方が一番怖ろしう御座います。併し貴方の目的は私のために善い事をして下さるのだと承知して居りますので、又私も今迄の私とは違つた人間になつて生活したいと望んで居りますので、貴方のお附合をする心得で居ります、それも心から有難く思つてするので御座います。どうか私に言葉を懸けて下さいませんでせうか。」

 精靈は何とも彼に返辭をしなかつた。ただその手は自分達の前に眞直に向けられてゐた。

 「御案内下さい!」と、スクルージは云つた。「さあ御案内下さい! 夜はずんずん經つてしまひます。そして、私に取つては尊い時間で御座います。私は存じてゐます。御案内下さい、精靈殿!」

 精靈は前に彼の方へ近づいて來た時と同じやうに動き出した。スクルージはその著物の影に包まれて後に隨いて行つた。彼はその影が自分を持ち上げて、ずんずん運んで行くやうに思つた。

 二人は市内へ這入つて來たやうな氣が殆どしなかつた、と云ふのは、寧ろ市の方で二人の周圍

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に忽然湧き出して、自ら進んで二人を取り捲いたやうに思はれたからである。が、(いづれにしても)彼等は市の中心にゐた。即ち取引所に、商人どもの集つてゐる中にゐた。商人どもは忙しさうに往來したり、衣嚢の中で金子をざくざく鳴らせたり、幾群れかになつて話しをしたり、時計を眺めたり、何やら考へ込みながら自分の持つてゐる大きな黄金の刻印をいじつたりしてゐた。その他スクルージがそれ迄によく見掛たやうな、いろいろな事をしてゐた。

 精靈は實業家どもの小さな一群の傍に立つた。スクルージは例の手が彼等を指差してゐるのを見て、彼等の談話を聽かうと進み出た。

 「いや」と、恐ろしく頤の大きな肥つた大漢が云つた。「どちらにしても、それに就いちや好くは知りませんがね。たゞあの男が死んだつてことを知つてゐるだけですよ」

 「何時死んだのですか」と、もう一人の男が訊ねた。

 「昨晩だと思ひます。」

 「だつて、一體如何したと云ふのでせうな?」と、又もう一人の男が非常に大きな嗅煙草の箱から煙草をうん・・と取り出しながら訊いた。「あの男ばかりは永劫死にさうもないやうに思つてましたがね。」

 「そいつは誰にも分りませんね」と、最初の男が欠呻まじりに云つた。

 「一體あの金子は如何したのでせうね?」と、鼻の端に雄の七面鳥のえら・・のやうな瘤をぶらぶ

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ら下げた赤ら顔の紳士が云つた。

 「それも聞きませんでしたね」と、頤の大きな男がまた欠呻をしながら云つた、「恐らく同業組合の手にでも渡されるんでせうよ。(兎に角)私には遺して行きませんでしたね。私の知つてゐるのはこれつきりさ。」

 この冗談で一同はどつと笑つた。

 「極く安直あんちよくなおとむらいでせうな」と、同じ男が云つた。「何しろ會葬者があると云ふことは全然まるで聞かないからね。どうです、我々で一團體つくつて義勇兵になつては?」

 「お辨當が出るなら行つても可いがね」と、鼻の端に瘤のある紳士は云つた。「だが、その一人になるなら、喰はせるだけは喰はせて貰はなくつちやね。」

 一同また大笑ひをした。

 「ふうむ、して見ると、諸君のうちでは結局僕が一番廉潔なんだね」と、最初の話手は云つた。「僕は是迄まだ一度も黑い手嚢を嵌めたこともなければ、お葬禮の辨當を喫べたこともないからね。併し誰か行く者がありや、僕も行きますよ。考へて見れば僕は決してあの人の一番親密な友人でなかつたとは云へませんよ。途で會えば、何時でも立ち停つて話しをしたものですからね。や、いづれ又。」

 話手も聽手もぶらぶら歩き出した。そして、他の群へ混つてしまつた。スクルージはこの人達

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を知つてゐた。で、説明を求めるために精靈の方を見遣つた。

 幽靈はだんだん進んで或街の中へ滑り込んだ。幽靈の指は立ち話しをしてゐる二人の人を指した。スクルージは今の説明はこの中にあるのだらうと思つて、再び耳を傾けた。

 彼はこの人達も亦よく知り拔いてゐた。彼等は實業家であつた。大金持で、しかも非常に有力な。彼はこの人達からよく思はれようと始終心掛けてゐた。つまり商賣上の見地から見て、嚴密に商賣上の見地から見て、よく思はれようと云ふのである。

 「や、今日は?」と、一人が云つた。

 「や、今日は?」と、片方が挨拶した。

 「處で」と、最初の男が云つた。「彼奴もたうとうくたばり・・・・ましたね、あの地獄行きがさ。ええ?」

 「さうださうですね」と、相手は返辭をした。「隨分お寒いぢやありませんか、えゝ?」

 「聖降誕祭の季節なら、これが順當でせう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。」

 「いえ、いゝえ。まだ他に考へることがありますからね。左様なら!」

 この他に一語もなかつた。これがこの二人の會見で、會話で、そして別れであつた。

 最初スクルージは精靈が外見上こんな些細な會話に重きを置いてゐるのに惘れかへらうとしてゐた。が、これには何か隱れた目算があるに違ひないと氣が附いたので、それは多分何であら

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うかとつくづく考へて見た。あの會話が元の共同者なるジエコブの死に何等かの關係があらうとはどうも想像されない、と云ふのは、それは過去のことで、この精靈の領域は未來であるから。それかと云つて、自分と直接關係のある人で、あの會話の當て嵌まりさうな者は一人も考へられなかつた。併し何人にそれが當て嵌まらうとも、彼自身の改心のために何か隱れた教訓が含まれてゐることは少しも疑はれないので、彼は自分の聞いたことや見たことは一々大切に記憶えて置かうと決心した。そして、自分の影像が現はれたら、特にそれに注意しようと決心した。と云ふのは、彼の未來の姿の行状が自分の見失つた手掛りを與へてくれるだらうし、またこれ等の謎の解決を容易にしてくれるだらうと云ふ期待を持つてゐたからである。

 彼は自分の姿を求めて、その場で四邉を見廻はした、が、自分の居馴れた片隅には他の男が立つてゐた。そして、時計は自分がいつもそこに出掛けてゐる時刻を指してゐたけれども、玄關から流れ込んで來る群衆の中に自分に似寄つた影も見えなかつた。とは云へ、それはさして彼を驚かさなかつた。何しろ心の中に生活の一變を考へ廻らしてゐたし、又その變化の中では新たに生れた自分の決心が實現されるものと考へてもゐたし、望んでもゐたからである。

 靜かに黑く、精靈はその手を差し伸べたまゝ彼の傍に立つてゐた。彼が考へに沈んだ探究から眼を覺ました時、精靈の手の向き具合と自分に對するその位置から推定して、例の見えざる眼は鋭く自分を見詰めてゐるなと思つた。さう思ふと、彼はぞつと身顫ひが出て、ぞくぞく寒氣が

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して來た。

 二人はその繁劇な場面を捨てゝ、市中の餘り人にも知られない方面へ這入り込んで行つた。スクルージも兼てそこの見當も、又この好くない噂も聞いてはゐたが、今迄まだ一度も足を踏み入れたことはなかつた。その往來は不潔で狹かつた。店も住宅も見窄らしいものであつた。人々は半ば裸體で、醉拂つて、だらしなく、醜くかつた。路地や拱門路からは、それだけの數の下肥溜めがあると同じやうに、疎らに家の立つてゐる街上へ、胸の惡くなるやうな臭氣と、塵埃と、生物とを吐き出してゐた。そして、その一廓全體が罪惡と汚臭と不幸とでぷんぷん臭つてゐた。

 この如何はしい罪惡の巣窟の奥の方に、葺卸屋根の下に、軒の低い、廂の出張つた店があつて、そこでは鐵物や、古襤褸や、空壜、骨類、脂のべとべとした膓屑(わたくづ)などを買入れてゐた。内部の床の上には、銹ついた鍵だの、釘だの、鎖だの、蝶番ひだの、鑪だの、秤皿だの、分銅だの、その他あらゆる種類の鐵の廃物が山の様に積まれてあつた。何人も精査することを好まないやうな祕密が醜い襤褸の山や、腐つた脂身の塊りや、骨の墓場の中に育まれ且隱されてゐた。古煉瓦で造つた炭煖爐を傍にして、七十歳に近いかとも思はれる白髪の惡漢が自分の賣買する代物の間に坐り込んでゐた。この男は一本の綱の上に懸け渡した種々雜多な襤褸布をむさくるしい幕にして、戸外の冷たい風を防いでゐた。そして、穩やかな隱居所にぬくぬく暖まりながら、呑氣に烟草をかしてゐた。

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 スクルージと精靈とがこの男の前に來ると、恰度その時一人の女が大きな包みを持つて店の中へこそこそと這入り込んで來た。が、その女がまだ這入つたか這入り切らぬうちに、もう一人の女が同じやうに包みを抱へて這入つて來た。そして、この女のすぐ後からげた黑い服を着た一人の男が隨いて這入つた。二人の女も互に顔見合せて吃驚したものだが、この男は二人を見て同じやうに吃驚した。暫時は、煙管を喞へた老爺までが一緒になつて、ぽかんと惘れ返つてゐたが、やがて三人一緒にどつと笑ひ出した。

 「打捨うつちやつて置いても、どうせ日傭ひ女は一番に來るのだ」と、最初に這入つて來た女は叫んだ。「どうせ二番目には洗濯婆さんが來るのだ、それから三番目にはどうせ葬儀屋さんがやつて來るのさ。ちょつ・・・と、老爺さん、これが物の拍子と云ふものだよ。あゝ三人が揃ひも揃つて云ひ合せたやうにこゝで出喰はすとはねえ!」

 「お前方は一番好い場所で出會つたのさ」と、老ジヨーは口から煙管パイプを離しながら云つた。「さあ居間へ通らつしやい。お前はもうずつと以前から一々斷らないでもそこへ通られるやうになつてゐるんだ。それから自餘あとの二人も滿更知らぬ顔ではない。まあ待て、俺が店の戸を閉める迄よ。あゝ、何と云ふきしむ・・・戸だい! この店にも店自身に緊着くつついてゐるこの蝶番ひのやうに錆びた鐵つ片れは他にありやしねえよ、本當にさ。それに又俺の骨程古びた骨は此處にもないからね。はゝゝ! 俺達は皆この職業しやうばいに似合つてるさ、眞個まつたく似合ひの夫婦と云ふものだね。さあ居間へお

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這入り。さあ居間へ!」

 居間といふのは襤褸の帷幄カーテンの背後になつてゐる空間であつた。その老爺は階段の絨緞を抑へて置く古い鐵棒で火を掻き集めた。そして、持つてゐた煙管パイプ羅宇らうで燻つてゐる洋燈の心を直しながら(もう夜になつてゐたので、)再びその煙管を口へ持つて行つた。

 彼がこんな事をしてゐる間に、既にもう饒舌つたことのある女は床の上に自分の包みを抛り出して、これ見よがしの様子をしながら床几の上に腰を下ろした--兩腕を膝の上で組み合せて、他の二人を馬鹿にしたやうにしやあしやあ・・・・・・と見やりながら。

 「で、どうしたと云ふんだね! 何がどうしたと云ふんだえ、えゝディルバアのお主婦さん?」と、その女は云つた。「誰だつて自分のためを思つてする權利はあるのさ。あの人・・・なんざ始終さうだつたんだよ。」

 「そりやさうだとも、實際!」と、洗濯婆は云つた。「何人だれもあの人以上にさうしたものはないよ。」

 「ぢや、まあさう可怖おつかなさうにきよろきよろ・・・・・・立つてゐなくとも好う御座んさあね、お婆さん、誰が知つてるもんですか。それに此方こちとらだつてお互に何も弱點あらの拾ひつこをしようと云ふんぢやないでせう、さうぢやないかね。」

 「さうぢやないともさ!」と、ディルバーの主婦さんとその男とは一緒に云つた。「勿論そん

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な積りはないとも。」

 「それなら結構だよ」と、その女は呶鳴つた。「それでもう澤山なのさ。これ位僅かな物を失くしたとて、誰が困るものかね。眞逆死んだ人が困りもしないだらうしねえ。」

 「眞個まつたくさうだよ」と、ディルバーの主婦さんは笑ひながら云つた。

 「死んでからも、これが身に着けてゐたかつたら、あの因業親爺がさ」と例の女は言葉を續けた。「生きてゐる時に、何故人間並にしてゐなかつたんだい? 人間並にさへしてりや、お前、いくら死病に取り憑かれたからとて、誰かあの人の世話位する者はある筈だよ、あゝして一人ぽつちで彼處に寝たまゝ、最後の息を引き取らなくたつてねえ。」

 「眞個まつたくそりや本當の話だよ」と、ディルバーの主婦さんは云つた。「あの人に罰が當つたんだねえ」

 「もう少し酷い罰が當てゝ貰ひたかつたねえ」と、例の女は答へた。「なに、もつと他の品に手が着けられたら、大丈夫お前さん、もう少し酷い罰を當てゝ遣つたんだよ。その包みを解いておくれな、ジヨー爺さんや。そして、値段をつけて見ておくれな。なに、明白はつきりと云ふが可いのさ。私や一番先だつて構やしないし、又皆さんに見てゐられたつて別段こはかないんだよ。私達は此處で出會はさない前から、お互様に他人ひとの物をくすねてゐたことは好く承知してゐるんだからねえ。別段罪にやならないやね。さあ包みをお開けよ、ジヨー。」

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 が、二人の仲間にも侠氣があつて、仲々さうはさせて置かなかつた。禿げちよろの黑の服を着けた男が眞先驅けに砦の裂目を攀じ登つて、自分の分捕品を持ち出した。それは量高かさだかの物ではなかつた。印刻が一つ二つ、鉛筆入れが一個、袖口カフスボタンが一組、それに安物の襟留めと、これだけであつた。品物はジヨー爺さんの手で一々檢められ、値踏みされた。爺さんはそれぞれの品に對して自分がこれだけなら出してもいゝと云ふ値段を壁の上に白墨で記した。そしていよいよこれだけで、後にはもう何もないと見ると、その總額を締め合せた。

 「これがお前さんの分だよ」と、ジヨーは云つた。「釜で煮られるからと云つても、この上は六ペンスだつて出せないよ。さ、お次は誰だい?」

 ディルバーの主婦さんがその次であつた。上敷とタウエルの類、少し許りの衣裳、舊式の銀の茶匙二本、一挺の角砂糖挾み、それに長靴二三足。彼女の勘定も前と同じやうに壁の上に記された。

 「俺は婦人にはいつも餘計に出し過ぎてね。これが俺の惡い癖さ。又それがために損ばかりしてゐるのさ」と、ジヨー老爺は云つた。「これがお前さんの勘定だよ。この上一文でも増せなどと云つて、まだこれを決着しないものにする氣なら、俺は折角奮發したのを後悔して、半クラウン位差引く積りだよ。」

 「さあ、今夜は私の荷物をお解きよ、ジヨーさん。」と、最初の女が云つた。

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 ジヨーはその包みを開き好いやうに兩膝を突いて、幾つも幾つもの結び目を解いてからに、大きな重さうな卷き物になつた何だか黑つぽい布片きれを引き摺り出した。

 「こりや何だね?」と、ジヨーは云つた。「寝臺の帷幄カーテンかい。」

 「あゝ!」と、例の女は腕組みをしたまゝ、前へ屈身こごむやうにして、笑ひながら返辭をした、「寝臺の帷幄だよ。」

 「お前さんも眞逆あの人を彼處に寝かしたまゝ、環ぐるみそつくりこれを引つ外して來たと云ふ積りぢやなからうね。」と、ジョーは云つた。

 「さうだよ、さう云ふ積りなんだよ」と、その女は答へた。「だつて、いけないかね。」

 「お前さんは身代造りに生れついてゐるんだねえ」と、ジヨーは云つた。「今に屹度一身代造るよ。」

 「さうさ、私も手を伸ばすだけで何がしでもその中に握れるやうな場合に、あの爺さんのやうなあんな奴のためにその手を引つ込めるやうな、そんな遠慮はしない積りだよ、ジヨーさん、お前さんに約束して置いても可いがね」と、例の女は冷やかに返答した。「その油を毛布の上へ垂らさないやうにしておくれよ。」

 「あの人の毛布かね」と、ジヨーは訊ねた。

 「あの人のでなけりや、誰のだと云ふんだよ」と、女は答へた。「あの人も(あゝなつては)

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毛布がなくたつて風邪を引きもしまいぢやないか、本當の話がさ。」

 「眞逆傳染病で死んだんぢやあるまいね、えゝ?」と、老ジヨーは仕事の手を止めて、(相手を)見上げながら云つた。

 「そんな事はびくびくしないでも可いよ」と、女は云ひ返した。「そんな事でもありや、いくら私だつてこんな物のために何時迄も彼奴の周りをうろついてゐる程、彼奴のお相手が好きぢやないんだからね。あゝ! その襯衣シャツが見たけりや、お前さんの眼が痛くなる迄好く御覽なさいだ。だが、いくら見ても、穴一つ見附ける譯にや行かないだらうよ、擦り切れ一つだつてさ。これが彼奴の持つてゐた一番上等のだからね。又實際好い物だよ、私でもこれを手に入れなかろうものなら、他の奴等はむざむざと打捨うつちやつてしまふ處なんだよ。」

 「打捨うつちやるつてどう云ふことなんだい?」と、老ジヨーは訊ねた。

 「彼奴に着せたまゝ一緒に埋めてやるのに極まつてらあね」と、その女は笑ひながら答へた。「誰か知らんが、そんな眞似をする馬鹿野郎があつたのさ。でも、(良い按排に)私が(それを見附けて、)もう一度脱がして持つて來ちまつたんだよ。そんな目的には(キャリコで澤山さ。)キャリコで間に合はなかつたら、キャリコなんてえものは何にだつて役に立ちはしないよ。死骸には(痲の襯衣)同様しつくり似合ふものね。彼奴があの(痲の)襯衣を着てゐた時見つともなく見えたよりも、見つともなく見える筈はないよ。」

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 スクルージは慄然としながらこの對話に耳を傾けてゐた。例の老爺さんの洋燈から出る乏しい光の下に、銘々の分捕品を取り捲いて、彼等が坐つてゐた時、彼はたとひ、彼等が死骸其者を賣買する醜怪な惡鬼どもであつたとしても、よもこれより烈しくはあるまいと思はれる程の憎惡と嫌忌の情を以てそれを見やつたものだ。

 老ジヨーが錢の入つてゐるフランネルの嚢を取り出して、床の上に銘々の所得を數へ立てた時に、例の女は「はッ、はァ!」と、笑つた。「これが事の結末むすびでさあね。彼奴が生きてゐた時分は、誰でも彼でもおどかしてそばへ寄せ附けなかつたものだが、そのお蔭で死んでから私達を儲けさしてくれたよ。はッ、はッ、はァ!」

 「精靈殿!」と、スクルージは頭から足の爪先までぶるぶると顫へながら云つた。「分りました。分りました。この不幸な人間のやうに私もなるかも知れませんね。今では、私の生活もそちらの方へ向いて居ります。南無三、こりやどうしたのでせう!」

 目の前の光景が一變したので、彼はぎよつとして後へ退つた。彼は今や殆ど一つの寝床に觸れようとしてゐたのだ。帷幄も何もない露出むきだしの寝床である。その寝床の上には、ぼろぼろの敷布に蔽はれて、何物かが横はつてゐた。それは何とも物は云はないが、畏ろしい言葉でそれが何物であるかを宣言してゐた。

 この部屋は非常に暗かつた、どんな風の部屋であるか知りたいと思ふ内心の衝動に從つて、ス

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クルージはその部屋の中をぐるりと見廻はしては見たが、少しでも精密に見分けようとするには餘りに暗かつた。戸外の空中に昇りかけた(朝の太陽の)薄白い光が眞直に寝床の上に落ちた。するとその寝床の上に、何も彼も剥ぎ取られ、奪はれて、誰一人見張つてゐる者もなければ、泣いてやる者もなく、世話の仕手してもないまゝで、この男の死體が横はつてゐた。

 スクルージは精靈の方を見やつた。そのびく・・ともしない手は死體の頭部を指してゐた。覆ひ物は、一寸それを持ち上げただけでも、スクルージの方で指一本を動かしただけでも、その面部を露出しただらうと思はれる程、如何にもぞんざい・・・・に當てがはれてゐた。彼はその事について考へた。さうするのが如何にも造作ないことだと云ふことにも氣が附いた、結局さうしたいとも思つて見た。が自分の傍からこの精靈を退散させる力が自分にないと同様に、この覆ひ物をくるだけの力がどうしても彼にはなかつた。

 お、冷たい、冷たい、硬直な、怖ろしい死よ、此處に汝の祭壇をしつらへよ。そして、汝の命令のまゝになるやうな、さまざまの恐怖をもてその祭壇を装飾せよ。こは汝の領國なればなり。乍併愛されたる、尊敬せられたる、名譽づけられたる頭からは、その髪の毛一本たりとも汝の恐ろしき目的のために動かすことは出來ないし、その目鼻立ちの一つでも見苦しいものにすることは出來ない。何もそれはその手が重くて、放せば再びだらりと垂れるからではない。又その心臓も脈も靜かに動かないからではない。否、その手は生前氣前よく、鷹揚で、誠實であつたからである。

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その心は勇敢で、暖かで、優しかつたからである。そして、その脈搏は眞の人間のそれであつたからである。斬れよ、死よ、斬れよ! そして、彼の善行がその傷口から飛び出して、永遠の生命を世界中に種蒔くのを見よ!

 何等の聲がスクルージの耳にこれ等の言葉を囁いたのではない。しかも彼は寝床の上を見やつた時に、まざまざとこんな言葉を聞いた。彼は考へた、萬一この人間が今生き返ることが出來たとしたら、先ず第一に考へることはどんな事であらうかと。貪慾か、冷酷な取引か、差し込むやうな苦しい心遣ひか。かう云ふものは彼を結構な結果に導いてくれた、眞個まつたくね!

 「この人はかう云ふことで私に親切にしてくれた、あゝ云ふことで優しくしてくれた、そして、その優しい一言を忘れないために、私はこの人に親切にして上げるんだ」と云つて呉れるやうな、一人の男も、一人の女も、一人の子供も持たないで、彼は暗い空虚な家の中に寝てゐた。一疋の猫が入口の戸を引掻いてゐた、爐石の下ではがりがり噛じつてゐる鼠の音がした。これ等のものは死の部屋に在つて何を欲するのか、何をそんなに落ち着かないでそはそはしてゐるのか、スクルージは迚も考へて見るだけの勇氣がなかつた。

 「精靈殿!」と、彼は云つた。「これは恐ろしい所です。此處を離れた處で、此處で得た教訓は忘れませんよ、それだけは私の云ふことを信じて下さい。さあ參りませう!」

 處が、精靈はまだぢつと一本の指でその頭部を指してゐた。

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 「もう解りました」と、スクルージは返辭をした。「私も出來ればさうしたいのですがね。ですが、私にはそれだけの力がないのです、精靈殿。それだけの力がないのです。」

 又もや精靈は彼の方を見てゐるらしかつた。

 「この男が死んだために少しでも心を動かされたものがこの都の中にあつたら」と、スクルージはもうこの上見てはゐられないやうな氣持で云つた。「何卒その人を私に見せて下さい。精靈殿、お願ひで御座います!」

 精靈は一瞬間彼の前にその眞黑な衣を翼のやうに擴げた。そして、それを引いた時には、そこに晝間の部屋が現はれた。その部屋には、一人の母親とその子供達とが居た。

 その女は誰かを待つてゐるのであつた。それも頻りに物案じ顔に待ち侘びてゐるのであつた。と云ふのは、彼女が部屋の中を頻りに往つたり來たりして、何か音のする度に吃驚して飛び上がつたり、窓から戸外を眺めたり、柱時計を眺めたり、時には針仕事をしようとしても手に着かなかつたりした。そして、(傍で)遊んでゐる子供達の聲を平氣で聞いてゐられない程苛々してゐたからである。

 やつと待ち焦れてゐた戸を敲く音が聞えた。彼女は急いで入口に彼女の良人を迎へた。良人と云ふのは、まだ若くはあるが、氣疲れで、滅入り切つたやうな顔をした男であつた。が、今やその顔には著しい表情が現はれてゐた、自分ながら恥かしいことに思つて、抑へようと努めてはゐ

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るが、どうも壓へ切れないやうな、容易ならぬ喜びの表情であつた。

 その男は爐のはたに自分のためにとてつて置かれてあつた御馳走の前に腰を下ろした。それから彼女がどんな様子かと力なげに訊いた時に、(それも長い間沈默してゐた後で、)彼は何と返辭をしたものかと當惑してゐるやうに見えた。

 「好かつたのですか」と、彼女は相手を助けるやうに云つた。「それとも惡いのですか。」

 「惡いんだ」と、彼は答へた。

 「私達はすつかり身代限りですね?」

 「いや、まだ望みはあるんだ、キヤロラインよ。」

 「あの人の氣が折れゝば」と、彼女は意外に思つて云つた、「望みはありますわ! 萬一そんな奇蹟が起つたのなら、決して望みのない譯ではありませんよ。」

 「氣の折れる處ではないのさ」と、彼女の良人は云つた。「あの人は死んだんだよ。」

 彼女の顔つきが眞實を語つてゐるものなら、彼女は温和おとなしい我慢強い女であつた。が、彼女はそれを聞いて、心の中に有難いと思つた。そして、兩手を握つたまゝ、さうと口走つた。次の瞬間には、彼女も神の宥免を願つた。そして、(相手を)氣の毒がつた。が、最初の心持が彼女の衷心からの感情であつた。

 「昨宵お前に話したあの生醉ひの女が私に云つたことね、それ、私があの人に會つて、一週間

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の延期を賴まうとした時にさ。それを私は單に私に會ひたくない口實だと思つたんだが、それは眞個まつたく 眞實ほんとうのことだつたんだね。たゞ病氣が重いと云ふだけぢやなかつたんだ、その時はもう死にかけてゐたんだよ。」

 「それで私達の借金は誰の手に移されるんでせうね?」

 「そりや分からないよ。だが、それ迄には、こちらも金子の用意が出來るだらうよ。たとひ出來ないにしても、あの人の後嗣あとつぎが又あんな無慈悲な債權者だとすれば、餘つ程運が惡いと云ふものさ。何しろ今夜は心配なしにゆつくりと眠られるよ、キヤロライン!」

 出來るだけその心持を隱すやうにはしてゐたが、二人の心はだんだん輕くなつて行つた。子供達は解らないながらもその話を聞かうとして、鳴りを鎭めて周圍に集まつてゐたが、その顔はだんだん晴れ晴れして來た。そして、これこそこの男の死んだために幸福になつた家庭であつた。この出來事に依つて惹起された感情の中で、精靈が彼に示すことの出來た唯一のものは喜悅のそれであつた。

 「人の死に關係したことで、何か優しみのあることを見せて下さいな」と、スクルージは云つた。「でないと、今しがた出て來たあの暗い部屋がね、精靈殿、何時迄も私の眼の前にちらついてゐるでせうからね。」

 精靈は彼の平生歩き馴れた街々を通り脱けて、彼を案内して行つた。歩いて行く間に、スクル

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ージは自分の姿を見出さうと彼方此方を見廻はしたものだ。が、何処にもそれは見附からなかつた。彼等は前に訪問したことのある貧しいボブ・クラチツトの家に這入つた。すると、母親と子供達とは煖爐の周りに集まつて坐つてゐた。

 靜かであつた。非常に物靜かであつた。例の騒がしい小クラチツトどもは立像のやうに片隅にぢつとかたまつて、自分の前に一册の本を擴げてゐるピータアを見上げながら腰掛けてゐた。母親と娘達とは一生懸命に針仕事をしてゐた。が確かに彼等は非常に靜かにしてゐた。

 「『また孩子をさなごを取りて、彼等の中に立てゝ、さて‥‥』」

 スクルージはそれ迄何処でかう云ふ言葉を聞いたことがあるか。彼はそれ迄それを夢に見たこともなかつた。彼と精靈とがその閾を跨いだ時に、その少年がその言葉を讀み上げたものに違ひない。だが彼はどうしてその先を讀み續けないのか。

 母親は卓子の上にその仕事を置いて、顔に手を當てた。

 「どうも色が眼にさはつてねえ」と、彼女は云つた。

 色が? あゝ、可哀さうなちび・・のティムよ!

 「もうくなりましたよ」と、クラチツトの主婦かみさんは云つた。「臘燭の光では、黑い物は眼を弱らせるね。私は、阿父さんがお歸りの時分には、どんな事があつても、どんよりした眼をお目にかけまいと思つてるんだよ。そろそろもうお歸りの時分だね。」

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 「過ぎた位ですよ」と、ピータアは前の書物を閉ぢながら云つた。「だが、阿父さんはこの四五日今迄よりは少しゆつくり歩いて戻つてらつしやるやうだと思ひますよ、ねえ阿母さん。」

 彼等は又もやひつそりとなつた。が、漸くにして、彼女は云つた、それもしつかりした元氣の好い聲で--それは一度慄へただけであつた。--

 「阿父さんは好くちび・・のティムを肩車に乘せてお歩きになつたものだがねえ、それもずゐぶん速くさ。」

 「僕もおぼえてゐます」と、ピータアは叫んだ。「たびたび見ましたよ。」

 「わたしも覺えてゐますわ」と、他の一人が叫んだ。つまり皆が皆覺えてゐるのであつた。

 「何しろあの兒は輕かつたからね」と、彼女は一心に仕事を續けながら、再び云つた。「それに阿父さんはあの兒を可愛がつておいでだつたので、肩車に乘せるのがちつとも苦にならなかつたのだよ、些とも。あゝ阿父さんのお歸りだ!」

 彼女は急いで迎へに出た。そして、襟卷にくるまつた小ボブ--實際彼には慰安者(註、原語では襟卷と慰安者の兩語相通ず)が必要であつた、可哀さうに--が這入つて來た。彼のためにお茶が爐棚の上に用意されてゐた。そして、一同の者は誰が一番澤山彼にお茶の給仕をするかと、めいめい先を爭つてやつて見た。その時二人の小クラチツトどもは彼の膝の上に乘つて、それぞれその小さい頬を彼の顔に押し當てた--「阿父さん、氣に懸けないで頂戴ね、泣かないで下さいね」とでも云ふやうに。

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 ボブは彼等と一緒に愉快さうであつた。そして、家内中の者にも機嫌よく話しをした。彼は卓子の上の縫物を見やつた。そして、クラチツトのお主婦かみさんや娘どもの出精と手疾さとを褒めた。(そんなに精を出したら、)日曜日(註、この日が葬式の日と定められたものらしい)のずつと前に仕上げてしまふだらうよと云つたものだ。

 「日曜日ですつて! それぢやあなたは今日行つて來たんですね? ロバート」と、彼の妻は云つた。

 「あゝさうだよ」と、ボブは返辭をした。「お前も行かれると好かつたんだがね。あの青々した所を見たら、お前も嘸晴れ晴れしたらうからね。なに、これから度々見られるんだ。何時いつか私は日曜日には毎も彼処へ行く約束をあの子にしたよ。あゝ小さい、小さい子供よ」と、ボブは叫んだ。「私の小さい子供よ。」

 彼は急においおい泣き出した。どうしても我慢することが出來なかつたのだ。それを我慢することが出來るやうなら、彼とその子供とは、恐らくは彼等が現在あるよりもずつと遠く離れてしまつたことであらう。

 彼はその室を出て、階段を上つて二階の室へ這入つた。そこには景氣よく燈火あかりが點いて、聖降誕祭のお飾りが飾つてあつた。そこには又死んだ子の傍へくつ附けるやうにして、一脚の椅子が置いてあつた。そして、つい・・今し方迄誰かがそこに腰掛けてゐたらしい形跡があつた。憐れなボ

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ブはその椅子に腰を下ろした。そして、少時考へてゐた後で、やゝ氣が落ち着いた時、彼は死んだ子の冷たい顔に接吻した。かうして彼は死んだものはもう仕方がないと諦めた。そして、再び晴れやかな氣持になつて降りて行つた。

 一同の者は煖爐の周圍にかたまつて話し合つた。娘達と母親はまだ針仕事をしてゐた。ボブはスクルージの甥が非常に親切にしてくれたと一同の者に話した。彼とはやつと一度位しか會つたことがないのだが、今日途中で會つた時、自分が少し弱つてゐるのを見て、--「お前も知つての通り、ほん・・の少し許り弱つてゐたんだね」と、ボブは云つた。--何か心配なことが出來たのかと訊ねてくれた。「それを聞いて」と、ボブは云つた。「だつて、あの方はとても愉快に話しをする方だものね、そこで私も譯を話したのさ。すると、『そりや本當にお氣の毒だね、クラチツト君、貴方の優しい御家内のためにも心からお氣の氣だと思ふよ』と云つて下さつた。時に、どうしてあの人がそんな事を知つてゐるんだらうね? 私には分からないよ。」

 「何を知つてゐるのですつて、貴方?」

 「だつて、お前が優しいさいだと云ふことをさ」と、ボブは答へた。

 「誰でもそんなことは知つてますよ」と、ピータアは云つた。

 「よく云つてくれた、ピータア」と、ボブは叫んだ。「誰でも知つてゝ貰ひたいね。『貴方の優しい御家内のためには心からお氣の毒で』と、あの方は云つて下すつたよ。それから『何か貴方

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のお役に立つことが出來れば』と、名刺を下すつてね、『これが私の住居すまひです。何卒御遠慮なく來て下さい』と云つて下さつたのさ。私がそんなに喜んだのは、なにもあの方が私達のために何かして下さることが出來るからつてえんぢやない。いや、それもないことはないが、それよりもたゝあの方の親切が嬉しかつたんだよ、親切がさ。實際あの方は私達のちび・・のティムのことを好く知つてでもいらして、それで私達に同情して下さるのかと思はれる位だつたよ。」

 「本當に好い方ですね」と、クラチツトの主婦かみさんは云つた。

 「お前も會つて話しをして見たら、一層にさう思ふだらうよ」と、ボブは返辭をした。「私はね、あの方に賴んだら--いゝかい、お聞きよ--何かピータアに好い口を見附けて下さるやうな氣がするんだがね。」

 「まあ、あれをお聞きよ、ピータア」と、クラチツトの主婦かみさんは云つた。

 「そして、それから」と、娘の一人が叫んだ。「ピータアは誰かと一緒になつて、別に世帶を持つやうになるのだわね。」

 「馬鹿云へ!」と、ピータアはにたにた笑ひをしながら云ひ返した。

 「まあまあ、さう云ふことにもなるだらうよ」と、ボブは云つた。「いづれそのうちにはさ、尤も、それにはまだ大分時日があるだらうがね。併し何日いつどう云ふ風にして各自めいめいが別れ別れになるにしても、屹度うちの者は誰一人あのちび・・のティムのことを--うん、私達家族の間に起つた最初

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のこの別れを決して忘れないだらうよ--忘れるだらうかね。」

 「決して忘れませんよ、阿父さん!」と、一同異口同音に叫んだ。

 「そしてね、皆はあの子が--あんな小さい、小さい子だつたが--いかにも我慢強くて温和おとなしかつたことを思ひ出せば、さう安々とうちの者同志で喧嘩もしないだらうし、又そんな事をして、あのちび・・のティムを忘れるやうなこともないだらうねえ、私はさう思つてゐるよ。」

 「いゝえ、決してそんな事はありませんよ、阿父さん!」と、又一同の者が叫んだ。

 「私は本當に嬉しい」と、親愛なるボブは叫んだ。「私は本當に嬉しいよ。」

 クラチツトの主婦かみさんは彼に接吻した、娘達も彼に接吻した、二人の少年クラチツトどもも彼に接吻した。そして、ピータアと彼自身とは握手した。ちび・・のティムの魂よ、汝の子供らしき本質は神から來れるものなりき。

 「精靈殿!」と、スクルージは云つた。「どうやら私どもの別れる時間が近づいたやうな氣がいたします。そんな氣はいたしますが、どうしてかは私には分かりませぬ。私どもが死んでるのを見たあれは、どう云ふ人間だか、何卒教へて下さいませ。」

 未來の聖降誕祭の精靈は前と同じやうに--尤も、前と違つた時ではあつたがと、彼は考へた。實際最近に見た幻影は、すべてが未來のことであると云ふ以外には、その間に何の秩序もあるやうに見えなかつた--實業家達の集まる場所へ彼を連れていつた。が、彼自身の影は少しも

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見せてくれなかつた。實際精靈は何物にも足を留めないで、今所望された目的を指してでもゐるやうに、一直線に進んで行つた。たうとうスクルージの方で一寸待つて貰ふやうに賴んだものだ。

 「只今二人が急いで通り過ぎたこの路地は」と、スクルージは云つた。「私が商賣をしてゐる場所で、しかも長い間やつてゐる所で御座います。その家が見えます。未來に於ける私はどんな事になつてゐますか。何卒見せて下さいませ!」

 精靈は立ち停まつた。その手はどこか他の所を指してゐた。

 「その家は向うに御座います」と、スクルージは絶叫した。「何故なぜ貴方は他所よそを指すのですか。」

 頑として假借する所のない指は何の變化も受けなかつた。

 スクルージは彼の事務所の窓の所へ急いで、中を覗いて見た。それは矢張り一つの事務所ではあつた。が、彼のではなかつた。家具が前と同じではなかつた。椅子に掛けた人物も彼自身ではなかつた。精靈は前の通りに指さしてゐた。

 彼はもう一度精靈と一緒になつて、自分はどうして又何処へ行つてしまつたかと怪しみながら、精靈に隨いて行くうちに、到頭二人は一つの鐵門に到着した。彼は這入る前に、一寸立ち停つて、四邉あたりを見廻した。

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 墓場。此処に、その時、彼が今やその名を教へらるべきあの不幸なる男は、その土の下に横はつてゐたのである。それは結構な場所であつた。四面家に取りかこまれて、生ひ茂る雜草や葭に蔽はれてゐた。その雜草や葭は植物の生の産物でなく、死の産物であつた。又餘りに人を埋め過ぎるために息の塞るやうになつてゐた。そして、滿腹のために肥え切つてゐた。誠に結構な場所であつた。

 精靈は墓の間に立つて、その中の一つを指差した。彼はぶるぶる慄へながらその方に歩み寄つた。精靈は元の通りで寸分變る所はなかつた。而も彼はその嚴肅な姿形に新しい意味を見出したやうに畏れた。

 「貴方の指していらつしやるその石の傍へ近づかないうちに」と、スクルージは云つた、「何卒一つの質問に答へて下さい。これ等は将來本當にある物の影で御座いませうか、それともたゞ單にあるかも知れない物の影で御座いませうか。」

 精靈は、依然として自分の立つて居る傍の墓石の方へ指を向けてゐた。

 「人の行く道は、それに固守して居れば、どうして或定まつた結果に到達する--それは前以て分りもいたしませう」と、スクルージは云つた。「が、その道を離れてしまへば、結果も變るものでせう。貴方が私にお示しになることに就ても、さうだと仰しやつて下さいな!」

 精靈は依然として動かなかつた。

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 スクルージはぶるぶる慄へながら、精靈の方に這ひ寄つた。そして、指の差す方角へ眼で從ひながら、打捨り放しにされたその墓石の上に、「エベネザア・スクルージ」と云ふ自分自身の名前を讀んだ。

 「あの寝床の上に横はつてゐた男は私なのですか」と、彼は膝をついて叫んだ。

 精靈の指は墓から彼の方に向けられた、そして又元に返つた。

 「いえ、精靈殿、おゝ、いえ、いゝえ!」

 指は矢張りそこにあつた。

 「精靈殿!」と、彼はその衣にしつかり噛じりつきながら叫んだ。「お聞き下さい! 私はもう以前の私では御座いません。私はかうやつて精靈様方とお交りをしなかつたら、なつた筈の人間には斷じてなりませんよ。で、若し私に全然見込みがないものなら、何故こんなものを私に見せて下さるのです?」

 この時始めてその手は顫へるやうに見えた。

 「善良なる精靈殿よ」と、彼は精靈の前の地に領伏ひれふしながら言葉を續けた。「貴方は私のために取り做して、私を憐れんで下さいます。私はまだ今後の心を入れ代へた生活に依つて、貴方がお示しになつたあの幻影を一變することが出來ると云ふことを保證して下さいませ!」

 その親切な手はぶるぶると顫へた。

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 「私は心の中に聖降誕祭を祝ひます。そして、一年中それを守つて見せます。私は過去にも、現在にも、未來にも(心を入れ代へて)生きる積りです。三人の精靈方は皆私の心の中にあつて力を入れて下さいませう。皆様の教へて下すつた教訓を閉め出すやうな眞似はいたしません。おゝ、この墓石の上に書いてある文句を拭き消すことが出來ると仰しやつて下さい!」

 苦悶の餘りに、彼は精靈の手を捕へた。精靈はそれを振り放たうとした。が、彼も懇願にかけては強かつた。そして、精靈を引き留めた。が、精靈の方はまだまだ強かつたので、彼を刎ね退けた。

 自己の運命を引つ繰り返して貰ひたさの最後の祈誓に兩手を差上げながら、彼は精靈の頭巾と着物とに一つの變化を認めた。精靈は縮まつて、ひしやげて、小さくなつて、一つの寝臺の上支へになつてしまつた。



第五章 大團圓

 さうだ! しかもその寝臺の柱は彼自身の所有ものであつた。寝臺も彼自身のものなら、部屋も彼自身のものであつた。別けても結構で嬉しいことには、彼の前にある時が、その中で埋め合せをすることの出來るやうな、彼自身のものであつた。

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 「私は過去に於ても、現在に於ても、又未來に於ても生きます!」と、スクルージは寝臺から這ひ出しながら、以前の言葉を繰り返した。「三人の精靈は私の心の中に在つて皆力を入れて下さるに違ひない。おゝ、ジエコブ・マアレイよ。この事のためには、神も聖降誕祭の季節も、褒め讚へられてあれよ。私は跪いてかう申上げてゐるのだ、老ジエコブよ、跪いてからに!」

 彼は自分の善良な企圖に昂奮し熱中するのあまり、聲まで途切れ途切れになつて、思ふやうに口が利けない位であつた。先刻さつき精靈といがみ合つてゐた際、彼は頻りに啜り泣きをしてゐた。そのために彼の顔は今も涙で濡れてゐた。

 「別段引き千斷られてはゐないぞ」と、スクルージは兩腕に寝臺の帷幄の一つを抱へながら叫んだ。「別段引き千斷られてはゐないぞ、鐶も何も彼も。みんな此処にある--私も此処に居る--(して見ると、)あゝ云ふ事になるぞと云はれた物の影だつて、消せば消されないことはないのだ。うむ、消されるとも屹度消されるとも!」

 その間彼の手は始終忙しさうに着物を持て扱つてゐた。それを裏返して見たり、上下逆様に着て見たり、引き千斷つたり、置き違へたりして、ありとあらゆる目茶苦茶のことに仲間入りをさせたものだ。

 「どうしていゝか分からないな!」と、スクルージは笑ひながら、同時に又泣きながら喚いた。そして、靴下を相手にラオコーンそつくりの様子をして見せたものだ。「俺は羽毛はねのやうに輕い、

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天使のやうに樂しく、學童のやうに愉快だよ。俺は又醉漢よつぱらひのやうに眼が廻る。皆さん聖降誕祭お目出度う! 世界中の皆さんよ、新年お目出度う! いよう、こゝだ! ほーう! ようよう!」

 彼は居間の中へ跳ね出した。そして、すつかり息を切らしながら、今やそこに立つてゐた。

 「粥の入つた鍋があるぞ」と、スクルージは又もや飛び上がつて、煖爐の周りを歩きながら呶鳴つた。「あすこに入口がある、あすこからジエコブ・マアレイの幽靈は這入つて來たのだ! この隅にはまた現在の聖降誕祭の精靈が腰掛けてゐたのだ! この窓から俺はさまよへる幽靈どもを見たのだ! 何も彼もちやんとしてゐる、何も彼も本當なのだ、本當にあつたのだ。はッ、はッ、はッ!」

 實際あんなに幾年も笑はずに來た人に取つては、それは立派な笑ひであつた、この上もなく華やかな笑ひであつた。そして、これから續く華やかな笑ひの長い、長い系統の先祖になるべき笑ひであつた!

 「今日は月の幾日か俺には分らない」と、スクルージは云つた。「どれだけ精靈達と一緒に居たのか、それも分らない。俺には何にも分らない。俺はすつかり赤ん坊になつてしまつた。いや、氣に懸けるな。そんな事構はないよ。俺はいつそ赤ん坊になりたい位のものだ。いよう! ほう! いよう、こゝだ!」

 彼はその時教會から打ち出した、今迄聞いたこともないやうな、快い鐘の音に、その恍惚状態

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を破られた。カーン、カーン、ハムマー。ヂン、ドン、ベル。ベル、ドン、ヂン。ハムマー、カーン、カーン。おゝ素敵だ! 素敵だ!

 窓の所へ驅け寄つて、彼はそれを開けた、そして、頭を突き出した。霧もなければ、靄もない。澄んで、晴れ渡つた、陽氣な、賑やかしい、冷たい朝であつた。一緒に血も踊り出せとばかり、ピューピュー風の吹く、冷い朝であつた。金色の日光。神々しい空、甘い新鮮な空氣。樂しい鐘の音。おゝ素敵だ! 素敵だ!

 「今日は何かい」と、スクルージは下を向いて、日曜の晴れ着を着た少年に聲を掛けた。恐らくこの少年はそこいらの様子を見にぼんやり這入り込んで來たものらしい。

 「えゝ?」と、少年は驚愕のあらゆる力を籠めて聞き返した。

 「今日は何かな、阿兄にいさん」と、スクルージは云つた。

 「今日!」と、少年は答へた。「だつて、基督降誕祭ぢやありませんか。」

 「基督降誕祭だ!」と、スクルージは自分自身に對して云つた。「私はそれを失はずに濟んだ。精靈達は一晩の中にすつかりあれを濟ましてしまつたんだよ。何だつてあの方々は好きなやうに出來るんだからな。勿論出來るんだとも。勿論出來るんだとも。いよう、阿兄にいさん!」

 「いよう!」と、少年は答へた。

 「一町おいて先の街の角の鳥屋を知つてゐるかね」と、スクルージは訊ねた。

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 「知つてゐるともさ」と、少年は答へた。

 「悧巧な子ぢや!」と、スクルージは云つた。「眞個まつたくえらい子ぢや! どうだい、君は彼処に下がつてゐた、あの賞牌を取つた七面鳥が賣れたかどうか知つてゐるかね。--小さい方の賞牌つき七面鳥ぢやないよ、大きい方のだよ?」

 「なに、あの僕位のつかいのかい」と、少年は聞き返した。

 「何て愉快な子供だらう!」と、スクルージは云つた。「この子と話しをするのは愉快だよ。あゝさうだよ! 阿兄にいさん!」

 「今でも彼処に下がつてゐるよ」と、少年は答へた。

 「下がつてるつて?」と、スクルージは云つた。「さあ行つて、それを買つて來ておくれ。」

 「御戯談でしよ」と、少年は呶鳴つた。

 「いや、いや」と、スクルージは云つた。「私は眞面目だよ。さあ行つて買つて來ておくれ。そして、此処へそれを持つて來るやうに云つておくれな。さうすりや、私が使の者にその届け先を指圖してやれるからね。その男と一緒に歸つてお出で、君には一志上げるからね。五分經たないうちに、その男と一緒に歸つて來ておくれ、さうしたら半クラウンだけ上げるよ。」

 少年は彈丸たまのやうに飛んで行つた。この半分の速力で彈丸を打ち出すことの出來る人でも、引金を握つては一ぱし確かな腕を持つた打ち手に相違ない。

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 「ボブ・クラチツトの許へそれを送つてやらうな」と、云ひながら、スクルージは兩手をこすり擦り腹の皮を撚らせて笑つた。「誰から贈つて來たか、相手に分つちやいけない。ちび・・のティムの二倍も大きさがあるだらうよ。ジヨー・ミラー(註、「ジヨー・ミラー滑稽集」の著者)だつて、ボブにそれを贈るやうな戯談をしたことはなかつたらうね。」

 ボブの宛名を書いた手蹟は落着いてはゐなかつた。が、兎に角書くには書いた。そして、鳥屋の若い者が來るのを待ち構へながら、表の戸口を開けるために階子段を降りて行つた。そこに立つて、その男の到着を待つてゐた時、彼は不圖戸敲きに眼を着けた。

 「俺は生きてる間これを可愛がつてやらう!」と、スクルージは手でそれで撫でながら叫んだ。「俺は今迄殆どこれを見ようとしたことがなかつた。いかにも正直な顔附きをしてゐる! 眞個まつたく素晴らしい戸敲きだよ! いよう。七面鳥が來た。やあ! ほう! 今日は! 聖降誕祭お目出度う!」

 それは確かに七面鳥であつた。此奴こいつあ自分の脚で立たうとしても立てなかつたらうよ、この鳥は。(立つた處で、)一分も經たない間に、その脚は、封臘の棒のやうに、中途からぽき・・と折れてしまふだらうよ。

 「だつて、これをカムデン・タウンまで擔いぢや迚も行かれまい」と、スクルージは云つた。「馬車でなくちや駄目だらうよ。」

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 彼はくすくす笑ひながら、それを云つた。くすくす笑ひながら、七面鳥の代を拂つた。くすくす笑ひながら、馬車の代を拂つた。くすくす笑ひながら少年に謝禮をした。そして、そのくすくす笑ひを壓倒するものは、たゞ彼が息を切らしながら再び椅子に腰掛けた時のそのくすくす笑ひばかりであつた。それから、あまりくすくす笑つて、たうとう泣き出した位であつた。

 彼の手は何時迄もぶるぶる慄え續けてゐたので、髯を剃るのも容易なことではなかつた。髯剃りと云ふものは、たとひそれをやりながら踊つてゐない時でも、なかなか注意を要するものだ。だが、彼は(この際)鼻の先を切り取つたとしても、その上に膏藥の一片でも貼つて、それですつかり滿足したことであらう。

 彼は上から下まで最上の晴れ着に着更へた。そして、たうとう街の中へ出て行つた。彼が現在の聖降誕祭の幽靈と一緒に出て見た時と同じやうに、人々は今やどしどしと街上に溢れ出してゐた。で、スクルージは手を背後にして歩きながら、いかにも嬉しさうな微笑を湛へて通行の誰彼を眺めてゐた。彼は、一口に云へば、抵抗し難い程愉快さうに見えた。そのためか、三四人の愛嬌者が、「旦那お早う御座います! 聖降誕祭お目出度う!」と聲を掛けた。その後スクルージは好く云つたものだ。「今迄聞いたあらゆる愉快な音響の中でも、この言葉が自分の耳には一番愉快に響いた」と。

 まだ遠くも行かないうちに、向うから例の恰服かつぷくの好い紳士がこちらへやつて來るのを見た。前

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の日彼の事務所へ這入つて來て、「こちらはスクルージさんとマアレイさんの商會ですね?」と訊いたあの紳士である。二人が出會でくわしたら、あの老紳士がどんな顔をして自分を見るだらうかと思ふと彼は胸にずきり・・・と傷みを覺えた。而も彼は自分の前に眞直に横はつてゐる道を知つてゐた。そして、それに從つた。

 「もしもし貴方」と、スクルージは歩調を早めて老紳士の兩手を取りながら云つた。「今日は? 昨日は好い工合に行きましたか。眞個まつたく親切に有難う御座いましたね。聖降誕祭お目出たう!」

 「スクルージさんでしたか。」

 「さうですよ」と、スクルージは云つた。「仰しやる通りの名前ですが、どうも貴方には面白くない感じを與へませうね? ですが、まあどうか勘辨して下さい。それから一つお願ひが御座いますがね--」こゝでスクルージは何やら彼の耳に囁いた。

 「まあ驚きましたね!」と、かの紳士は呼吸いきが絶えでもしたやうに叫んだ。「スクルージさん、そりや貴方本氣ですか。」

 「何卒」と、スクルージは云つた。「それより一文も缺けず、それだけお願ひしたいので。尤も、それには今迄何度も不拂いになつてゐる分が含まれてゐるんですがね。で、その御面倒を願はれませうか。」

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 「もし貴方」と、相手は彼の手を握り緊めながら云つた。「かやうな御寛厚なお志に對しましては、もう何と申上げて宜しいやら、私には--」

 「もう何も仰しやつて下さいますな」と、スクルージは云ひ返した。「一度來て下さい。一度手前どもへいらして下さいませんでせうか。」

 「伺ひますとも」と、老紳士は叫んだ。そして、彼がその積りでゐることは明白であつた。

 「有難う御座います」と、スクルージは云つた。「本當に有難う御座います。幾重にもお禮を申上げますよ。それではお靜かに!」

 彼は教會へ出掛けた。それから街々を歩き廻りながら、あちこちと忙しさうにしてゐる人々を眺めたり、子供の頭を撫でたり、乞食に物を問ひ掛けたり、家々の臺所を覗き込んだり、窓を見上げたりした。そして、何を見ても何をしても愉快になるものだと云ふことを發見した。彼はこれ迄散歩なぞが--いや、どんな事でもこんなに自分を幸福にしてくれることが出來ようとは夢にも想はなかつた。午後になつて、彼は歩みを甥の家に向けた。

 彼は近づいて戸を敲くだけの勇氣を出す前に、何度も戸口を通り越したものだ。が、勇を鼓してたうとうそれをやつ附けた。

 「御主人は御在宅かな」と、スクルージは出て來た娘に云つた。好い娘だ! 本當に。

 「いらつしやいます。」

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 「何処においでかね」と、スクルージは訊いた。

 「食堂にいらつしやいます、奥様と御一緒に。それでは、お二階に御案内申しませう。」

 「有難うよ。御主人はわしを知つてだから」と、スクルージはもう食堂の錠の上に片手を懸けながら云つた。「すぐにこの中に這入つて行くよ、ねえ。」

 彼はそつとそれを廻はした。そして、戸を周つて顔だけはすにして入れた。彼等は食卓を眺めてゐる處であつた、(その食卓は大層立派に飾り立てられてゐた。)と云ふのは、かう云つたやうな若い世帶持ちと云ふものは、かう云ふ事に懸けてはいつでも神經質で、何も彼もちやん・・・となつてゐるのを見るのが所好すきなものであるからである。

 「フレツド!」と、スクルージは云つた。

 あゝ膽が潰れた! 甥の嫁なる姪の驚き方と云つたら! スクルージは、一寸の間、足臺に足を載せたまゝ片隅に腰掛けてゐた彼女のことを忘れてしまつたのだ。でなければ、どんな事があつてもそんな眞似はしなかつたであらう。

 「あゝ吃驚した!」と、フレツドは叫んだ。「そこへ來たのは何誰どなたです?」

 「私だよ。伯父さんのスクルージだよ。御馳走になりに來たんだ。お前入れて呉れるだらうね、フレツド?」

 入れて呉れるだつて! 彼は腕を振り千斷ちぎられないのが切めてもの仕合せであつた。五分間の

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うちに、彼はもう何の氣兼ねもなくなつてゐた。これ程誠意の籠つた歡迎は又と見られまい。彼の姪は(彼が夢の中で見たと)すつかり同じやうに見えた。トッパーが這入つて來た時も、さうであつた。あの肥つた妹が這入つて來た時も、さうであつた。來る人來る人皆がさうであつた。素晴らしい宴會、素晴らしい勝負事、素晴らしい和合、素―晴―ら―し―い幸福!

 しかも明くる朝早く彼は事務所に出掛けた。おゝ實際彼は早くからそこに出掛けた。先づ第一にそこへ行き着いて、後れて來るボブ・クラチツトを捕へることさえ出來たら! これが彼の一生懸命になつた事柄であつた。

 そして、彼はそれを實行した、然り、彼は實行した! 時計は九時を打つた。ボブはまだ來ない。十五分過ぎた。まだ來ない。彼は定刻に後るゝこと正に十八分と半分にして、やつとやつて來た。スクルージは、例の大桶の中へボブの這入るところが見られるやうに、合の戸を開け放したまゝ腰掛けてゐた。

 彼は戸口を開ける前に帽子を脱いだ。襟卷も取つてしまつた。彼は瞬く間に床几に掛けた。そして、九時に追ひ着かうとでもしてゐるやうに、せつせと鐵筆ペンを走らせてゐた。

 「いよう!」と、スクルージは成るたけ平素の聲に似せるやうにして唸つた。「どう云ふ積りで君は今時分こゝへやつて來たのかね。」

 「誠に相濟みません、旦那」と、ボブは云つた。「どうも遲なりまして。」

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 「遲いね!」と、スクルージは繰り返した。「實際、遲いと思ふね。まあ君こゝへ出なさい。」

 「一年にたつた一度の事で御座いますから」と、ボブは桶の中から現はれながら辯解した。「二度ともうこんな事は致しませんから。どうも昨日は少し騒ぎ過ぎたのですよ、旦那。」

 「では、眞實ほんたうの處を君に云ふがね、君」と、スクルージは云つた。「わしはもうこんな事には一日も耐へられさうにないよ。そこでだね」と續けながら、彼は床几から飛び上がるやうにして、相手の胴衣チヨツキの邉りをぐい・・と一本突いたものだ。その結果、ボブはよろよろとして、再び桶の中へ蹣跚よろめき込んだ。「そこでだね、俺は君の給料を上げてやらうと思ふんだよ。」

 ボブは顫へ上がつた。そして、少し許り定規の方へ近寄つた。それで以つてスクルージを張り倒して、抑え附けて、路地の中を歩いてゐる人々に助けを喚んで、狹窄衣でも持つて來て貰はうと咄嗟に考へたのである。

 「聖降誕祭お目出たう、ボブ君!」と、スクルージは相手の背中を輕く打ちながら、間違へやうにも間違へやうのない熱誠を籠めて云つた。「この幾年もの間俺が君に祝つて上げたよりも一層目出たい聖降誕祭だよ、えゝ君。俺は君の給料を上げて、困つてゐる君の家族の方々を扶けて上げたいと思つてゐるのだがね。午後になつたら、すぐにも葡萄酒の大盃を擧げて、それを飲みながら君のうちのことも相談しようぢやないか、えゝボブ君! 火を拵へなさい。それから四の五の云はずに大急ぎでもう一つ炭取りを買つて來るんだよ、ボブ・クラチツト君!」

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 スクルージは彼の言葉よりももつと好かつた。彼は凡てその約束を實行した。いや、それよりも無限に多くのものを實行した。そして、實際は死んでゐなかつたちび・・のティムに取つては、第二の父となつた。彼はこの好い古い都なる倫敦にも嘗てなかつたやうな、或ひはこの好い古い世界の中の、その他の如何なる好い古い都にも、町にも、村にも嘗てなかつたやうな善い友達ともなれば、善い主人ともなつた、又善い人間ともなつた。或人々は彼がかく一變したのを見て笑つた。が、彼はその人々の笑ふに任せて、少しも心に留めなかつた。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云ふものは、その起り始めには屹度誰かが腹を抱へて笑ふものだ、笑はれぬやうな事柄は一つもないと云ふことをちやん・・・と承知してゐたからである。そして、そんな人間はどうせ盲目・・だと知つてゐたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするやうに、他人ひとを笑つて眼に皺を寄せると云ふことは、それも誠に結構なことだと知つてゐたからである。彼自身の心は晴れやかに笑つてゐた。そして、かれに取つてはそれでもう十分であつたのである。

 彼と精靈との間にはそれからもう何の交渉もなかつた。が、彼はその後ずつと禁酒主義の下に生活した。そして、若し生きてゐる人間で聖降誕祭の祝ひ方を知つてゐる者があるとすれば、あの人こそそれを好く知つてゐるのだと云ふやうなことが、彼に就て終始云はれてゐた。吾々に就ても、さう云ふことが本當に云はれたら可かろうに--吾々總てに就ても。そこで、ちび・・のティムも云つたやうに、神よ。吾々を祝福し給へ--吾々總ての人間を!


森田草平

1881-1949。小説家。本名米松。岐阜県方県郡鷺山村(現在の岐阜市鷺山)に生まれた。海軍に志したのち、第四高等学校、第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。文学への開眼は森鴎外の『水沫(みなわ)集』に接してなされ、生田長江らと回覧雑誌『夕づゝ』を出し、また植田敏、馬場孤蝶らの同人雑誌『芸苑』に加わったりした。1904(明治37)年夏目漱石の木曜会に出席しはじめ、その影響下に文壇人となった。夏目漱石に師事し、漱石門の四天王に数えられた。処女作である出世作は、漱石の推薦によって『朝日新聞』に書いた『煤煙』(1909) で、これは平塚らいてうとの恋愛事件の体験を描いたものであった。その後漱石担当の『朝日新聞』文芸欄の編集を助け、作品も『自叙伝』(1911)、『初恋』(同)、『十字街』(1912) などを出した。戯曲には『袈裟御前』(1913) がある。このころから創作上の行き詰まりを感じて翻訳に転じた。ゴーゴリの『死せる魂』、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』をはじめ各国の作品を手がけた。イプセン、ドストエフスキー、ゴーゴリなどの海外文学は、森田草平によって訳され日本に紹介された。1920(大正9)年法政大学文学部教授の職に就いた。創作に復帰したのは自伝的小説『輪廻』(1925-26) をもってで、その内容は『煤煙』の前編に位置すべきものであった。作者の最もすぐれた代表作である。そのほか歴史小説『吉良家の人々』(1929)、『四十八人目』(同)、『細川ガラシヤ夫人』(1948) などがある。晩年は共産党に入り、その情熱は人を驚かせた。漱石門下の小説家としては鈴木三重吉と双璧をなす。ただし作風は対照的である。平坦な自然主義的筆致を越えて鈍重なまでにエネルギッシュであり、情熱を込めて意志的に自己を生かす迫力に特色がある。また『夏目漱石』正・続の著もある。1949(昭和24)年12月14日、「夏目漱石の永遠の弟子」という意識を持ち続けた生涯を終えた。岐阜市鷺山にある森田草平出生地の屋敷跡には、その業績をたたえた文学碑が建てられている。